分け入っても分け入っても本の森

本読む日々のよしなしごとをそこはかとなく♪

●大晦日

2007年12月31日 23時59分59秒 | memo
大晦日の夜は、除夜の鐘の後にTVでベルリン・フィルのジルベスタ中継を聴いて。。。zzz
聴きながら、お猪口2杯の梅酒に沈没したぼく。(この記事は後書きです)

---

今年印象的だった新刊は、平岩弓枝の「西遊記」。
映画は、「ブラッド・ダイヤモンド」です。
 

●末法の世

2007年12月22日 22時18分30秒 | opinion
前世がどうしたとか、オーラだとかスピリチュアルだとか――書店にコーナーまであるのだから、ぐったり。


300年後に日本史を学習したら、今の時代は「末法の世」ということにでもなっているのでは。
平安後期~鎌倉第一末法、平成第二末法、とか。(もはや、あきれてこれ以上語る元気も無し)
 

●追補

2007年12月16日 23時39分00秒 | opinion
「世の中の役に立つ人になりたい、役に立つことがしたい」というと「立派な志」のようですけれど、そんなもの野心に他なりません。
流行の言い方をするなら、「自分は高貴な『お役目』を持って生まれた人間である」と他者に優越するため、したいがため――いうまでもなく「名誉欲」のタテマエ。

そもそも、「役に立つ」の定義とは何なのか。
生活の利便性ばかり求めて「役に立つ」といって喜んでいるのなら、ちゃんちゃらおかしいです。
そういう一部、もしくは大部の大人(たち)の浅はかさが、何の疑問もなさ気に「これを勉強したら何か役に立つのですか」などと落ちぶれ果てた疑問を平気でほざく子供たちを育てる土壌になっているのでしょう。


「役に立つ」なんていうのは、純粋な勉強、研究の結果、もしくは副産物です。
ただ、必ずしもそうばかりも言ってられないのが法学や医学の分野なので、それらを学問の中で考えるときにとても違和感があるというか、異端の分野である由縁です。

やはりぼくは、数学や哲学の方が自分でやるなら断然好き♪

●ひつじ豆

2007年12月15日 23時05分25秒 | Weblog
忙しがっていて、ここに書き込む余裕がないと言い訳したいのは、どういう心理なのかな。(自問)

忙しがっている上に出不精で疲れやすいのですけれど、友人に会ったりもしていました。
その際に、お土産をもらいました。
羊の(油で)味付けをした中国の串豆です。
珍しい♪
(一見すると、ジャーキーの串みたいなのです。食感も似ているかも?)

味は、なんというか辛過ぎてよくわからないです。それほど辛かったです。(^^;

友人(の存在)に理由はないです、ぼく。
自分にメリットのある人と理由付けでしか付き合わない人もいると思いますけれど、ぼくはそうではありません。
ぼくは、ぼくの学問と芸術と人間(関係)には理由や動機がありません。
そういうものがあると、すぐにイヤになってしまうのです。
イヤになると世俗的にどういうメリットがあっても、ぜったいに動きたくなくなりますし。

純粋であるということは動機がないということです。
(「世の中の役に立つ人になりたい、役に立つことがしたい」という不純な動機を持ちたがるやらしい人たちとは、まったく合わないのです)

澄んだ水にしか棲めないとなると、この世で生きていけないということになりますけど――それに近いところが、ぼくにはあります。(経験からわかりました)
だから強くならないと。(握りこぶし)

まだ、いっぱい書きたいことはあるのですけれど、次回。