研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

ヘンリー・アダムズの挫折(4・完)

2005-12-26 01:50:37 | Weblog
建国の父たちが慎重に先送りにしてきた州と連邦との間の緊張関係は、結局南北戦争という形で露見することになったわけだが、この問題にある種の解決をもたらしたのは、必ずしも北軍の勝利ではない。それは、「金ピカ時代」のアメリカにおけるなし崩し的な「状況」であった。

科学技術が飛躍的に発展し、産業が興隆し、都市には低賃金の移民労働者が流れ込み、本格的な資本主義が勃興した。鉄道は諸州を横切り、アメリカ大陸は猛烈な勢いで一つの市場になっていった。要するに、政治的努力やコンセンサスの形成に先んじて、市場がなし崩し的にアメリカを一つの経済圏にしていった。これを「市場革命」と言っても良いし言わなくても良い。要するに、この時期のアメリカの諸問題は、行政・法律における後進性と経済的現実のギャップによって生じていた。州政府が依然として強力な独立性を維持する建国以来の分権的政治観念が大陸大の現実に対応できないでいたのである。鉄道問題、移民の増大、都市問題、強力なビッグビジネスの存在に、建国以来の政治哲学が対応できなくなっていた。

この時期、アメリカを握っていた概念は「ビジネス」である。それに対して、建国以来の「自然的貴族」たちは疎外されていた。この時期にアメリカで流行っていたものとして、イギリスでは二流以下の思想家であったハーバート・スペンサーの「社会進化論」であり、その下地になっていたのは反知性主義である。強大なエネルギーの集中と拡散。これをどのように制御するかが疎外されたインテリたちの課題となる。そして、その時彼らがすがりついたのは、社会進化論同様のある種の「(擬似)科学」だった。この盲目的なエネルギーの濁流をなんとか科学的に制御できないかというのが彼らの一縷の望みだったのである。

ヘンリー・アダムズは、ハーヴァード卒業後ドイツ、フランス、イタリアに留学する。そこで彼は何を学んだかというと、「科学的歴史の方法」であり、ランケやコントに影響を受ける。後世の我々には、いろいろ突っ込みどころもあろうが、彼は真剣に歴史の科学に取り組んでいた。自然科学のごとき「法則」を歴史に発見しようとしていた。歴史が科学ではありえないと可愛げもなく開き直るのは我々の時代の特権(悲劇?)であり、19世紀までの人々にとっては、政治学においても歴史学においても「科学」というのが最後のよりどころであった。熱力学の第二法則が歴史研究の役に立ちそうに思えた。

「歴史を書く」。これは、弟のブルックス・アダムズが兄(ヘンリー)に提案していた「アダムズ家の最後の使命」であった。弟のブルックスは、自らを「消え行くアメリカの名門」と定義し、それゆえ文明の衰亡史を書くのが自分たちの仕事なのではないかと兄に伝えた。事実、彼は文明批評家になった。しかしヘンリーは気乗りしなかった。というのは、アダムズ家には初代ジョン以来のある価値観があった。それは、若き日のジョン・アダムズの日記に出てくる「才能のヒエラルヒー」である。最下層にあるのは、「職工の才能」。それより高いのは「偉大な詩人の才能」。それより高いのは「科学的才能」。それより高いのは「道徳的才能」。もっとも高いのは「政治家としての才能」である。こういう序列がアダムズ家にはあった。たしかにジョン・アダムズは、歴史を書き、さらにはジャーナリスティックな活動も行ったが、それらはみな立法者としての自分をつくるための作業であった。つまり、専門的な文筆家や学者というのは、「アダムズ」には遺憾な状態なのである。しかし、二人の兄の政治活動はまったく上手くいかない。上手くいかない理由を探求するためにますます歴史にのめり込むうちに彼は心ならずもハーヴァード大学の中世史講座の教授になる。中世史・・・。同時代への熱烈な関心と中世史研究が、実は内在的につながっているというのは私には非常によく分かるのだが、多くの人々にはおかしいのだろう。私は、現代アメリカを解明するのに役立つと思って建国史を研究しているのに、「アクチュアリティがない」とか言われるので、このへんの気持ちは非常によく分かる(笑)。

ハーヴァード大でのヘンリーは、アメリカで初めてゼミという形式を始める。ドイツ仕込みである。ここで彼は、旺盛なジャーナリスト活動と『合衆国史』の執筆に取り組み始める。歴史研究とジャーナリズムは、一人の人間の能力として本当は矛盾していないことはヘンリーの作品を読めば明らかである。前者は、社会の仕組みを分析・暴露・批判するもので、主観的には初代ジョンの『教会法と封建法について』(ジョン・アダムズ30歳のときの作品。これで彼はデビューする)に連なるものだが、これはむしろ後のマックレーキングの元祖とされる。実に明快・痛烈な名文である。後者は、「科学的歴史叙述」によるアメリカ史の法則の解明を試みたものである。どちらも後世から名著とされているが、主観的には挫折感のみが残ったようである。ジャーナリズムでは結局何も変わらなかった。『合衆国史』は九巻に渡る大著だが、記述できたのはジェファソン政権とマディソン政権までである。ここで挫折した。もう書けなかった。包括的なアメリカ史を科学的に書くことなど実は不可能であることを我々は知っている。だからこれは彼の無能ではない。彼の失敗によって発見されたのである。

とうとう彼は、ハーヴァード大学教授という「不名誉な」職を辞して、ワシントンに赴く。しかしまるで相手にされない。「政治など先生のような方が、なさる仕事ではありません」という対応を受ける。都市の政治ボスには「アダムズ」など魅力のないブランドである。政治家は木偶人形で十分なのだから。名望家支配の時代はとっくの昔に終わっていた。正直、我々から見れば喜劇である。しかし、彼の使命感からみれば深刻な悲劇だった。

「私の人生は失敗だった」。これがヘンリーの晩年の総括である。「ハーヴァード大学教授止まりのつまらない人生」、「不適合な人間」というのがヘンリーの自己認識であった。客観的には彼は同時代において文筆の成功者であった。しかし、彼の挫折感は深かった。文筆での成功など、「自然的貴族」の使命ではなかったのである。しかし、彼は時代に適合できなかった。

さて、彼は本当に間抜けなお坊ちゃんだったのだろうか。あるいは、初代ジョン以来の「アダムズ」、すなわちジョン・アダムズ同様、アメリカに不適合な人間だったのだろうか。必ずしも、そうとばかりは言えないことは、まもなく明らかになる。それは彼の死後、ウオルター・リップマンの“Drift and Mastery”(「漂流と制御」)そして『世論』に明らかである。リップマンを読んでから、ジャーナリスト・ヘンリーの作品を読めば、すべてはそこに語られている。リップマンに盗作疑惑をかけたくなるだろう。ヘンリーの問題関心が、遅ればせながら20世紀になり受容されたのである。そして政治の世界においては、セオドア・ローズベルトの登場である。名門の子弟で、ハーヴァード出身の彼が政治の世界に進路を定めることが、当時どれほど奇異であったかは、今日からは分かりにくいかもしれない。彼の時代において、初めて「全国的な問題」に対応する可能性が政治に開け、州と連邦との間隙に存在していた政治ボスが力を失っていくのである。革新主義の時代である。革新主義とはあまりに多様な運動の総体であるが、政治に関する限りその理想はあくまで建国の時代であったと主張できる。ただ、それを実現する手段が連邦政府だったというのが圧倒的な新しさであり、発見であった。革新主義の時代が理念的にはアメリカ史を救ったというのはこのためである。

古典的言語で将来を理解するために、同時代において敗北し、後世からは「不適合者」としていつまでも歴史に残るという意味では、確かに彼も「アダムズ」であった。政治的に成功した経験がないということを除けば、初代ジョンに資質が良く似ていると私は思う。ただ、初代ジョンは、若き日には酒場を訪れて顔を売り、貧乏人の弁護を引き受けては自分をアピールしたという時期があったことを、ヘンリーは忘れていたのではないか。こればかりは、育ちの違いでどうしようもなかったのだろう。