山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

ジャーナリズムは独占されていない

2005年08月12日 | メディア論
「ジャーナリズムはもともと社会改良運動だったはず」という湯川鶴章氏の問題提起が気になっている。「社会運動家の言論活動だったジャーナリズムを20世紀にメディア企業が独占した」との問題意識に立って、しかしながら「21世紀にはジャーナリズムが再び社会改良運動と1つになっていく」という予測。すなわち「参加型ジャーナリズム」論である。

私が気になるのは、「20世紀にメディア企業が独占した」という部分だ。これは、記者クラブ制度の閉鎖性を追及する人たちにも共通する問題意識だが、ジャーナリズムは果たしてメディア企業に「独占」された状態にあるのだろうか。

思うに、ジャーナリズムとは湯川氏のいうように、本来は社会をより良くするための言論運動だったのだろう。それは企業でなく、個人の営みとして始まり、やがて情報伝達手段が発達するにつれ、組織化されていったと考えられる。

一方、商業の発達は、遠隔地間の流通を促し、商品相場などの「情報」という新たな商品を派生させた。近代の幾多の紛争は、情報の商品価値を高め、アヴァスやロイターといった仲介業者を生み出した。「ニュース」の登場だ。

社会の進歩とともに「拠らしむべし、知らしめるべからず」の専制政府は滅び去り、ニュースは有権者の重要な判断材料となっていく。ニュースがなければ世の中で何が起きているかは分からない。いつしか、ニュースは民主主義を支える基本インフラとして、ジャーナリズムの一角として認められるようになった。

こうして近代のジャーナリズムは「社会改良のための言論活動」に、より実務的な「情報産業」が合流する形で形成されていったのではないか。そう考えると、企業によって「独占」されているジャーナリズムとは結局、報道機関によるニュース流通業のことであり、それはジャーナリズムそのものと言うより、ジャーナリズムの「一部」に過ぎないのではないか、とも思えてくる。

官庁や企業に常駐する記者クラブ詰めの記者たちは、社会改良のためにそこにいるのではなく、最新の情報を収集するためにいるのが実態だろう。彼らは広い意味での「ジャーナリスト」ではあるが、より正確に言えば「ニュース・レポーター」だ。

もし、ジャーナリズムを「社会改良のための言論活動」という本来の定義に限定するならば、それは20世紀においても「メディア企業に独占」などされていないと思う。メディア企業が独占しているのは、しょせん「情報産業」「報道ビジネス」というジャーナリズムの派生商品に過ぎないからだ。

「20世紀のジャーナリズムはメディア企業に独占された」という表現は、より正確には「20世紀のジャーナリズムには、報道ビジネスという新たな要素が加わった」とすべきではないか。

さらに言えば、そうした報道ビジネスは、決して「ジャーナリズムの本流」ではない。19世紀も、20世紀も、社会改良を目指すジャーナリズムの「本流」は一貫して、権威や権力から離れた市井の人々によって担われてきたのだ。

本来、ジャーナリズムの派生物に過ぎない「報道ビジネス」を、権力やメディア企業が、あたかも「ジャーナリズムそのもの」のように扱い、それによって「ジャーナリストになるにはメディア企業に入るしかない」という大いなる誤解を、市民に与えてしまったような気がする。

記者クラブの閉鎖性に対する批判も、こうした誤解の中から生じた。記者クラブに入れないフリージャーナリストらは「同じジャーナリストなのに、なぜ排除するのか」「あんな連中はジャーナリストじゃない」と反発する。

しかし、よく考えると、記者クラブにいる社員記者たちは、そもそも本来の意味での「ジャーナリスト」ではない。彼らはニュース・レポーターなのであって、本物のジャーナリストは、記者クラブなど必要としないはずだ。

もちろん、報道機関に属する記者も、日常のニュース収集活動の中で、社会の疑問に突き当たることがあるかもしれない。そうした疑問を追及し、問題意識が芽生えたときに初めて、レポーターはジャーナリストになる。

情報を集めて原稿を書いているだけではジャーナリストではない。取材活動の中で「これだけは許せない」という社会の矛盾を見つけることができるかどうか。そこが分岐点だ。

だから私は、「報道機関に勤めているからジャーナリストではない」と頭から決め付けるつもりもない。一線の取材記者から、原稿をまとめるアンカーマン、現場に取材を指示するデスク、部長、編集委員と階段を登る過程のどこかで「自分だけのテーマ」を見つけたとき、サラリーマンでもジャーナリストになれると思う。「自分だけのテーマ」を追及するのは、会社の業務の傍らでもいいし、本業が煩わしくなったら退職してフリーになればいい。

いや、ひょっとしたら、それは報道機関の社員に限ったことではないかも知れない。平凡な会社に勤めるサラリーマンやOLが、ちょっとしたきっかけで社会のある事象に疑問を抱くことはある。そんなときは、仕事の片手間に疑問点を追及し、インターネットで意見を公表すればいい。彼や彼女はその時点で、紛れもない「ジャーナリスト」になる。

「参加型ジャーナリズム」はそんな日常の延長線上にある。ジャーナリズムは決してエリートなんかに独占されてはいないのだ。(了)



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6 コメント

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Unknown (雷辺境公)
2005-08-13 21:07:59
ジャーナリズムに関する一連の記事を面白く拝見させていただきました。



記者クラブや参加型ジャーナリズムに関してはあまり詳しくないのですが、新聞や放送メディアに関して、闘うジャーナリストが少ない(なかなか登場しない)とよく感じています。



多く人が不満に感じているのは、各種メディアに布かれる韓国朝鮮人への異様な配慮です。

最近では2002年日韓ワールドカップでも広く認知されました。えひめ丸事をはじめとして、忸怩たる思いで、テレビを眺めてきた日本人は多いと思います。



最近では北朝鮮の拉致事件を契機に、幾分改善されてきましたが、いまだに十分とはいえません。



なぜ非難する記事を取り上げないのだろう?社会的圧力があるからか。それとも身体に危険が及ぶ可能性があるからなのか。



もしそれが原因なら、放送局・ジャーナリストに警備保障体制を提供するシステムも検討したり、局に寄せられた抗議内容はウェブで公開できる仕組みを作ってもよいと思いました。



しかし、原因のひとつには、メディアの行き過ぎた博愛主義的思考があるのではないか。

結局、メディア企業の社員には、泥まみれになっても是は是、非は非を貫ける社会的立場がないのではないか。



しかし、最近では、新聞や放送メディアの報道だけでなく、インターネットの掲示板の反応を見て、納得する人が増えてきました。



そういった意味では、メディア企業はジャーナリズムよりも、タブーを支配してきたのかも知れません。

インターネット掲示板やブログなど、それ以外のチャネルの出現により、メディア企業のタブー支配が崩れ始めたように思います。





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訂正 (雷辺境公)
2005-08-13 21:34:58
> えひめ丸事をはじめとして、忸怩たる思いで、

> テレビを眺めてきた日本人は多いと思います。



ハワイのえひめ丸事件でなく、玄界灘海難事故の誤りでした。

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ありがとうございます (山川草一郎)
2005-08-14 00:31:37
雷辺境公さん、コメントをどうも。韓国・北朝鮮に対する批判が少ないとは思いませんが、もしそうなら国内に朝鮮半島系の住民を抱えていることと無関係ではないでしょう。国と国との関係は、人と人との関係とは別レベルであるべきですが、その種の報道が国内で差別を煽りかねないと思えば、影響力の大きい大手メディアは慎重にならざるを得ないでしょう。



タブーが絡むと、大手メディアよりインターネットの方が、自由に議論できる側面はあると思います。建前論ではたどりつけない優れた考察を、ネット上で見かけることはあります。



ただ、これも「言論の質」に関わる話ですが、ネット上での韓国・朝鮮に関する記述には(正当なものもありますが)感情的な書きなぐりが多い気がしています。

「怒りの質」や「表現の質」が低ければ「ジャーナリズム」とは呼べないと、私が主張する理由も、その辺にあるのです。

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ありがとうございます (雷辺境公)
2005-08-14 02:00:31
リプライをありがとうございます。



> ただ、これも「言論の質」に関わる話ですが、ネット上での韓国・朝鮮に関する記述には(正当なものもありますが)感情的な書きなぐりが多い気がしています。



確かに仰るとおりですね。

最近は誹謗が行き過ぎ、一般人から見て、情報源としての評価が落ちてきてるなと思います。



> 「怒りの質」や「表現の質」が低ければ「ジャーナリズム」とは呼べないと、私が主張する理由も、その辺にあるのです。



この点は全く同感です。



> 韓国・北朝鮮に対する批判が少ないとは思いませんが、



昨今の事情は別として、そう感じますか?

例えば、最近までニュースでは、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国と呼んでいました。大体の方は、背後に会社員では対抗しづらい圧力団体があることは知っていると思います。



また日本では、安全保障上重要なスパイ防止法制定もなかなか進みません。戦争の後遺症もあるのでしょうが。



それ以外にも、日中記者交換協定、近隣諸国条項など西欧諸国と結んだなら、不平等条約と非難されてもおかしくない協定があります。



大手マスメディアは、一般社会の人々の思惑とは別に、重要な問題を無視したり、または都合のよい方向に誘導して来たように感じています。



山川さんの指摘されるように、メディアは「情報産業」「報道ビジネス」だと思います。必要なときに都合のよいジャーナリストを呼び、不都合があれば編集して流さなければよいのですから。



そういう意味で、優れたジャーナリストは良質な意見を大いに発信して、閉塞感を打破してほしいと思っています。

クオリティの高い著述には、個人レベルで支持金が集まり、大きな力になるとよいのですが。
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失礼 (山川草一郎)
2005-08-14 02:13:23
>昨今の事情は別として、そう感じますか?



最近の話だと誤解してました。朝鮮民主主義人民共和国と読んでたころは、確かにものすごい圧力があったようですね。といっても総連も大部分の人が祖国の正義を信じていたと思いますが。



北朝鮮の軍事情報を報道した記者が「総連に命を狙われている」と真顔で言ってたのを思い出しました。

(ちなみに彼は会社員でした)。差別に対する抗議団体という顔以外に、総連には防諜担当部門もあったようです。
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どういたしまして (雷辺境公)
2005-08-14 19:26:39
リプライありがとうござます。



そうですね。そのあたりの事情は雑誌でときどき報じられますね。



私は、基本的にマスメディアにあまり信頼を寄せていません。拉致事件のときには、今まで腫れ物に触るように逃げてきた大手メディアよりもはるかに首相を信頼しました。



ジャーナリズムの意味には、侍の心がけみたいな精神的な部分がありますね。報道ビジネスに携わる新聞記者では組織人として貫けない部分も多いと思ってます。また新聞記者自体が不勉強だったり、洞察力が足りない場合も多いと思います。



というわけで、市民一人一人に、自分の判断で優れたジャーナリストを支援するパトロン的精神が必要なのかなと思います。



昔はお気に入りの論客の意見は、ニュースからしばらく待って、雑誌で読めました。今はリアルタイムで論客の意見が読めます。良い時代になりました。



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