続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

「詰合い」とは何か? ~詰合い再考~

2008年10月04日 | 極意探求
「詰合い」ということについて、さらに具体的に考えてみたい。詰め合うとは、一体どういうことだろうか?

感覚的に一言で言うならば、「関節を伸ばして維持する」というのが詰合いである(※)。

これは技術的には極めて単純であり、誰にでも出来ることである。たとえば、弓手であれば、手首、肘、肩の関節を目一杯伸ばし、これを維持するようにすればよい。

試しにやってみてほしい。肩の高さで弓手をまっすぐに伸ばし、手首、肘、肩の関節に意識を向け、伸びていることを感じてみる。イメージとしては、胴から弓手が枝のようにしっかりと生え、さらにまだ伸びようとしている感じである。

この状態で、誰かにその腕を曲げられるかどうか、試してもらおう。すると、どうだろうか?それほど力を込めなくても、なかなか曲げることは出来ないはずだ。

これが弓手の「詰合い」である。

では、なぜこれが重要なのだろうか?

理由は二つある。一つは、予想を遥かに超えた強い力をそれほど意識することなく扱える、ということだ。これは体験してみれば、ご理解いただけることと思う。

もう一つは、それ以外の部分の力を使えるようになる、ということである。たとえば弓手であれば、弓手をまるで棒(実際には竹のように弾力がある)のように道具として扱うことで、初めてそれを背中や腰の筋肉を使って動かせるようになるのだ。

腕よりさらに太い筋肉を持つ背中や腰を使うことによって、射は初めて安定するのである。


※本質的には伸びていなくても詰め合うことは可能であるが、それは高度な技術(次のレベル)になるため、ここでは「伸ばすこと」=「詰合い」と捉えることにする。実際、詰合いを行うのは、伸張筋という伸ばす筋肉であるので、この表現は感覚的には正しいといえる。

身体と語らう

2008年10月04日 | 極意探求
弓の稽古をするとき、忘れてはならないことがある。それは、身体(からだ)と語らうということだ。

どうしても的前に立つと、的に意識がいってしまう。しかし、どんなに当てようと意識しても、射が正しくなければ当たりは出ない。逆に、正しい射で放たれた矢は、必然的に的に行くものである。

このことは当たり前のことであるが、極めて重要なことである。つまり、稽古のとき、最も大事なことは「自分の身体と語らう」ということなのだ。

自分の身体と語らうというのは、自分の身体にこそ意識を向けるということである。たとえば、身体の各部の位置は正しいところにあるか?正しい運行をしているか?力はどこに入っていて、どこに入っていないのか?不自然な感覚はないか?などである。

こういうことは、意識を向けさえすれば誰でも感じ取ることが出来る。しかし、意識が違うところに行っていたのでは、実は感じているようでもそれに気づけないのだ。

これは精神的な話をしているのではない。極めて科学的に、人は意識を向けることでそれを感知することが出来るのである。

これは機械によく使われるセンサーによく似ている。センサーはそれを感じ取ることができても、それをモニターや数値計で見ない限り、どんな状態なのかを知ることは出来ない。

身体も同じである。感覚は常に働いており、たとえ初めて弓を引く人でもそれを持っている。しかし、そこに意識を向けない限り、その感覚を捉えることはできないのである。

弓の稽古は、ただただこの身体のセンサー(感覚)に意識を向けること。これが肝要である。そして、その感度は、日頃から意識を向けていることによって格段に高まっていくのである。