2013年12月21日(土)
今年もそろそろ終わり・・。
大掃除は、ハハの家を片付けたので、もう充分やった気分で、
自分の家までする気が起きない・・。(^^;)
そこで、ハハの家を片付けたエッセイを載せ、働き者気分にひたる
ことにした。(文中仮名)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「遺品整理」
久しぶりに隣りの両親の家に入ると、かび臭さが増していた。ひと気の無い家の匂いだ。
七月に母が亡くなり、隣りの家は、空き家となった。仏壇も弟の家に移されると、私は、
糸が切れたように、隣りの家の雨戸の開けたてがおっくうになり、さぼるようになっていた。
母が入院してほどなく、父が亡くなり、五年。毎朝、仏壇の父に手を合わせる日課があってこそ、
空気の入れ替えに、気持ちや体が動いていたのだ。母の四十九日忌が過ぎ、弟と話し合って、
両親の家は売りに出すことにした。当然だが、そのためには、家一軒を空にしなくてはならない。
不動産屋にそう言われただけで、疲れが出てくる。父が亡くなった時は、私は、ただ身体を動かして
いたくて、父の衣類、本、雑誌、書類を片付けまくった。重い本を二階のベランダからドーン、
ドーンと庭に広げたブルーシートに投げ落とし、それらを縛って子供会の廃品回収に出した。
あの奮闘は、五歳若かったからこそ出来たと、今は分かる。おまけに、この夏に腰を痛め、
力仕事はなるべく避けたいのだ。
「お年寄りが亡くなった後は、一切合財遺品整理業者さんに頼む」というテレビの番組を見たときには、
ドライな時代になったと寂しさを感じたが、それは第三者の感想だった。もうそんなことは言って
いられない。それで、義妹の紀子さんと家族の目で残された物を見、出来るだけ片付け、
頂きたい物を選り分け、そして、後は業者さんに整理を頼むことにした。
紀子さんとまずは二階の父の書庫にあがり、雨戸を開け、涼しい風を入れた。五年前には残した
父の専門書類が壁を埋めているのを見ると、仕事にかけた父の姿が思い出されるが、しかし、
取って置く場所も無い。また二階から投げ落として縛る作業をするしかないが、本の重さは私の腰の
危機だとため息が出る。ともかく、押入れから、気になっていた母の着物を取り出し、床に置いた
ダンボールの上に広げた。たとう紙から出てくる留袖、喪服、色留袖、訪問着……。紀子さんが、
「お義姉さん、気に入ったのがあったら、どうぞ……」
と、言ってくれるけれど、母はあまり着物を着る人ではなかったので、思い入れのある着物も
ないし、私自身、着物を着る機会もほとんど無い。三十年以上前、夫の母が亡くなったときは、
実の娘や嫁たちで形見の着物を分けたが、頂いても結局は仕舞いっぱなしになっただけだった。
それらを含め、私自身の着物は喪服一枚を残してやっと整理したばかりだ。着られなくても
母の着物を貰ってしまったら、同じ事を繰り返しそうで、頂くのは勘弁して欲しい。背が高い
紀子さんも母の着物は着られないというし、娘も、姪も着ない。茶道をしている紀子さんに
帯を一本貰ってもらっただけだった。だが、残りを燃えるゴミに出すのも気が進まないし、
リサイクル店に持ち込んで、目の前で母の着物に五百円とか千円とか値を付けられるかと思うと、
気が塞ぐ。相談し、ファイバーリサイクルにまとめて出すことにした。着なくなった衣類を集め、
発展途上国に送ったり、国内のリサイクル店に卸したり(着物だから、こちらの可能性のほうが
高そうだ)、あるいは、工場用のウェスにしたりする団体なので、きっとどこかで再利用して
くれると、思うことにした。
着物の行き先が決まり、押入れの小引き出しにある和装小物を出していた紀子さんが、
「あら?これは何かしら?」と、薄い三越の袋を取り出した。中には、俳句を書いた短冊が入っている。
俳句を趣味としていた母の句のようだ。だが、達筆な草書体で書かれているので、情けないことに、
私にも、紀子さんにも、読めない箇所がある。
「朝○○○刈る鎌のリズムか○ 藤枝」
夫が亡くなってからは、私は夫の手書きの文字を見るのが辛く、手帳や謡本への書き込みなどは
見ないようにしてきた。だが、母の流暢な筆跡は、目に、心に入ってくる。この違いは何だろう?
作品として、「他者に開かれた文」だからかとも思うが、それなら、肝心な母の句をちゃんと読みたい……。
本当に欲しい物が見つかり、
「私、これ、頂くわ」
と、私はきっぱりと言い、紀子さんも「それが良いですね」と、頷いた。
その後は、一階の台所に行き、皿や鍋、調理道具などを、茶色い可燃ゴミの袋、青い資源ゴミの袋、
黄色いプラスチックゴミの袋に分けて入れていく。父や母の生活の跡を消していったが、
色紙を頂いた私は、後は、手早く処分を進めることが出来た。
数日後、書道をしている友人に母の句の短冊を見せると、「草書は難しいのよ」と、言いながら、
読み解いてくれた。
「朝露を 草刈る鎌の リズムかな 藤枝」
初秋の頃か。家の庭の草だろうか。しゃきしゃき働いていた頃の母が、草を刈っている。
母の鎌のリズムで零れる朝露を受け、濡れた母の手……。
母の見た一瞬の光景が広がっていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今年の疲れが出てきて、年末は、もう働きませんと、宣言します・・。(^^;)
今年もそろそろ終わり・・。
大掃除は、ハハの家を片付けたので、もう充分やった気分で、
自分の家までする気が起きない・・。(^^;)
そこで、ハハの家を片付けたエッセイを載せ、働き者気分にひたる
ことにした。(文中仮名)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「遺品整理」
久しぶりに隣りの両親の家に入ると、かび臭さが増していた。ひと気の無い家の匂いだ。
七月に母が亡くなり、隣りの家は、空き家となった。仏壇も弟の家に移されると、私は、
糸が切れたように、隣りの家の雨戸の開けたてがおっくうになり、さぼるようになっていた。
母が入院してほどなく、父が亡くなり、五年。毎朝、仏壇の父に手を合わせる日課があってこそ、
空気の入れ替えに、気持ちや体が動いていたのだ。母の四十九日忌が過ぎ、弟と話し合って、
両親の家は売りに出すことにした。当然だが、そのためには、家一軒を空にしなくてはならない。
不動産屋にそう言われただけで、疲れが出てくる。父が亡くなった時は、私は、ただ身体を動かして
いたくて、父の衣類、本、雑誌、書類を片付けまくった。重い本を二階のベランダからドーン、
ドーンと庭に広げたブルーシートに投げ落とし、それらを縛って子供会の廃品回収に出した。
あの奮闘は、五歳若かったからこそ出来たと、今は分かる。おまけに、この夏に腰を痛め、
力仕事はなるべく避けたいのだ。
「お年寄りが亡くなった後は、一切合財遺品整理業者さんに頼む」というテレビの番組を見たときには、
ドライな時代になったと寂しさを感じたが、それは第三者の感想だった。もうそんなことは言って
いられない。それで、義妹の紀子さんと家族の目で残された物を見、出来るだけ片付け、
頂きたい物を選り分け、そして、後は業者さんに整理を頼むことにした。
紀子さんとまずは二階の父の書庫にあがり、雨戸を開け、涼しい風を入れた。五年前には残した
父の専門書類が壁を埋めているのを見ると、仕事にかけた父の姿が思い出されるが、しかし、
取って置く場所も無い。また二階から投げ落として縛る作業をするしかないが、本の重さは私の腰の
危機だとため息が出る。ともかく、押入れから、気になっていた母の着物を取り出し、床に置いた
ダンボールの上に広げた。たとう紙から出てくる留袖、喪服、色留袖、訪問着……。紀子さんが、
「お義姉さん、気に入ったのがあったら、どうぞ……」
と、言ってくれるけれど、母はあまり着物を着る人ではなかったので、思い入れのある着物も
ないし、私自身、着物を着る機会もほとんど無い。三十年以上前、夫の母が亡くなったときは、
実の娘や嫁たちで形見の着物を分けたが、頂いても結局は仕舞いっぱなしになっただけだった。
それらを含め、私自身の着物は喪服一枚を残してやっと整理したばかりだ。着られなくても
母の着物を貰ってしまったら、同じ事を繰り返しそうで、頂くのは勘弁して欲しい。背が高い
紀子さんも母の着物は着られないというし、娘も、姪も着ない。茶道をしている紀子さんに
帯を一本貰ってもらっただけだった。だが、残りを燃えるゴミに出すのも気が進まないし、
リサイクル店に持ち込んで、目の前で母の着物に五百円とか千円とか値を付けられるかと思うと、
気が塞ぐ。相談し、ファイバーリサイクルにまとめて出すことにした。着なくなった衣類を集め、
発展途上国に送ったり、国内のリサイクル店に卸したり(着物だから、こちらの可能性のほうが
高そうだ)、あるいは、工場用のウェスにしたりする団体なので、きっとどこかで再利用して
くれると、思うことにした。
着物の行き先が決まり、押入れの小引き出しにある和装小物を出していた紀子さんが、
「あら?これは何かしら?」と、薄い三越の袋を取り出した。中には、俳句を書いた短冊が入っている。
俳句を趣味としていた母の句のようだ。だが、達筆な草書体で書かれているので、情けないことに、
私にも、紀子さんにも、読めない箇所がある。
「朝○○○刈る鎌のリズムか○ 藤枝」
夫が亡くなってからは、私は夫の手書きの文字を見るのが辛く、手帳や謡本への書き込みなどは
見ないようにしてきた。だが、母の流暢な筆跡は、目に、心に入ってくる。この違いは何だろう?
作品として、「他者に開かれた文」だからかとも思うが、それなら、肝心な母の句をちゃんと読みたい……。
本当に欲しい物が見つかり、
「私、これ、頂くわ」
と、私はきっぱりと言い、紀子さんも「それが良いですね」と、頷いた。
その後は、一階の台所に行き、皿や鍋、調理道具などを、茶色い可燃ゴミの袋、青い資源ゴミの袋、
黄色いプラスチックゴミの袋に分けて入れていく。父や母の生活の跡を消していったが、
色紙を頂いた私は、後は、手早く処分を進めることが出来た。
数日後、書道をしている友人に母の句の短冊を見せると、「草書は難しいのよ」と、言いながら、
読み解いてくれた。
「朝露を 草刈る鎌の リズムかな 藤枝」
初秋の頃か。家の庭の草だろうか。しゃきしゃき働いていた頃の母が、草を刈っている。
母の鎌のリズムで零れる朝露を受け、濡れた母の手……。
母の見た一瞬の光景が広がっていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今年の疲れが出てきて、年末は、もう働きませんと、宣言します・・。(^^;)