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●四川大地震~村上春樹~音楽

2008年05月12日 23時29分20秒 | 文学
薄ぼんやりした春の空が例年にもまして重たく、何だろう何だろうと頭痛に苦しんでいると、シューマンの交響曲第一番第三楽章が頭の中で回り出したので、CDラックのどこかにあったはずだと探してみたりしたのです。

中国四川省で大地震が発生しました。
とても大変なことで、被災した人、パンダたちのことを思うと、ほんとうに胸が締め付けられますが、不謹慎なようですが、そうではなく――「これか」と思ったのです。
大地震のニュースを聞いて、「これか」とぼくは思ったのです。
どうしてかな。

桜霞のころから、ぼくの頭痛はひどくなって、シューマンの交響曲第一番は頭の中で繰り返し続け、相矛盾するようですがシューマンの交響曲をぼくは大好きで、でも気分は鬱々。
シューマンの交響曲第一番第三楽章は2008年の春を予感していたものかとまで思ってしまいました。


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同じ日、5月12日の新聞に、村上春樹のロングインタビューが載りました。*1

要約すると、村上春樹が「個人的に好き」で新訳、刊行したアメリカ文学4作について、

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』サリンジャー
 『グレート・ギャツビー』フィッツジェラルド
 『ロング・グッドバイ』チャンドラー
 『ティファニーで朝食を』カポーティー
 
「だんだん翻訳の手ごたえがつかめてきて、そろそろ僕(村上春樹)の腕でもできるんじゃないか」と考えたことと、古い翻訳の『賞味期限切れ』が来たというタイミング。*2

これら4作は各作家の代表作であり、「都会が舞台になっている」ことが共通要素。
中でも村上春樹は、「チャンドラーの文体にすごくひかれる」。「何か特別なものを持っている」文体の何かは、しかし「訳してみてもまだ分からない」。

フィッツジェラルドとカポーティの文体は、「とにかくうまい、きれい、リズムがいい、流れる」。だから、自分(村上春樹)の文章もまだ直せると思う。が、「そんな流麗な文章は僕は書かない」。この二人の文章は、「僕が書くタイプの文章ではない」。
僕(村上春樹)は、もう少しシンプルな言葉で文章の艶とかリズムとか流れを出したい。

4作の翻訳を通して、「物語の骨格は、フィジカルな意味でしっかりしなくてはいけないという気持ちが強くなった」。


「これまでの人生で出会った最も重要な3冊の本」は、『ギャツビー』『L・G』と『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー。
「僕が個人的に偉大と考える作家を一人だけ選べと言われたら、ドストエフスキー」。
ドストエフスキーは、モーツァルトやシューベルトのような天才肌というより、「たたき上げ、積み上げて最後に神殿みたいな構築物を作り上げた」ベートーベン的作家。*3(そんなアホな(^^;)


執筆中の新作は、「06年のクリスマスから始めて、1年5カ月ぐらい書き続けて」おり、『ねじまき鳥クロニクル』を超える最長小説になりそう。

「僕(村上春樹)が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなもの」。「多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない」。
しかし、「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない」。

理想とする文学は、「何回でも読み返せる作品」「それ以外の試金石はない」「そのために、リズムのいい文章で人の心に届く物語を書きたい。それが僕の志です」。


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あまりにも突っ込みどころ満載の、このインタビュー。
しかし、不思議に腹は立ちませんでした。
だって読んでの通り、「肝心なことは押さえて(とくに要約ラスト3~4文のとおり)」いるのに、このズレっぷり……(^^;;;
むしろ、謎が解けたような。

この記事(インタビュー)を読んだときには、かなり脱力しましたが、いちおう以下に軽く突っ込んでおきます。


*1 村上春樹事務所提供ポートレート付、毎日新聞朝刊記事。ポートレートで村上春樹が着ているのは、"Great Aloha Run 2006"のヴィトンのTシャツ。

*2 原文は変わらないのに翻訳に賞味期限があるという考え方は論理的におかしいです。翻訳だけを50年おきに現代語訳にし直すべき、とでもいうのでしょうか。初訳の誤読訂正、解釈の違いによる別訳というなら、わかるのですが。

*3 たんに時代相違によるナンセンス(ドストとベートーヴェンの時代相違)のみならず、そもそも作家を作曲家に置き換えてたとえることじたい、とんでもない不条理、というか無効です、これ(^^;;;
だいたい、モーツァルトのような天才を音楽界の後世に探すならメンデルスゾーンでしょう。モーツァルトがやり残したことがあって再来したか、と思わせるのがメンデルスゾーンです。(なんで、そこでシューベルト?)
それに、逆読みしていくと、ベートーヴェン――ドスト――村上春樹?


 ありえない!(^^;;;


ドストエフスキーのどこがベートーヴェン的なものですか。(繰り返しますが、作家を作曲家に置き換えてたとえることなど無理ですが、それでもあえていうならドストはブルックナー的とでもいうべきか……。ベートーヴェンよりはしっくりくるけど、これもまたちがうよなあ)

村上春樹は、非常に局地的な偏った作品世界を持つ作家です。
ドストエフスキーも、どちらかというとそうです。
ですが、ベートーヴェンはいうまでもなくオールマイティな幅広さを持つ作曲家です。
そして――とベートーヴェンを、このスペースで解説するなど愚の骨頂ですね。
ぼくの書棚には、ずっと以前からベートーヴェンコーナーがあって、それは年々拡大の一途をたどっています。

しかし、うーん。
よりによって人類史上最大級の天才をつかまえて、天才肌というより<たたき上げ、積み上げて>とする村上春樹の見識不足には果てしなく気が遠くなりそうです。
いや、まったく、うーん……ちょっと、おかしいのでは。