分け入っても分け入っても本の森

本読む日々のよしなしごとをそこはかとなく♪

●スカシカシパン

2008年02月26日 17時23分00秒 | memo
ローソンで売っているスカシカシパンは、はじめからパン(bread)だと思っていました、ぼく。

 http://www.pa.qsr.mlit.go.jp/gityou/ikimono/dic/088.html
 http://www.aquamuseum.net/content/aquarium/uni/kasipan-1.html

がーん!(2・26事件)
 

●池田理代子

2008年02月03日 23時27分10秒 | 漫画
(週刊新潮1月24日号の記事って、今ごろどうして)

池田理代子の「聖徳太子」は盗作か。

結論からいって、どうにもごまかしようがないではありませんか。
池田理代子の「聖徳太子」をはじめて読んだときの、遠くからの冷たい風が心を吹き抜けて行くような、やりきれない寂しさを覚えています。(ちょっとだけ)
なぜなら、これは不倒の「ベルサイユのばら」をものした人の手によってなされたことなのです。

どうしてこんなことを――。
その理由も、ぼくには痛いほどわかります。
かつて、それに匹敵する天啓を得たればこそ、「日出処の天子」という作品の天啓が山岸涼子のもとへ降りていったことは妬ましくてしかたなく、「わたしならもっと上手く描ける」という思い込みに転化していったはずです。(残念ながら、そこには描き手の性関係の洞察力レベルに大きな誤算がありましたが)


林真理子が『ルンルン~』を書いたことで<三十年間左うちわで暮らす権利がある>なら、池田理代子は「ベルサイユのばら」をものしただけで、一生左うちわの権利があるといえるでしょう。
当時、あの未熟な絵をもってしても、それほどの作品であり、作家「でした」。

いまや「ベルサイユのばら」は池田理代子の基盤ともなり(何度目かの結婚をされ、声楽をものされてもいますが)、姿を変えて版を重ね、サブブック、追加エピソードの数々を出版させ、宝塚での上演を重ねて、その付加価値を拡大させています。
熱心なファンなれば、それを追うこともやぶさかならず、といったところ。
しかし、そこに一抹の空しさがつきまとうのも、見る人が見れば世の常です。

――何をいいたいのかな、ぼくは。

そう、作家の霊媒性について。作家がその作品について語る内容は、必ずしも信用ならないということについて。作家は必ずしも作品を理解していないことについて(だからこそ「研究」が成り立つのです)。作品は作家を媒体にするけれど、そう――天啓ともいえるような作品とはどこから来るのか、について。

(禁断の壺に突っ込みかけたので、以下方向転換)

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「オルフェウスの窓」をして「(少しは)描けるようになったと思った」などという池田理代子の弁など信用なりません。
なぜなら、あれは当初オスカルの再来を思わせたヒロイン、ユリウスが「お人形さん」の女へと変化していった過程で、中途半端な歴史物だか恋愛物だかわからないシロモノに成り果てました。
人物の描写(絵)も上達と反比例するかのごとく品が堕ちていったのは周知の事実。
表情に乏しい目。情に薄い固い唇、顔の輪郭。鼻の下の意味不明な横棒影使いの描写、などなど。

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それにしても、どうして池田理代子は自らを堂々と「漫画家」と名乗らず「劇画家」と記させるのでしょうね。
大学教授の肩書きを持った人に帯を書いてもらいたがるのでしょうね。

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「ベルサイユのばら」が映画化されたとき、ぼくはまだほんの小さなヨンダでしたが、オスカル役のオーディションについてテレビで放映されたときの作者の姿を見て落ち込みました。
だって、そこにいたのは、「わたしは何もわかりませんので♪(お任せしていますの)」なんて見合いに臨んだ嫁入り前の小娘のようなブリッコした池田理代子がバッチリメイク(化粧)で真っ赤な唇と真っ赤な帯で白いドレス(ワンピース)に身を包んでいたからです。

そして誰もが首をひねったカトリオーナ・マッコールという、どうしてもオスカルにイメージの重ならない女優が抜擢された理由ですが、それはあのオーディション放映のとき池田理代子の横にいた男が、おそらくカギを握っていたのでしょう。
なんと見る目のない男でしょうか。(しつこいですけれど、ぼくは学校へも上がらない頃だったので、それが誰だかわからないのですけれど見ただけで大嫌いな「ほんとうのものを何もわかっていない」男だと思いました。そして、そんな男に媚びるかのような池田理代子が嫌だったのです)

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「ベルサイユのばら」は素晴らしい漫画で、その後の池田理代子の作品、素行がどうあれ、その価値を損なうことはできません。

その作品中、マリア・テレジアをしてフランス王妃となったマリー・アントワネットの肖像画に、「これはフランス王妃の肖像画なんかじゃなくて はでにきかざった女優の肖像画でしかありません!このように おそろしく けばけばしく かざりたてているのが わたしの娘だなんて!」(表記ママ)と言わしめるシーンがあり、印象的なのです。

その場面を描いた池田理代子は今、声楽家として誰より飾り立てた衣装でポートレートになっています。

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あるコンサート会場、ホワイエで至近距離で池田理代子にすれ違いました。本人の出演するコンサートではありませんでした。
ブラウン管やスクリーンで見る姿より実像が貧相な有名人は多いですが、彼女はグラビア映りと変わらぬ華やかな様子に見えました。
思わず見とれたぼくは次の瞬間、恐ろしい表情で池田理代子その人から睨み返されました。それはなぜか、ほとんど敵意に満ちているといってもよいくらいの表情でした。
一瞬、ひるみました。
他人に対して、意図的にも無意識にも失礼な態度をとるタイプではないと、自分のことを思っていたから、ではなく。
なぜか――。
池田理代子作品を彩るある種の虚飾に満ちた意地の悪い女性軍が、そのとき同時にぼくの頭をかすめていったからです。


余談ですが、その出来事と同じ頃、あるホテルのロビーで櫻井よしこにぶつかりそうになったことがあり、「失礼」と言いかけたぼくに、櫻井よしこは表面的なだけではない柔和さ(=強さ)で、しっかり微笑みかけて去っていきました。飾らぬ余裕と品位を漂わせた姿はさっそうとして、どこか愉快なものでした。

脈絡もないことながら、あまりに対照的だったので忘れ難い印象となっています。