新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

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2012年05月07日 10時18分16秒 | 教育・研究
歌集 林檎の感触
クリエーター情報なし
櫂歌書房


連休が明けた。けだるい連休の疲れを振り払い、出勤する。日本教育史の演習からだ。
午後は大正自由教育の研究会を博多駅キャンパスで、夜は学校文化史のゼミと終日働くことになる。
この間にぼちぼちこなさなきゃならない仕事が溜まりはじめているので、焦らないと。。。。

論文を書くということ

2012年05月05日 08時36分33秒 | 教育・研究
 論文の査読をすることが多くなってきた。「研究をするということ」のところでも書いたが、査読についてはこのように考えている。
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 論文としての体裁、問題設定が成り立っているか。引​用の適切さ、史料もしくは資料の妥当性。論証の的確さ。オリジナ​リティ。そんなもののチェックだな。まずいものについてはどこを​直せばいいか。査読だから期待は書かない。地方学会では論文とし​てみっともなくないことが最低基準。全国誌ではオリジナリティ、​学会への貢献度。
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 で、某学会誌の査読をやってみた。やってみて思うのだが、論文としての形式を単に形式と考えているものが少なくない。しかし、形式というのは研究の結果を入れる器という意味ではない。適当に問題の所在云々を書いておき、「ということでこんなことをしたい」と書くのが形式だと思っている節が多々見られる。仮に先行研究を上げることで問題の所在を絞るのならば、その先行研究に対して自分はどういう形で向き合い、それを超えようとしているのかを示さなくてはならない。
 しかし、そういう形になっていないものがずいぶんと多い。まさに形式は所詮形式と考えて、形式を軽んじているのだろう。
 初めての学術論文を書いたときに、その原稿に3分ほど目を通されたT先生から「ふむ、これならガッカイに貢献できる、かな」とつぶやかれたのを覚えている。ていうか、未だに脳裏を離れない。そのくらいうれしかった。論文を書くというのは自分の業績書に1行か2行書き加えることではない。ガッカイに何を貢献したか、がたいせつなのである。ガッカイとは「学会」かもしれないし、「学界」なのかもしれない。それはどちらでもいい。つまり同じようなことをしている人たちに新しい知見を提示したかどうかが重要なのだ。すでに誰かがしたことや、共通にわかりきったことを書いても意味はない。ただ、紙と労力を無駄にしたに過ぎないのだ。見た目の形式は雑でも新しい発見があれば、その方がずっと大切なことなのだ。
 業績主義が定着したせいでとにかく形だけの論文擬きを大量生産しようという傾向か強い。理系の領域では短い論文をちまちま書いていると思って、最近の文系分野では、数だけでも追いつこうという魂胆が見え見えなものも多い。理系の論文にもそういうものはあるのかもしれないが、何か発見したことを書いているはずだ。彼らには文章表現という技巧は必要とされていないので、発見した事実だけを書くという形になっているだけだ。実は文系だって同じことで、何を発見したかを書けばいいのだ。但し、文系の場合は発見したことが何であるかを説明するのに単文では済まないだけなのだ。と言うより、事実の発見だけではなく、関係の発見であったり、思想の発見であったり、動きの発見であったり、単なる事実の発見にとどまらないのだ。だからどうしても文章は長くなると、表現にも技巧が必要になる。それだけのちがいなので、核心としては「発見」を重視しなくてはならない。それがガッカイへの貢献というものなのだろう。そして先行研究の「発見」したことを尊重してその「発見」自分の研究との関係を問題として整理することが、論文のかたちを作ると考えていいと思う。