古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

櫻井市「登美の霊畤」と田原本町の多神社、鏡作り神社 2015年12月26日

2015年12月31日 18時58分48秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
奈良県櫻井市の等彌神社と鳥見山霊畤
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大和盆地は古代史の舞台であり、遺跡の宝庫です。

秦国人徐福が出雲に渡来して、連れて来た部下の穂日親子や海童達により 出雲王国の主王副王が
相次いで殺害され、その皇子たちは秦国人との共生を嫌い 大和葛城地方に移住します。

大国主の皇子、味鋤高彦(西出雲神門臣家)は南葛城へ、事代主の皇子奇日方(東出雲向家)は
中葛城へ、そして徐福の息子五十猛(移住後は香語山と名乗ります)までも 遅れて葛城北部(笛吹)
にやってきます。

そして徐福子孫と出雲王家子孫たちで 初期大和政権が誕生します。

初代大和大王「天の村雲」に始まる磯城王朝は次第に東進して櫻井市付近にいたります。
大和の神社や史跡などを丹念に見ていくと、とんでもなく面白い発見があります。

今回もその一つ、桜井市の「等彌(とみ)神社」と「鳥見山霊畤(とみやまれいじ)」です。
奇日方の子孫は「登美家(とびけ)」と呼ばれます。出雲王家の向家は富家(とびけ)とも呼ばれました。
その登美(とび)の名前が今も櫻井市のあちこちに残っています。

鳥見山(とみやま)ももともとは登美山と呼ばれていました。また付近の地名は今も櫻井市 外山(とび)です。
またこの地の宗像神社は「登美に坐(います)宗像神社」が正式名称です。

その登美の霊畤とは 太陽の女神を祀る三輪山を 登美の霊畤から遥拝し、祭りごとを行う祭政一致の
政治行事を行う広場の事です。その登美の霊畤が 今日まで保存されているとは 思いもしませんでした。

※ちなみに宗像家は出雲王国第六代臣津野(おみつぬ)王(別名国引き王)の皇子吾田片隅(あたかたす)
が北九州へ移住して作った分家です。
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魏書に「その女王が立つと和国の戦乱が納まり、平和が訪れた」と書かれたヒミコはモモソ姫です。
そのモモソ姫が祭祀を執り行った場所が「登美の霊畤」つまり今の鳥見山(とみやま)山頂なのです。

磯城王朝第八代クニクル大王と磯城家クニアレ姫との間に生まれたモモソ姫は 母に似て信仰心深く
三輪山の太陽の女神を祀る姫巫女となります。三輪山の姫巫女は磯城家か登美家の姫しかなれないのでした。

九州物部王家の東進で ヤマトに出雲系豪族と物部系豪族の対立抗争、戦乱が続いていましたが
モモソ姫が姫巫女となり、太陽女神の崇拝行事をするようになると、戦乱が納まったといわれます。

モモソ姫の兄の第九代オオヒビ大王よりも モモソ姫は人々の大きな尊敬心を集めたという。登美家第九代当主
太田田根子(おおたたねこ)の庇護の下、春と秋の大祭には 大和はおろか出雲、越、尾張からも豪族が集まったと言う。

太田田根子の地盤の巻向に多くの宿舎が立てられて大いに栄えたと言われます。そのためその地は櫻井市「太田」
の地名がのこっています。
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等彌神社入口だ。この「とみ」という発音ももともとは登美だったのだろう。
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こちらの道路側の鳥居は伊勢神宮の「お下がり」らしい。
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石段の参道を進むと 石の鳥居があり、更に参道を進む。
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その奥に上ッ尾社がある。
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綺麗に磨き上げられた上ッ尾社拝殿の中。主祭神 はどこにも書いてないが どうせ出雲の神さんだろうと
軽く考えたが、後日ネットで調べたら「大ヒルメムチ」と書いてあり、びっくりだ。後で述べます。
お参りを済ませてから霊畤へ向う。
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この鳥居を潜ると 鳥見山霊畤への道が始まる。
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すぐに「黒竜社」がある。さすが出雲の神さんの神社だ。出雲族は幸の神三神の 国教のほかに太陽の女神や
竜蛇神の信仰もしていたという。この社は竜を祭っている神社だ。
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山道を歩いて登る。左手には高校があり、女生徒のテニスの掛け声が響いていた。
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すぐに「霊畤遥拝所」があった。もともと霊畤とは 三輪山に祀られている「太陽の女神」を鳥見山山頂で
遥拝する為の施設なのに、その鳥見山山頂をここからさらに遥拝するのだという。「ハテナ?」である。
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山道には沢山の標識が立ててあり、迷う事はない。
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「庭殿」に立つ石碑と説明看板。
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ここは 祭りのときなど 沢山の人(もちろん各地の豪族たちです)が宴会をしたところだという。
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鳥見山山頂の霊畤に着いた。入口の鳥居から2キロ、ゆっくり歩いて30分弱だ。
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周りの雑木林のために良く見えないが、真北の山が三輪山のはずだ。
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下山途中に 別の社へ寄る。下ッ尾社だ。
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大きな赤い玉が吊り下げられている。太陽のようだ。三輪山に祀られていた「太陽の女神」を現しているのだろう。
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下ッ尾社の本殿は二社あった。
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下ッ尾社のすぐ近くには「サルタ彦」が祭られていた。さすが 出雲の神の社だ。
サルタ彦は出雲族国教幸の神三神のうち、クナト大神(父神)、佐毘売の尊(母神)、そしてサルタ彦(皇子神)
である。サルタとは古代インドのドラビダ語でいう 「鼻の長い」と言う意味でつまりヒンドゥーのガネーシャの事だ。
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この神社は広く大きな神社だった。この鳥居の下が社務所と駐車場だ。
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三輪山と鳥見山の位置関係である。真南から三輪山を遥拝していたのだ。
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等彌神社から鳥見山霊畤までゆっくり往復した50分ほどだった。
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「太陽の女神信仰」について
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太陽神は出雲族により 崇拝されていました。渡来人の徐福の子孫である物部族は「星」、「月」、「狐」を信仰
尊敬していて 七夕祭りや「月読みの神」、「稲荷信仰」はその名残です。

等彌神社のご祭神「大ヒルメムチ」とはモモソ姫ではなく、元来「サホ姫」のことです。

磯城王朝第十代彦坐大王の姫のサホ姫は、大和に進攻してきた九州物部王国のイクメ王と一度は結婚し
三輪山の太陽神を祭り 「大ヒルメムチ(大日霊女貴)」と呼ばれて 人気を集めますが、遅れて大和入りしてきた
豊国軍の豊来入彦に追われて 皇子のホムツワケを連れて兄のサホ彦の元に逃げます。

そして豊国軍は イクメ王に呼び出された出雲郡の野見の宿禰 に追い出されるまで「登美の霊畤」を占領します。

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この神社の祭神の「大ヒルメムチ」はモモソ姫とかサホ姫とかいう 個人名ではなくて、太陽の女神を
司祭する 磯城家、登美家代々の姫巫女一般のことをいうのではないのでしょうか。

それとも太陽の女神そのものを言うのかもしれません。

いずれにしても 現代まで古代出雲王国のゆかりの施設が保存されていて 驚きでした。
やはりヤマトは凄い。
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奈良県田原本町の多(おお)神社
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多家は日本有数の由緒ある家系です。

初代ヤマト大王「天の村雲」は磯城家のタタラ五十鈴姫(事代主と玉依り姫の姫)と結婚し、その皇子
「沼川耳(ぬなかわみみ)」が二代目大王となります。沼川耳はタタラ五十鈴姫の妹「五十鈴依り姫」と結婚し
玉手看(たまてみ)と八井耳の皇子が生まれます。

王位を継いだのは 弟の玉手看(たまてみ)で 八井耳は「多臣家」の始祖となり、その家系が連綿と続き
記紀製作者の太安万侶は 多家の子孫です。

つまり太安万侶は出雲王家の子孫でもあるのです。もともと臣は出雲王族を現す家系です。
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多神社へ向う道には大きな鳥居が立っています。
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駐車場からこの鳥居を潜って 境内に向います。
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正面に立派な拝殿が見えます。
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本殿は四連の作りで 私は始めてみました。
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この神社の説明看板です。正式には「多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社」です。
この付近の地名は「多」となっています。

祭神は「神武」これは「天の村雲」を記紀が神武と書き換えているので初代ヤマト大王天の村雲 つまり
多家始祖の八井耳の祖父です。それと八井耳の父親の二代目ヤマト大王沼川耳、それと太安万侶も祭られています。
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大きな社務所があり、たぶん社家だろうと思い表札を見に行きました。
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やはり「多家」でした。凄いですねえ。2千年以上も続いている家系なのですねえ。
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多神社の前に石碑がありました。新しくて取ってつけたような石碑でした。
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その裏に「小社神社」があり、調べると太安万侶が祭られていました。
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太安万侶は 記紀を書き上げたあと、記紀の秘密を守るため 人麻呂と共に不比等により幽閉されます。
太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 出雲王家東王家の向家の領地に幽閉されます。

太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 多臣家の末裔で
山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と伝えたと言われます。

そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲族を代表して
お礼を述べたと伝わっているそうです。

太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社
(あだかやじんじゃ)が建てられています。

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奈良県田原本町 鏡作り神社
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磯城王朝が第十一代彦道主大王の時、支那では魏と呉が対立していた。魏の遼東では公孫渕が独立の気配を見せていた。
呉は これを応援しようと金銀財宝を積んだ船で公孫渕を訪れて独立させて 燕王国とした。
その贈り物の中には 沢山の銅鏡の材料と工人もいた。

魏は是に驚き 何度も公孫渕に使者を送り 復帰を求めた。是に応えて公孫渕は後の使者を切り 魏に復帰した。

行き場を無くした工人たちは、遼東から逃げ出したが、一部は和国の都萬王国に逃げた。しかし都萬国は魏へ朝献使節
を送ろうとしているのを知り、あわててヤマトの磯城王家へ助けを求めたと言う。

その工人たちが住み、「鏡作り部」として暮らしたのがこの神社界隈だと言う。
この公人たちが作った鏡が「三角縁神獣鏡」など ヒミコが魏から貰う銅鏡よりも 古い銅鏡である。
前回訪れた武内宿禰墓稜から発掘された鏡もその一枚だろう。

ちなみに 武内宿禰も都萬国の使節として魏へ行った帰り、帯方郡で銅鏡の材料と工人を大量に仕入れて
磯城王家へ渡したと言われる。

そしてこられの材料と 工人たちで 磯城王朝が300枚以上、登美家の大加茂津身が100枚以上作らせて
各地の豪族たちに配ったという。
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この鳥居をくぐり、参道を進む。
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石の鳥居の先に 拝殿が見える。
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新しい看板で 神社の由緒を説明してある。それを見て仰天した。
なんと主祭神 は「彦火明」と書いてあるではないか。火明かり(ホアカリ)とは 徐福が石見の国五十猛海岸に
上陸した後、名乗った和名なのだ。

ちなみに 一旦秦国へ帰国した徐福が 九州北部浮杯の地へ再上陸した後は 饒速日(にぎはやひ)と名乗っている。
つまり この「鏡造り神社」の主祭神 は なんと徐福なのだ。
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新しい看板に この地で作られた銅鏡の写真が張ってあった。
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この説明看板の背後の「鏡池」から掘り出された「鏡石」が展示してあった。
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是が鏡石の現物で 鏡作り部たちは、まず 鏡池で身を清めたあと 石の中央の窪みに銅鏡をはめ込んで固定し、
金剛砂と水をかけながら 鏡面仕上げをしたと書いてある。
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鏡造り部太刀が鏡の研磨の前に身を清めた鏡池である。
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奥へ進むと拝殿がある。
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額には「鏡造り大明神と書いてあるが、それと徐福とどんな関係があるのだろうか。
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本殿は 朱塗りの三連社だ。これも初めて見た。
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本殿の近くに古い由緒書き看板があった。これにも主祭神 がホアカリ つまり秦国からの渡来人徐福だと書いてあった。
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考えてみると神獣鏡の神獣は 道教に基づいている。後に日本で流行った稲荷信仰のお狐様も 
道教の「西王母」の眷属神の狐が元になっている。

鏡作り部たちは 道教の神獣たちを彫っているので 道教の導師である徐福を尊敬するのは当たり前なのかもしれない。
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と言うことで今回の旅も 「登美の霊畤」が今でも保存されている事、多神社の社家として多家が今も
続いていらっしゃると言う事、鏡作り神社の主祭神 は なんとあの出雲王国で 主王副王を同時に
殺害し、出雲国内で大暴れした秦国からの渡来人徐福だということなど 沢山の発見がありとても面白い旅でした。

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