旧民法と明治民法

2018-09-03 22:05:18 | 財産法・相続法

[ボアソナードによる旧民法の編纂]

1873(明治6)年、明治政府は、「お雇い外国人法学者」の一人としてフランス人法学者ボアソナードを招いた。当時のボアソナードはフランスで正教授への昇任を待つ身分であったが、政府は、当時の彼が得ていた6倍の報酬という破格の待遇を与えた。来日したボアソナードは、司法省法学校の教師、政府の法律顧問として重要な役割を果たした。□内田149-51

明治政府は不平等条約改正のための法典編纂を刑事法領域から開始し、政府の委託を受けたボアソナードは、刑事実体法と刑事手続法を起草し、元老院の審査を経た上で、1880(明治13)年に、刑法(いわゆる旧刑法;明治13年太政官布告36号)と治罪法(明治13年太政官布告37号)として成立した。なお、現行刑法は1907(明治40)年成立、旧々刑事訴訟法は1890(明治23)年成立、旧刑事訴訟法は1922(大正11)年成立。□内田149-51、大村総論17-8、団藤62-3、長沼ほか3

刑事法典成立の直前である1879(明治12)年、政府は、ボアソナードに民法原案の起草も委ねた。フランス人にとってフランス民法(ナポレオン民法)は世界に誇る文化遺産であり、「市民社会の憲法」ともいうべき民法典の起草を委ねられたことをボアソナードは意気に感じ、約10年を費やして草案と詳細な理由書を作成した。このボアソナード草案を日本人委員が翻訳する形で民法典の草案が作られた。日本固有の慣習に配慮して家族法の部分は日本人委員が起草したものの、ここでもボアソナードの指導があっただろうと推測されている。もっとも、家族法部分の当初案(第一草案)は個人主義的色彩が強いと批判を受け、旧来の家制度の存続を考慮した形に修正された。□内田149-51、大村総論20、潮見23、小石川236

また旧民法の起草と同時期、ドイツ人ヘルマン・レースラー(ロエスエル)により「商法(いわゆる旧商法)」が起草された。旧商法の編別はフランス法系に属するが、規定の実質はドイツ法にならっている。□内田149-51、大隅18

 

[法典論争と旧民商法の公布]

旧民商法の公布に先立つ1889(明治22)年5月、帝国大学法科大学出身者で構成される「法学士会」が、旧民法(フランス人)と旧商法(ドイツ人)とで起草を委託した外国人が異なり、法系も異なる点を痛烈に批判する意見書を公表した。この意見書が発端となり、いわゆる法典論争が起こる。この法典論争は「フランス法派対英米法派」の側面をもっていた。施行延期を求める法学士会は、帝国大学において英米法の教育を受けた者で構成されており、フランス法派(司法省法学校、フランス法系私立学校)の参加を認めていなかった。□内田152-3、大隅18-9

福澤諭吉も、同じ1889(明治22)年7月、時事新報社の社説において、民法のような大典はその国の「宗旨慣習」に基づくものであり、東洋と西洋で「宗旨慣習」が異なる以上、法律も異なるものになる、と原則論を主張した。福澤のこの主張の背景には、開設を間近に控えていた慶應義塾大学部法律科が、帝国大学と同じく英米法教育を中心に据えていたことがあると指摘される。また、福澤は、表面的には内政プロパーの問題である法典編纂を批判することで、当時、大隈重信が法典編纂を条件として進めていた条約改正案にも影響を及ぼすことを狙っていた、とも言われる。□内田153-4

1890(明治23)年、帝国大学法学部長穂積陳重(当時34歳)が、初の単著『法典論』を公刊した。陳重は、もともと「(ボアソナードの)民法案の如き陳腐なる自然法主義」に批判的であったものの、『法典論』そのものは、批判や論争を主眼においたものではなく、サヴィニーを意識した歴史法学の立場から、法典のあり方・起草の仕方や手続・考慮すべき事柄等について、豊富な比較法的知識に基づき論じた研究書であった。もっとも、日本における西洋法学の最高権威者(パイオニア)の手による同書は、施行延期派のバイブルとなった。□内田155-7

帝国議会開設を控えた明治政府は、議会開設の直前である1890(明治23)年、フランス法系の構成・内容を備えた「民法(いわゆる旧民法)」を公布し、その施行を「1893(明治26)年1月1日」とした。旧民法は「人事編・財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編」との構成を採用した。同時期に「商法(いわゆる旧商法)」も公布され、その施行は旧民法より2年早く「1891(明治24)年1月1日」と予定された。□内田149-51、潮見23

 

[帝国議会による旧民商法の施行延期]

旧民商法の公布直後である1890(明治23)年11月29日、帝国議会が開会した。政府の思惑は外れ、この第1回帝国議会では「商法の施行を民法と同じ1893(明治26)年まで延期すること」が審議されることになった。1890(明治23)年12月22日、陳重は、貴族院において、商法の施行延期を支持する演説を行った。歴史法学派である陳重は「法律制度には必ず歴史がなくちゃ行かぬ」との発言を残している。さらに陳重は「そもそもこの法典というものの起草を外国人に委託したということは、独立国ではギリシヤを除くの外はないことと私は思う」とも発言し、後に自身でも「(この発言が)幾分か議員を動かしたように見えた」と振り返った。第1回帝国議会は「商法施行延期法案」を可決し、これによって旧商法の施行が(民法と同じ)1893(明治26)年まで延期されることとなった(第1回帝国議会で可決された法案はこれを含め6つにすぎない)。□内田157-8、大隅18-9、有地116、久保田227,232-3

1891(明治24)年、陳重の弟穂積八束(帝国大学法科大学教授)が、旧民法の人事編を批判する論文「民法出でて忠孝亡ぶ」を発表した。同論文は、日本の家族制度がキリスト教と相容れないと主張した。□内田154-5

これに対し、帝国大学法科大学教授でありながら司法省法学校とリヨン学校で学んだ梅謙次郎は、1892(明治25)年に「法典実施意見」を出して延期派を批判した。梅に代表されるフランス法派は施行断行を主張した。□小石川236

1892(明治25)年5月から6月にかけて、第3回帝国議会は「民法及び商法施行延期法律案」を可決し、同法は同年11月24日に公布された。これにより、旧民法と旧商法は1896(明治29)年末まで施行が延期されることになった。□潮見23-4、大隅19

 

[補足;法典論争さなかの大津事件]

1891(明治24)年には、日本を訪問中のロシヤ帝国皇太子ニコライが、大津市内で巡査津田三蔵に切りつけられるという「大津事件」が発生している。明治政府は、この事件は「皇室」に対する罪として大審院の特別法廷を大津に設置し、大審院判事が大津に出向いて裁判することを決めた。当時の刑法116条は「天皇、三后、皇太子に対し、危害を加え又は加えんとしたる者は、死刑に処す」と規定していたところ、政府首脳(総理大臣松方正義、内務大臣西郷従道、司法大臣山田顕義ら)は、大審院長児島惟謙や担当裁判官に対し、「外国の皇太子=116条の皇太子」として同条を適用して津田を死刑にするよう圧力をかけた。これに対し、児島は、116条の適用はできないとし、一般人に対する謀殺未遂罪(刑法292条)の適用を主張した。□内田143-6

児島と陳重は同郷(宇和島)の先輩後輩の関係にあり(児島が18歳上)、陳重の婚礼において児島が媒酌人を務める、児島の妹種子が陳重の兄重頴(シゲカイ)と婚姻している、という極近しい関係にあった。児島から大津事件の処理について意見を求められた陳重は、刑法116条の適用を不可とする児島の意見を強く支持した。児島は、判決宣告日に、陳重に対して「勝ちを制するに至れり安心あれ」との電報を打った。□内田146-7

 

[法典調査会と明治民法]

旧商法のうち、会社・手形・破産に関する部分は延期が許されなかったため、1893(明治26)年7月1日から施行された。□大隅19、田邉4

同じく1893(明治26)年、第2次伊藤博文内閣に法典調査会(総裁伊藤、副総裁西園寺公望)が設置され、旧民法の修正作業が開始された。民法起草委員には、いずれも帝国大学法科大学教授である穂積陳重(延期派)、富井政章(延期派)、梅謙次郎(断行派)が選ばれた。他方の商法修正案は、梅謙次郎、岡野敬次郎、田部(たなべ)芳が起草にあたった。法典調査会においては「フランス主義の梅」「ドイツ法の富井」「法理的大所からの調和者の陳重」との立場で議論された。もっとも、梅は編別方式にこだわらず、初期の段階でパンデクテン式を採ることを承認している。□小石川237、内田173、有地95,96,98,102-3、伊藤81-3、大隅19、田邉4

1894(明治27)年7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が締結され、5年後に領事裁判権と居留地制度が撤廃されることや、関税自主権の一部撤廃が決まった。この改正条約の施行のため、民商法を遅くとも1898(明治31)年までに完成させる必要が生じ、起草委員は猛スピードで起草を進めることになった。□小石川237、内田173、小宮269-70

起草委員は、ボアソナードが起草した旧民法の特殊フランス法的側面をそぎ落とし、比較法的視野に立って支持できる原則をシンプルに定めた条文で対応し、定義規定も大幅に削除する方針を採った。編別構成は旧民法から大きく変更され、ドイツ民法第一草案(1896年)に習い、パンデクテン式をもとに五編構成(総則、物権、債権、親族、相続)が採用された。以上の結果、条文数は1762条から1142条までに圧縮された。このように、明治民法は後の法律家(判例学説)に多くを委ねる「開かれた法典」として起草された。□小石川237、内田173、大村総論24-5

法典論争において議論の中心とされた家族法部分について、旧民法から根本的な改正はなされなかった(ただし、形式としては、旧民法が「親族に関する規定」を人事編に置いていたのに対し、明治民法では独立して親族編を設けた)。起草委員とも、「家」制度は崩壊していき、やがて個人を社会の単位とする時代が到来すると考えていた。親族編第一章の起草者である富井は「弊害になき限りは従来の制度慣習に存すること」「社会の趨勢に伴って社会交通が開けその他種々の原因よりして社会の状況が少しく変われば直ちに法典を変えねばならぬと云うようなことにならないこと」との方針を立てた上で、旧民法は「この2点から見れば多少修正を加うべき点はありましょうけれども、根本的に改正を加えねばならぬと云う程の点はないように思います」と述べた。このことは、起草委員が開明的な家族観を持っていたこと、旧民法が(延期派が批判したほどには)開明的でなかったこと、を示している。□小石川237-8、有地114、大村読解9-10

財産法部分である前三編は1896(明治29)年に法律89号として公布された。家族法部分である後二編は予定された施行日1896(明治29)年12月31日には間に合わず、1898(明治31)年に法律9号として公布された。2つの法律は、いずれも1898(明治31)年7月16日から施行された。このように、明治民法は厳密には2つの法律から成っているが、後二編は前三編の補充だとみなして「民法=明治29年法律89号」と指示するのが通例である。□潮見24、我妻10、大村総論20-1

明治民法は、当時の「最新モデル」であるドイツ民法を大きく参照する一方、旧民法とその母法であるフランス民法の影響も色濃く残している。星野英一は、いずれの性格を強調するかはさておき、両法典ともにローマ法とゲルマン法(+教会法の若干)を淵源とすることを指摘する。□大村総論24、星野201-5

家族法部分と同じく、商法修正案の起草も1896(明治29年)末には間に合わなかったため、商法全部の施行はさらに1898(明治31)年6月30日まで延期された。その後、商法修正案は第11回帝国議会と第12回帝国議会に提出されたが、いずれも衆議院が解散されたため、ついに1898(明治31)年6月30日を迎えてしまい、修正前の旧商法全部が施行されるという事態が生じた。翌1899(明治32)年、商法修正案がようやく第13回帝国議会にて可決され、同年6月16日から現行商法(明治32年法律48号)が施行された(施行済の旧商法は「破産」を除き全部廃止)。現行商法は、ドイツ旧商法をモデルとしている。□大隅18-9、田邉4

 

我妻栄『新訂民法総則』[1965] 

有地亨「明治民法起草の方針などに関する若干の資料とその検討」法政研究37巻1/2号95頁[1971]

☆大隅健一郎『商法総則〔新版〕』[1978]

団藤重光『刑法綱要総論〔第3版〕』[1990]

☆星野英一『民法のすすめ』[1998]

☆大村敦志『民法総論』[2001]

潮見佳男『民法総則講義』[2005]

長沼範良ほか『刑事訴訟法〔第2版〕』[2005]

田邉光政『商法総則・商行為法〔第3版〕』[2006]

伊藤之雄『元老西園寺公望ー古希からの挑戦』[2007]

大村敦志『民法読解 親族編』[2015]

☆小石川祐介「法教育と法学の始まり」高谷知佳・小石川祐介編著『日本法史から何がみえるか』[2018]

☆内田貴『法学の誕生ー近代日本にとって「法」とは何であったか』[2018] ※「穂積兄弟伝」とのタイトルがふさわしいか。

久保田哲『帝国議会ー西洋の衝撃から誕生までの格闘』[2018]

小宮一夫「条約改正問題」小林和幸編『明治史講義【テーマ篇】」[2018]

(以下は未読)

岡孝「明治民法起草過程における外国法の影響」国際哲学研究別冊4号16頁[2014]

中川壽之「明治法典論争期における延期派の軌跡」法学新報121巻9/10号[2015]

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