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新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

むい・びえん

2008年12月05日 00時10分54秒 | 教育・研究
太郎が恋をする頃までには…
栗原 美和子
幻冬舎

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昨日は会議日。午前中は専攻会議、部門会議、午後は学部教授会。ここまでは参加してるだけだが、その後に人事委員会。これは仕切る。人事案件が一つ通過。また新しいメンバーが加わる。戻ってきたら院生がえーと4人待っていた。それぞれに助言。いい研究、いい論文が書ければいいね。
鼻がグズグズしていたが、だましだまし忘年会へ。二次会は12月で閉店するワインバーへ行き、1時過ぎまで呑んでしまった。

九州教育学会

2008年11月24日 23時28分47秒 | 教育・研究
細木数子 魔女の履歴書 (講談社 アルファ文庫 G 33-12)
溝口 敦
講談社

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九州教育学会が熊本大学で開催された。mixiに書いたが、だいぶ過食したので体重が心配だ。
それはともかく、今回はわが研究室のメンバーがどどっと発表していた。それぞれに学ぶところはあったのだろうか。それぞれにはそれぞれいう機会もあるだろうから、別の話を書こう。
某氏の発表には驚いた。冒頭、「長くなるのでプロローグとエピローグは省略します」と来た。突然本論から入る。つまり何をしたいのか自体がよくわからない。ある人物の思想を分析しているのだろうが、人物評を滔々と語っているに過ぎない。まずいことに自信満々で、人の話に耳を貸す気配はない。
そういうのには深入りしたくない。Oさんの発表について。他研究室の人なのだが、いつも気になって、今回も自分のとこの院生をほたらかして、彼女の発表を見にいった。質問はしなかった。するべきことはなかったからだ。発表は何かを研究したというより見てきたことを報告しているというに尽きる。それはルポルタージュの手法であって研究ではない。しかし、ルポルタージュにも至っていない。責めて溝口敦くらいは読んでみて、自分の手法とくらべてみてごらん。
学会はゼミの発表ではない。何らかの学問的知見を学界(!)に問う場だ。何かを発表して業績稼ぎをするとか、他のセンセイに指導を乞う場ではないのだ。
そういえば某君はいみじくも発表の後、述懐していた。
「指導されてしまい、学会発表とは言えないものになってしまいました。」
その気持ちを噛み締めろ。次回はそうならないように心してがんばれ。
Oさん、他者の作品に学ぶことだ。まずは溝口敦を何冊か読んでごらん。ルポというのはここまでやることだということを学ぼう。ここまでやれるのでなければ今のやり方はやめた方がいい。研究は方向が違うし、ルポで行くというのはもっとたいへんなのだ。そのことを学ぼう。そして研究の方法をいい研究から学ぼう。社会学、歴史学、心理学、人類学なんかの研究をきっちり学んでみることが大事だな。

大学史を作る

2008年10月26日 23時34分26秒 | 教育・研究
反大学論と大学史研究―中野実の足跡

東信堂

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 『九州工業大学百年史』の校訂作業のために三日間九工大に缶詰状態で作業していた。おそらくは日本の近代工業教育史において前代未聞の金字塔となる大学史となるだろう。とQ大のA馬教授は草稿を見て叫んだ。
 それはひとえに専任でこの仕事に当たってきたわが研究室出身の左左(mixiname)さんの仕事のおかげだ。実にいい仕事をする。彼女がこの仕事についてまもなく前述のA馬教授は「いい仕事をする人だ。自分で仕事を作ることのできる人だ。それがこういう仕事の場合、たいせつなのだ」と評していた。
 実際、その仕事ぶりを見ていて指導教員としては世界中に自慢したいほど嬉しかった。実にいい仕事をする。いい仕事とは信頼される仕事をすることだ。その信頼感が彼女にはある。
 朝食の時に九工大のM教授は「左左さんの史料管理はすごい専門的な技術なのですね」と僕に言う。史料整理の苦手な僕としては穴があったら、いや穴がなければ掘っても入りたいくらい恥ずかしかったが、それは彼女の自己研鑽以外の何ものでもない。だから誰もが彼女を信頼する。そうしていい仕事が世に送り出されるのだ。

そうそう『九州工業大学百年史』は予約販売だ。手に入れたいと思う方はお早めにこちらへ

女大学

2008年10月17日 12時14分52秒 | 教育・研究
女大学集 (東洋文庫 (302))
石川 松太郎
平凡社

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某大学の大学院の非常勤を代打で始めた。その一回目。「女大学」というものを読んでみることにした。これまでもこれは講義で使ったりはしているが、話し合いながら読むとまた違った深まりがある。
書かれたものの現実感という問題にどうしても至るのだ。当時の人はほんとうにこのように考え、感じていたのか、と。
嫉妬みたいな感覚はわかりかねるようだが、女とはこんなものだと「五疾」について断定的にいわれると「洗脳されそう」という反応もあった。言えることは現代でもよくあることで「配偶者以外の異性と恋愛関係になってはいけない」という道徳律はある。みんなそう思っているが、ドラマなどではそれがよく主題となる。われわれはそうしたこと(ここでは不倫)はけっこうあるのだろうけれど、自分の周辺には起こらないし、自分はそうではない、と思っている。これが時代の良識という範囲であって、「女大学」に書かれている倫理も自分はその範囲に居ると思いつつ、逸脱する人たち(恋愛なんか)を遠くに見て心中ものなどに熱中していたのだろう。いずれにせよ、「教化」書としての「女大学」に書かれていることは守ったか守らなかったかは別としてその時代の標準的価値観であったのだと言える。もちろん、守らない人がいるのでこういう「教化」書が作られるわけで、そこが人間学である教育史のおもしろさなのだろう。
問題は現在の価値観でその時代を見るのではなく、その時代の価値観をこのようなものを通して推し量ることだ。
そのことが史眼を磨く。

休暇

2008年10月04日 10時30分29秒 | 教育・研究
食肉の帝王―と暴力で巨富を掴んだ男 (講談社プラスアルファ文庫)
溝口 敦
講談社

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10月1日~3日の間、休暇を取った。んで、4,5日は土日なので5日間の休みとなる。で、ずっと北の某所にいる。父親と一緒にいるのが目的なので基本的に炊事以外何もしない。本も読みかけのこの本を持ってきたが、ほとんど読んでいない。こういうすごし方もいいだろう。
今夜は高校の同期の仲間と呑むことになっている。これも目的のひとつだ。リフレッシュして月曜からお仕事に復帰だ。

学会というもの

2008年09月25日 01時46分36秒 | 教育・研究
学校は軍隊に似ている―学校文化史のささやき
新谷 恭明
福岡県人権研究所

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学会とはなんだろうか。若い人間にはよく考えて欲しいし、指導者にはあらためて考え直してほしい。
福岡に着任したのが1982年。26年前になる。突然見知らぬ土地に来たわけだし、その頃は交通費は今よりも高く、ややもすると東京に行けない年もあった。そういう中で中等教育史をしていた僕は研究の仲間がほしかった。しかし、個別に研究仲間はいても組織的に議論する仲間はいない。個別の研究仲間なんて言うのは「げんき?」「まあね」で、だいたい終わってしまう関係でしかない。
その不安からどうして中等教育史の研究者を組織したいと思って神辺靖光先生と相談して作ったのが中等教育史研究会だ。同じように幕末維新期の教育史をなんとかということで始まり、仲間に入れてもらったのが幕末維新学校史研究会だった。
大学史研究会に入ったのは院生の時だったが、その頃は四天王と言われた巨匠(当時は若かったのだと思う)が科研費を取って始めたもののようだった。その時代を一区切りするといって、若い研究者に運営を任されたときの隅っこにもいた。みんなそれらの領域で新しい研究の展望を作れるか、という野望に満ちていた。
いずれも今まだ学会にはなっていないが、学会の原点というのはそういうものだろう。学会が変わってきたから、これらの組織は研究会で居続けているのだと思う。
と言うことで、学会に来て思うに、学会をゼミの発表の延長に考えている人や、学会で誰かに教えを乞えるかも、なんて思っている不心得者が多すぎやしないかと思う次第だ。
実際、フロアからの発言が発表者に対する指導になっている場面も多々ある。それはおかしい。
学会は研究の成果を互いに示し合うところであって、自分の研究の指導をしてもらうところではない。その程度の研究発表が殊に院生には多い。
もっと研究者としての自負を以て研鑽を積もう。

教育史学会

2008年09月24日 17時03分44秒 | 教育・研究
学習指導要領を読む視点 2008年版 (2008)
竹内 常一
白澤社

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教育史学会が9月20,21日に青山学院大学であった。研究の中身の良し悪しはそれぞれの努力の結果だから仕方ないとしても、問題は議論のしかただ。某大学院生が質問に対する答を時間を顧みずに滔々とやっていたのには呆れた。自分の研究の不足する点について質問されたときに何とか誤魔化そうとして長い話をするのはよくない。訊かれたことに簡潔に答えて、なるべく質疑の時間をたくさん作るように心がけるべきである。まして大学院生ならば指導教員の顔を見たいと言いたくなる。自分自身の研究に問題点(殊に欠陥部分)があるならばそれを明らかにした方がいいのだ。いつも言うことではあるが、学会は学習発表の場ではなくて研究発表の場だ。つまり、ここで発表することは日本の教育史学の最先端の研究だと言うことだ。何か新しいことを発見したというので、学会発表をするという基本原則を忘れてはならない。
その意味ではこの院生は発表のベースになっている基礎知識自体に不足が多すぎた。研究発表のための研究発表なんていくらやっても意味がないし、高い旅費と時間を使って参加している人たちに対して失礼だ。われわれは他大学の院生の指導のために学会に来ているわけではないのだ。
もう一つ。某非常勤講師という人の発表には呆れた。1870~80年代のペスタロッチ主義の教育観を云々するのに長田新の訳を引用していた。歴史の方法がまったくなっていない。これは小学生でもわかることだ。かつ、知徳体を言えば皆ペスタロッチ主義だとか、論理に飛躍がありすぎる。プロセスがまったく考慮されていない。しかも、それを指摘されても見当違いの対応しかしない。話を誤魔化すことでその場を切り抜けようというのは前述の院生と同じだが、もしかして質問そのものを理解する能力に欠如しているのかもしれない。
この人についても「指導教員は誰だ?」という声が囁かれていた。N大とは彼のところか!と、ある人物は一時不良教員のレッテルを貼られかけた。実際そうであるかどうかはともかく、所属する大学の教員は陰口の中でそれを言われる。九大の院生諸君は九大の面目を背負っていることを重々肝に銘じて学会に出て行くことだな。



筑後地区人権・同和教育研究集会八女郡集会

2008年09月14日 08時40分38秒 | 教育・研究
学習指導要領を読む視点 2008年版 (2008)
竹内 常一
白澤社

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標記の集会が八女郡であり、僕は特別講座に呼ばれた。7月に柳川で筑後地区人権・同和教育研究協議会の課題別研に呼ばれたときに合わせて頼まれたものだ。同じ話でいいとは言われていたが、少し手を加えた。
教育史、殊に近代教育史を研究するときに必要なのは現代及び近代教育に対する批判の視点だ。批判というのを非難だとか反論だとか勘違いする人もいるだろうが、そうではない。
史料批判ということはよく知っていると思うが、それと同じだ。きっちりと点検すること、テレビ的にいえばお宝鑑定することだ。その時現代教育に対するまなざしは絶対に必要になる。研究者を指向する者は往々にしてそこそこに優等生できた人間が多い。最近はそうでもない人が増えてはいるが、そうでもない人も魂を優等生に売り渡すことでこの業界に入ろうとしているのでは同じことだ。(これは教育現場に身を置く者も同じ。あのヤンキー先生の堕落ぶりを見ればわかることだ。)
教育学研究者に被教育者の怨みは見えない。被教育者の怨みに身を寄せることは難しい。まあ、無理だと思えばいい。ただ、自分の感じ方はたぶんまちがっている、と自覚していればいいのだと思う。
話が逸れた。教育史は何のためにするのか。僕はこの十数年、闘う教育史をめざそう、役に立つ教育史をめざそうとひそかに心懸けてきた。教育史とはもとより純粋アカデミズムにはなじまない。あくまで利用主義的に存在させられてきた領域なのだ。ならば、開き直ればいい。現代の教育の矛盾を暴く方法の一つとして教育史を役立てたいのだ。過去をほじくり返されればいやがるのは個別の人間だけではない。制度も同じことだ。
だから、学校の功も罪も暴き出していくのだ。
で、今回は旧師上田薫先生の文章を引用させていただいた。先生が昔から批判していたことが未だに変わっていない。その教え子たちにして然りかもしれない(自分も含めて)。

そうそう昔の河東中学校PTA会長のころの自慢話をしたら、会場にその当時の河東中学校のK先生が来ていた。こっちに移っていたのだ。ちと、みっともなかった。

んで、特別講座だけど、僕は第一部でお話。第二部はイソジンズという教員バンド。
なかなか愉しいバンドで、この日は2人だけの出場だったが、みんなこっちはノリノリだった。ことにギターのinomatchanという人のブログに僕は登場してしまった。
この方高校のセンセイなんだが、僕と趣味がよく似ていた。

学習指導要領を読む視点

2008年08月21日 11時35分57秒 | 教育・研究
学習指導要領を読む視点 2008年版 (2008)
竹内 常一
白澤社

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新しい学習指導要領が出たことはご存じだろう。教育基本法が変わったのを機にどどっと新しい教育のおかしな流れを作ろうとしている。そんなわけで『2008年版 学習指導要領を読む視点』という実に売れそうにないタイトルの本が緊急出版された。発行白澤社、発売は現代書館なのだが。執筆者は竹内常一、子安潤、木村涼子、阿部昇、加藤郁夫、小野政美、吉永紀子、鶴田敦子、松下良平、藤井啓之、寺島隆吉、金馬国晴、新谷恭明 と論客が揃っている。
内容はどこの解説書よりも闘争的だ。教育学研究は歴史や哲学の迷宮に陥っていてはいけない。常に現場で起きていること、日本の(世界の)教育がどうなっているのかを問題意識として認識しておくことが必要である。この本は教育学徒ならば必ず読んでおくことだ。