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長田百合子と谷川栄子の健康ブログ

カラダとココロを守る健康術満載! 主婦も必見!

バイオリンは繊細です(長田ゆり子)

2013-09-09 17:23:01 | ライフスタイル
いろんな会場で弾いているから、少しは慣れたつもりでした。
講演も30年は続けていますから、どんな会場だって簡単に話せると高を括っていました。
ところが、若い親たちばかりが集まる子育て講演とは違って、バイオリン演奏会場は様々な年齢の人たちが集まっているために空気をつかみ辛いのです。
まず、前の出演者たちが動きの激しい踊りだったために大量に汗をかいたのか、ステージ周辺の湿度の高さにびっくり。これは困ったと思って冷房を最強にして頂いたものの、時すでに遅しで弓が弦をうまく走りません。音が響かなくて、本当に困ってしまいました。
それを計算できなかったので、演奏前の挨拶内容が実に偉そうになってしまって・・・いやはやカッコ悪いのなんのって。
家に帰って、悔しいので弓と弦を確認したのですが、やはり湿気としか考えられませんでした。3時間程弾きまくって、悔しさを掻き消しました。
本当にバイオリンて難しいですね。
本当にバイオリンて繊細な楽器ですね。より好きになりました。

文香(長田ゆり子)

2013-08-25 21:49:49 | ライフスタイル
文香をご存じですか?

こんな酷暑が続くと、人の心は疲れていきます。
そんなとき、心のこもった手紙をもらったら
ほっとして、安らいだ気持ちになれるのではないでしょうか。

写真を見てください。
手紙文のいちばん最後に添える、季節に合った絵と歌です。

涼しい演出ができないかと思い
酷暑に合った絵はなにかを考えて「金魚がいい」と思いつきました。

パソコンから勢いよく泳ぐ金魚の写真をとりだして
参考にしながら水の底深く潜る金魚を描いてみました。
水性絵具で色付けをして
作品ですから自分の印を押しました。

それをカラーコピー機で何枚も複写し
ハサミで適当な形に切って
京都の匂い袋に入れる御粉の中に漬けこんでおきます。

つぎに季節に合った歌を探しますが
今回は与謝野晶子の夫である、与謝野鉄幹のうつくしく涼しげな歌を選び
毛筆でやさしく書いてみました。
その角にカッターで切り込みを入れて
金魚の絵を差し込めば《文香》の出来上がりです。

相手が封を開けた時
ほんのりいい香りがして
穏やかな心で手紙の文を読むことができるはず・・
最後のページで季節に合った金魚の絵と鉄幹の歌で涼しげな演出を味わうことができます。

あなたも
大切な人に、文香を出してみては如何でしょう。

ちっぽけな幸せに感謝(長田ゆり子)

2013-05-29 07:17:16 | ライフスタイル
幸せに対する意識が極めて高く、
彼氏は三高に限り、
高学歴の高所得者の
一流企業勤務でなくては嫌と言い

最後には「そんな人に出あいっこないから私は一生不幸のままです、きっと」と
今の現実に戻って拗ねて、落ちて、腐る。

私は一度だって「幸せだ」なんて思ったことがないくらい
幼い頃からいつも心に不満があったと愚痴る。

私は女性に言った。
「自分を幸せにしたいと思ったら
いつも幸せになれる方法を自分で考えて
そっちへ近づくにはどうしたらいいんだと工夫し、努力し続けなくてはいけない。

これだと思える案が見つかったら
失敗を恐れず
当たって砕けろの精神でまず実行してみるのが大切だ。

お金や物に対しては困るが
心が豊かになることだったら
人間はどれだけでも貪欲になったらいいことだ。

私は「なんとか弱い自分を支えてくれる男はいないか」と
常にアンテナを立てながら生きたからこそ、
遂に高校の時に現在の主人に遭遇できたと確信している。

自分の考え方を良くしない限り
貴方の人生も良くならないよ。
幸か不幸かは、自分自身が創り上げた結果に過ぎないのだから
もっと素直に物事を考えて爽やかに生きなさい」と。

すると女性から言葉が返った。
「それは先生が十代だったからできたこと
私は二十代だからもう遅いの。
幸せそうな人を見ると苦しくなるんです」と。
こんな女性は近い将来
顔も口はひん曲がって、きっと貧相な顔になるだろうと思う。

「ありがたいなぁ」と感謝できる人は
どんなちっぽけなことでも幸せを簡単に感じられる。

不平や不満を持ち続けて生きる人は
その原因をおよそ周りのせいにするから
感謝なんてちっともできないんだろうな。

だからちっぽけな幸せをどんどん見落して
人もどんどん離れていくから
孤独に腐って生きるしかないんだろうな・・可哀そうな人だなと思う。

みんな平等なんだから(長田ゆり子)

2013-05-21 22:30:31 | ライフスタイル
一年ほど前のこと
新幹線の改札口で、JRの職員に向かって車椅子の中年男性が大声で怒鳴っていました。
よく聞けば、「誰が見たって障がい者だと分かるだろう!なんで手帳を忘れただけで割引ができないんだ!俺を馬鹿にするな!」というものでした。
障害をもっている人を、馬鹿にするような人はまずいません。
およその人は、お困りの時はぜひともお役に立とうと思っているはずです。
しかし、「私は障がい者よ!」などと開き直って威張られてしまったら、それは話が別というものです。誰が強い態度の人を助けるでしょうか。
「割引券」を忘れたら、割り引いて頂けないのは常識です。
それは健常者でも障がい者でも全く同じことです。
昨日、障がいを持つ名の通った男性が、
「車椅子は入れない」と言われたことに腹を立て、
自らのブログで都内にあるレストランの店名を明らかにし
店員とのやり取りを克明に綴って
「入店拒否」されたことを徹底非難している記事が社会を騒がせました。
それがJRで騒いでいた男性と重なって、
実に不愉快な気分になりました。
健常者であれ、障がい者であれ、
社会に出たら人さまに協調して、
控え目に生きるのが人としての当たり前のルールではないでしょうか。


人間万事塞翁が馬(長田ゆり子)

2013-04-25 09:41:13 | ライフスタイル
司馬遼太郎が「日本人は源義経において初めて人気者というものを持った」と言っているほど、義経は当時の日本で最も有名で人気のある二十九歳の青年武将だった。
義経が取った戦法は、まさに常識破りの天才的なゲリラ戦法の類で、平家が意表を衝かれて倒れてしまったのだ。もしも義経がいなかったら、日本は三国志時代の中国のようになっていたかもしれない。中央に天皇家があり、西国に平家、東国に源氏、奥州には藤原氏となっていた可能性がある。それほど義経が日本史に与えた影響は大きい。
一の谷の戦いでは、平家の背後から騎兵隊で責めて勝利。
屋島の戦いでは嵐の追い風を利用して出港した船が、三日かかる行程をわずか四時間で進んで背後から責める形をとり、平家は八島を放棄して撤退。
壇ノ浦の戦いでは、平家船の、当時ではルール違反とされていた《非戦闘員の船の操縦者》を殺していくことだった。そして、平家一族は次々と入水自殺して、源氏の完全勝利となる。
ところが義経は朝廷から勝手に官位を受けてしまい、頼朝は「幕府の屋台骨をゆるがすものだ」と激怒する。頼朝の推挙があって初めて朝廷の官職が受けられるという極めて変則的な形でなんとか幕府の権威を維持していたのに、こともあろうに後の将軍となる頼朝の弟が、その最も重要な幕府の生命線ともいうべきルールを破って勝手に朝廷から官職をもらってしまったからだ。頼朝の怒りはすざましいものであった。
義経を代官の座から引きずりおろし,与えていた平家の領地24か所を没収、命を狙って刺客を出したため、義経は遂に兄と戦う各語を決め後白河法皇に「お許しがなければ宮中で自殺する」とまで脅して「頼朝追討」の院宣を手にした。「錦の御旗」を手にした義経は勇躍して兵を募ったが、「武士による武士のための独立国建設」という大方針を実行しようとしている頼朝を追悼しようとする者は思った以上にいなかった。
ガッカリした義経は精鋭200騎を率いて「まずは都落ちするしかない」と九州に向けて出航したが、不運にも船団が嵐にあって壊滅し、選び抜かれたほとんどの仲間を失ってしまう。義経はわずかに残った4人の家来(加えて妊娠中のお静)を連れて逃亡生活を送るが、つぎつぎと仲間が捕えられて、ただ一人捕まらなかった義経は奥州藤原氏のところへ亡命するしかなかった。
ところが義経の不運は続き、受け入れた70歳前後の藤原秀衡が亡くなってしまう。
頼朝はここで、朝廷が犯した最大の失敗《頼朝追討》の院宣を出したことに対して「このオトシマエはどうつけてくれるんだ」といった態度で出ると、武力をもたない朝廷は震え上がって、「今こそ代わりにこれをやる」という絶好の「幕府を開く」権利を朝廷に認めさせた。
朝廷はここで嫡男泰衡に「謀反人義経を討て」と命じたため、泰衡は義経を殺して、その首を鎌倉に届けた。一方で頼朝は、朝廷の制止も聞かず、大軍を動員して藤原家を滅ぼしてしまう。
ここで朝廷はその行為を追認し、今度は泰衡追討の院宣を出す。
泰衡は逃げる途中で家来の裏切りによって殺された。裏切った家来は泰衡の首をもって頼朝のもとに名乗り出たが、頼朝は「主君を殺すとは不届至極」と、ただちに首をはねた。
泰衡の頸は八寸の釘で杭に打ちつけられた。頼朝の先祖が、源家にとって許すべからざる敵奥州藤原家にそうされたからであった。
実は、この首は中尊寺金色堂に現存する。本尊の下に、藤原三代のミイラ「清衡・基衡・秀衡」が安置され、泰衡の首もミイラで保存されている。滅ぼされた「罪人一族」の遺体がそのまま保存されるということなど、日本以外には絶対にありえない。なぜ頼朝がこんなに優しいのかと言えば、彼もまた祟りが怖いのだ。
頼朝はまさに《馬鹿ツキ男》であった。
伊豆に飛ばされて命拾いした。八重と離縁した。次の彼女が北条政子で、父親が「ミニ家康」と後に言われた北条時政であった。挟み撃ちに遭った時、平家を良く思わない武士に逃がされたこと。義経が平家をあっという間に滅ぼしてくれた。義経が敵方奥州藤原氏に走ったが、嫡男の泰衡がアッサリ殺してくれた。そのために奥州藤原氏の討伐がなんなくできた。朝廷は何度も引き起こした大失敗に、「その代わりに幕府を認めろ」の頼朝の開き直りに応えるしかなくなった。こうして、天下は「元流罪人」頼朝の下に統一された。源頼朝の一生は正に「人間万事塞翁が馬」である。
私たちは常に大なり小なりの苦しみを背負っていますが、それを人のせいにしないで反省し、前向きに努力して乗り越えれば、悪い結果にだけは決してならないはずなのです。