納戸のどこかに埋もれていた「バビル2世」を発掘してきて読みました♪
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1月4日の茂木健一郎ブログの内容で、修辞的にではなく実存生理的に嘔吐を催し、ずっと具合が悪くなってたまりませんでした。
いったい何の特権意識なのか、これはどういう青臭さなのか、自分だけは世俗の便宜や方便から逃れたところにいる「権利がある」とでも……(この人は、ぼくよりずっと年齢は上のはずなのに、なんてハナモチナラナイ)。
苦手だなあ、こういうタイプの……茂木大輔もそう。茂木という名字で共通項あるわけなし。
齋藤孝も、「国家の品格」の藤原正彦も、何だろう啓蒙したがりの胡散臭さときたら。(*1)
こういう、「下々のみなさんを導かねば」という考えや見下し行動(=著作)は、どこから来るのかな。
正気でやっているのかしら。
(藤原正彦は「国家~」より前の、「天才の栄光と挫折」などは、とても面白いです)
*1 「国家の品格」には、外部からのまともな批判を見ないのに、藤原正彦自身は自著への批判を分析していました。(もう、気が遠くなりそう)
あれ「国家の品格」は、ものすごく片手落ちの内容です(その点については書こうと思いながら、まだ)……あれに傾倒する人たちは、似ているのだなあ……司馬遼太郎の歴史観を自分の歴史観に据えて摺り替えて疑問を抱かないタイプに。
齋藤孝の「三色ボールペン」も、藤原正彦の「国家~」も、本質的には「小学生の頃に習得すべきレベル(というか常識)」です。教科書読解のテクニックや、歴史観のベースになるような知識は、主に小学校時代に学習するものなのです。その頃の知識や思考の記憶は後年いつまでも忘れ得ぬので、今もぼくはそこにフィードバックして頼ることは多いです。それを大人になってはじめて啓蒙されたというなら、子供の頃にいかに勉強していなかったか、ものを考えていなかったかということでしょう。
それに、三色は大学も学部を出る前には卒業すべきでしょう。鉛筆1本で書き込みのライン分けできないなんて、かっこ悪いです。具体的には、1本アンダー(傍線)、2本アンダー(傍線)、波アンダー(傍線)、単語囲みなどで時間短縮できる上、後から消しゴムも効きます。
楽譜への書き込みだって、色分けするのは小さな子だけです。大きくなったら4Bの鉛筆1本で、まあ専用の記号もあるわけですが、さまざまな書き分けをできるようになります。ぼくは本には2B、楽譜には4Bを使います。