古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

古代出雲王朝東王家向家王宮のあった松江市大庭(おおば)界隈の史跡 2015年12月13日

2015年12月17日 18時42分53秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

古代出雲王朝は 東出雲王家向家と西出雲王家神門家が交互に主王
(役職名を大名持)と副王(役職名は少彦)をだして統治していた。

松江市大庭町には東王家向家の王宮があったが、物部軍東征による第二次出雲戦争で出雲軍は敗れて
王宮を物部軍に明け渡した。

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古代出雲王朝は 九州物部王家の第二次東征で 滅びます。西暦255年ごろです。

まず物部軍が瀬戸内海を東進し 吉備王国を攻めているときに 別働隊が日本海を北上し 
物部軍を率いるアケタツ王と宇佐王国軍を率いる兎の上王が 徐福の部下の穂日の子孫たちの引き入れで 
出雲軍の警備の手薄な場所から 怒涛のように侵入し出雲王家第十七代山崎タラシはついに降伏し 
西出雲王家は智伊宮の宮殿を明け渡します。

同じく物部軍の先鋒但馬守(1世紀末の朝鮮 辰韓の王子ヒボコの子孫)の日本海からの猛攻で 
松江市の田和山神殿を破壊され、続く物部十千根軍の日南町からの猛攻進入で 、東出雲王家も降伏し 
ここに十七代続いた 日本最古の王朝、出雲王朝は終わりを告げます。
物部十千根は魏にも朝献使節として行き、魏書に名前が出てくる物部族の一人です。

西出雲王家の王宮は進駐軍、宇佐軍の兎の上王の住居に提供され、西出雲王家神門の臣家は出雲市古志町の
久那子神社に移り住んだ。

東出雲王家の大庭の王宮は 物部占領軍に提供され、向井王家は八雲町熊野に移り熊野大社を建てて社家となった。

また旧王宮の建物は 物部進駐軍の入場とともに 千木が九州物部式の横削ぎとされた。
それまでの出雲王家や出雲豪族の建物は千木がすべて立て削ぎでした。
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しかし 苦労の末にやっと成立した征服王朝である物部王朝は イクメ(贈り名は垂仁)、オシロワケ(景行)、
ワカタラシ(成務)のたった三代で終わりとなりました。そして秋上家と名乗るようになった 
物部十千根の子孫の進駐軍は たちまち後ろ盾を失う。

そこで秋上家は 旧王宮を向井家に返却すると連絡したが、向井家は受け取らなかったという。

そこで秋上家は 建物を神魂(かもす)神社として 古代出雲王家の国教である 幸の神三神のうち親神である
クナト大神、佐毘売の命の代わりとして 名前を変えて イザナギ、イザナミの神を祀るのである。
ここにイザナギ、イザナミの名前が 初めて日本史に登場するのです。秋上家が作り出したそうです。

このときに 物部の神 フツノ御霊は秋上家により 神魂神社からオウ川の右岸の丘に移されて剣神社となった
(松江市八雲町日吉)。

このことを機に 向井家は 物部家つまり秋上家と協調するようになり、以後向家が資金を出した神社
(たとえば美保神社)などでは 複数の建物に出雲式立て削ぎ千木と 物部式横削ぎ千木を
併用するようになったそうです。出雲と物部の共存です。

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その大庭界隈の遺構を見て回った。

まず旧王家の墓である 「出雲大神社」

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鳥居に掛かる額に「出雲大神」と書いてある。
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鳥居を潜りすぐ右にある手水。きれいに清掃されている。
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よく整備された参道を進む。
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拝殿に到着。ここから墓石を拝むという。
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ここから先は神域のため入れない。
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巨岩がごろごろしている。

ここは王家の拝み墓で、実際の埋葬墓は天狗山山中の「岩坐」だという。
王家末裔の「斉木雲洲先生」の本によれば 古代出雲王家は第十七代「山崎タラシ」王で滅んだので
拝み墓の巨岩は十七個あるという。
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※この出雲大神の祀られている一帯は立正大学付属淞南高等学校の敷地内にあります。
学校の事務所で所定の手続きをしたうえで参拝させていただきました。

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カラス天狗広場
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神魂神社背後の山を登ると「カラス天狗広場」がある。
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石碑には「大山大智明大権現」と読める。
ここは旧出雲王朝国教のサイの神三神のうちクナト大神が祭られている大神山(今の大山)を
遥拝した場所つまり東王家向家の霊畤(れいじ 政事を行う遥拝所でもある庭)だった可能性が高いと思う。
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カラス天狗は平安期以降に発展した山岳修験道の神で 役小角(えんのおづぬ)とともに修験道の守り神として崇拝されたシンボルだ。
その昔の向家遥拝所がそのまま修験道の遥拝所となったのだろう。
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こちらは以前訪れた神魂神社本殿。現存する最古の大社造で国宝だ。
その記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/aa16ed0399a854fe21ff961e972b14f0
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次は岩坂陵墓参考地
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この墓は国道432号線神納峠を下ったあたりにある。
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宮内庁の管理らしい。
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宮内庁や松江市教育委員会はイザナミの墓だといっているらしいが、ばかばかしいにもほどがある。
でっち上げの記紀に縛り付けられた挙句、架空の神イザナミのお墓ときたもんだ。

この墓は「出雲への征服進駐軍総師 物部十千根の墓だ。

たった三代で消えてしまった物部王朝のため 後ろ盾を失った物部十千根進駐軍の子孫、秋上家は 出雲の人々に快く思われていない
物部十千根の名前をいつまでも残しておくわけにも行かず、旧出雲王宮を「神魂神社」として「クナト大神、佐比売の命」
の代わりに「イザナギ、イザナミの命」を祀ったので十千根の墓をイザナミの墓と変えたという。

このでたらめな看板を見て 思わず絶句してしまった。 
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大庭の「風土記の丘」
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大庭にある風土記の丘から 岡田山一号墳の向こうに「神奈備野(かんなびぬ)」の山が見える。
東出雲王家向家で崇拝された神奈備山だ。
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雨の中岡田山一号墳に行ってみた。
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ここに石室があったらしい。
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発掘されたものの展示室へ行ってみた。
これは子持ち壷と表示されているが、壷ではなく太鼓らしい。小さな突起に皮を張り 叩く音で死者を
慰めたという。古代インドで使われた楽器だという。古代出雲族のふるさとと言われるドラビダ族の風習と言われる。
※弥生文明と南インド 大野晋著 岩波書店
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こちらは「見返りの鹿」。大きいがかわいらしい顔だ。
出雲族の古墳増築技術が 大和の土師氏になったという。このあと訪れる菅原天満宮の菅原家や、学問の大江家は
土師家から分かれた 学問の家系だ。
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この鉄剣に掘り込まれた銀象嵌の文字「額田部臣」が発見当時大きな話題になったらしい。

前回たずねた「神原遺跡」の古墳は 埋葬された武内宿祢の弟「ウマシウチの宿祢」が作ったといわれるが
彼は出雲王家から姫を嫁に向かえ、臣の性を名乗り その子孫は神原の地に住み続けて「額田部臣」を名乗ったという。

岡田山1号墳は 以前訪ねた「山代双子塚古墳」のすぐ近くに、しかもすぐ後に造られた。 
富家の伝承では 富家の王陵の隣に額田部の臣の王が葬られたという。

それは当時 都から赴任していた 額田部財王であります。出雲王家の太彦殿が分家の越前蘇我本家、振姫に養子に行かれ
家業を発展させて 人望を集められ 都に迎えられたのが オホド大王(継体)で その息子ヒロニワ大王(欽明)
の娘が 額田部大王(推古)です。

額田部大王の兄、豊日大王(用明)の息子が 上之宮太子(聖徳太子)でその息子が 額田部の臣財王です。
財王は 当時 弟の日置王と共に出雲の地に都から赴任していました。 出雲国意宇郡舎人郷の正倉役として
赴任されていて この地で生涯を終えられました。

そのお墓が 岡田山1号墳で 財王は生前から古墳を築いて寿陵としていました。

古墳埋蔵品は 松江市大庭の風土記の丘に展示されています。
風土記の丘見学記は このブログの 2015年12月13日の記事に載せています。

※松江市教育委員会の説明では このあたりの古墳(岡田山古墳群、双子塚古墳群)は出雲大社宮司の祖先出雲国造家
のお墓だと書いていて、案内人の叔父さんもそういいました。


穂日の子孫は 九州物部王家の第二次東征時に東征軍の別動隊(朝鮮人ヒボコの子孫田道間守などの軍)
を 出雲軍の警備の手薄な場所を 案内して出雲王家の滅亡に活躍し、その功績で出雲国造家に
してもらいました。

松江市教育委員会は馬鹿ですねえ。徐福の忠実な部下の穂日の子孫が 穂日が殺した
出雲王家の富家(向家)のお墓の中に 自分達のお墓を作るわけがありませんよねえ。

その案内人の叔父さんには 斎木雲州先生の本を読んで もっと勉強しなさいといっておきました。きょとんとしていました。

ちなみに穂日の子孫が今の出雲大社の宮司です。
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風土記の丘展示室には 以前訪れた山代双子塚古墳の発掘物も展示されている。
この子持ち壷も古代インドのドラビダ族の使う子持ち太鼓と同じで 岡田山古墳の出土品と同じだ。
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以前の山代双子塚古墳の記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/108c0ff4d9b310c0e997ad7d83dd51ed
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山代神社
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以前から大庭を通るたびに気になっていた「山代神社」を尋ねた。
この場所も「山代双子塚古墳」のすぐそばなので、たぶん古墳に葬られている「向 山代彦」が祭られていると想像していた。
モミジの散る石段を登っていく。
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立派な拝殿と注連縄だ。
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このアーチ型の渡り廊下を潜ると本殿があった。
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大社造の立派な本殿だ。
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以前阿太加夜神社の境内でも見かけたが、石造や自然石に紙垂(しで)をお供えしたものが境内に沢山あった。
古代出雲王の17人と同じ17箇所かと探したがどう探しても13箇所しかなかった。
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境内の末社に幸神社がある。これは古代出雲王朝の国教の幸の神三神を祀っているのだろう。
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由緒書きが掛けてある。古くて良く読めないが やはり「山代彦(日子)命、大国主命」と読める。
やはりそうだった。山代双子塚古墳に葬られた旧王家の向家当主「向 山代彦」を祭っているのだ。
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神社入口には 宮自宅がある。こちらのお宅も由緒正しく見えるので表札を拝見すると「北」家であった。
てっきり 向家か富家と思ったが違っていた。このお宅も出雲王家の血を引くお方なのだろうか。
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