研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

再び代表について

2010-07-22 17:43:51 | Weblog
代表するとはいかなることであるのか。以前、このブログでは、国会議員についての二つの代表観を検討したことがある。国会議員は、「地域代表」であるかのか、それとも「国民代表」であるのか。議員の選出が各地選挙区で行われる以上、その議員は、あくまで選出地域の代弁者であるというのが「地域代表」という考え方である。それに対して、選挙区が分割されているのは利便性と多様な国民の意見を吸収するための手段なのであり、国会議員として選出されたからには、議員は全体の利益を自らの裁量と責任によって独自に判断し、国民全体の奉仕者となるべきとするのが「国民代表」という考え方である。おおよそ大学で学ばれる法学(スコラ法学)は、後者の立場、すなわち「国民代表」を通説としている・・・ような印象がある。

民主制とは、議決が自分の見解と違ったものであっても、多数意見に従うこと、その「本当は不同意」の多数意見がもたらす帰結を自己の責任として受け入れることにその肝がある。つまり、「一人ないし少数の専制」に代えて、「多数者の専制」を選択したものに過ぎないのだが、これに権力分立、代表者の任期制、思想・信条の自由、言論の自由等の諸権利を憲法で確認することによって、多数者の専制を抑制しようというのが、ジェイムズ・マディソンらによる『ザ・フェデラリスト』の精神である。本当は、代表者が一人であるか、少数者であるか、多数者であるかというのは、統治の効果としては実はそれほど違いがない。「世襲の君主と選挙で選ばれた君主との間に違いは存在しない」(ジョン・アダムズ)。ただ立憲的抑制があるかないかが自由な政府と専制を分ける。

当然、代表民主制の場合は、自分の選挙区以外から選出された議員の見解に従うことをも容認しなければならない。なぜなら、議員が国民全体の利益を考察し判断する存在である以上、その「よそ者」の議員は、抽象的・実質的(virtual)に全体を代表しているからだ。これを議員のvirtual representationと呼ぶ。抽象的・実質的に代表できるからこそ、彼らの統治する国家はひとつと言えるのだ。これは代表に関して、「国民代表」の立場を前提としている。

だから原理的に考えれば、議員はいったん選出された以上、(選挙民からも)独立した存在として、判断をすべきだということになる。この点は、実はルソーが非難した部分である。「選挙を民主的だというのは間違っている。市民が主人でいられるのは投票日までであり、いったん当選者が決まると市民は彼の奴隷になる」。しかし現実には代表に選ばれた者たちの熟議に任せてしまう方が良い結果になる場合が多い。いや、人間社会の歴史を見る限り、代表者の自立性がない議会がもたらす混乱ばかりが目に付く。議員を統制しようとするのは、衆愚政への道かもしれない。まして政党の幹事長が、統制しやすい者を議員とするなどということは簒奪行為そのものである。

思うに「代表」とは、どういう母体から選出された存在であっても選出後は独立していなくてはならない。例えば裁判官の「自由心証主義」にもこの精神がある。また、外交官、ことに大使という職務もそうだろう。広く国民の多数を選出母体とするか、一定の資格試験を選出母体とするか、あるいは行政組織の人事のめぐり合わせを選出母体とするかの違いはあるが、「代表」とは、いったん選出された以上、自分の理性をもって世界における共同体の運命を判断しなければならないという点で、変わるところはないのだ。もし仮にカントの前提が正しいなら、独立した代表者の熟議はルソーの「一般意志」らしきものを導く可能性がある。そうでないならば、代表を選出する意味そのものがないだろう。代表者に自立性を持たせないことが害悪である理由もここにある。もっとも代表者が自立的であることは常に困難なわけだが。

しかし、近年の「地域主権」の議論を聞いていると、その論者の多くは「地域代表」の観点に立っているように見受けられる。本来、地域代表の立場をとる者には、田舎の人間が多かったはずだ。少なくともそう思われてきた。ところが近年の面妖さは、東京、大阪、横浜などの大都市にこの立場をとる人々が多いことである。東京都や大阪府が「地方自治」を口にする異様さはなんなのだろう。こんな剥き出しの地域エゴがなぜ平気でまかり通るのか。自分たちの利益が代表されていないと考えているらしいが、欲が深すぎるのではないか。それとも代表とは直接代表(actual representation)でなければならないと考えているのだろうか。この剥き出しのエゴの帰結がどうなるかは、タイのバンコクの暴動を見ればわかるだろう。タイの都市富裕層は、いわゆる「コモン・ウエルス(国家)」に対する認識が無さ過ぎた。

例えば「一票の格差」は、現在の日本全体のあり方を表しているものであって、是正それ自体を目的にしてはいけない。票の格差が出る背景を是正すべきなのだ。それが政治なのではないか。例えば鳥取は一人当たり東京の4倍の票をもっているのだという。ということは鳥取の生活の豊かさが東京の4分の1以下ということだ。ここをなんとかすべきだ。そもそも本当に鳥取はオーバー・リプレゼンテーションなのか?もしそうなら、東京から鳥取に人口移動がなければおかしいではないか。人口移動が起こる様子が片鱗もないということは、この一票の格差は寸毫も問題ではないということだ。一票の格差に国民の多くが無関心なのはそういうことなのだ。それは「コモン・ウエルス」維持の必要経費みたいなものなのだろう。

それにしても、想像力を持ち続けること、さらには自分自身が倫理の主宰者であり続けることは、本当に困難なことなのだとつくづく思う。多くの人々に代表たる経験を積ませる効用を説いた故人、反対に衆愚に代表たることをそもそも期待しなかった故人の偉さがともにしみじみよく分かるような気がする。昔の人はなぜあんなに偉いのだろう・・・。

北海道論(6)-札幌の成功と北海道の失敗

2010-07-15 20:07:17 | Weblog
マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)という言葉がある。「明白なる運命」という意味で、ジャーナリスト、J・L・オサリバンが、『デモクラティック・レビュー』(1845年7月号)に発表した論説「併合」で使用した言葉である。アメリカ合衆国の西部、さらには西半球全域への膨張を倫理的に正統化する機能をこの言葉は果たしたとされる。

まさにそれは「倫理的」な概念であり、必ずしも論理的でもなければ道徳的でもないというのが重要である。つまり大変難解である。この難解な概念をアルバート・K・ワインバーグ(Albert K. Weinberg)は、Manifest Destiny: A Study of Nationalist Expansionism in American History (The Johns Hopkins Press, 1935) によって、植民地時代からカナダ併合論が収束するあたりまでのアメリカ政治史のすべてを題材に政治思想史的な分析を施し、なんとかこの概念を明らかにしようとしている。最初は自然権(natural rights)の文脈から分析が試みられ、最後は「政治的重力(political gravitation)」という一種の中華思想が「丘の上の町」という自意識を基礎に政治思想として確立していく様子が描かれている。そしてウイルソンの宣教師外交の内的必然性をみごとに論証している。ただし結論は、Manifest Destiny have never been manifestというもので、残念ながらこれが今日に至る通説である。

この難解な概念は、大陸国家のすべてに当てはまる。中国やロシアはなぜあんなに広いのか。少数民族の権利について尋ねた時の彼らの尋常ではない怒り方は、単純な利益論を超えたものがあることを示している。もちろん、大陸国家にかぎらない。例えば、かつてH・キッシンジャーが、中国の台湾に対する執着について問われた際に、それを「日本と沖縄」で類比をして見せたことがある。もちろん、これはアジア政治をまったく知らないキッシンジャーが完全に的外れなことを言ったもので、論外すぎて話にもならないのだが、ポイントは我々のこの逆鱗にある。沖縄は「明白に」日本である。もし外国人が「そこ」にくちばしを突っ込んだ場合は、もう十分な戦争の理由になる。マニフェスト・デスティニーが倫理的である理由はここにある。それは理性よりも神聖であり、たぶん命よりも重い。

私には幼いころからずっと引っかかっている光景がある。私の育った北辺の土地は、港町なのに世界に開けていなかった。その港は北極を向いていて、まったく国際性というものがない。太平洋や日本海のように、どこかに向かって開けた海ではなく、閉じた海だった。そう、私が見てきた海は、オホーツク海だったのだ。日本人にとっての第三の大洋というか、たぶん日本人と海の関係史でいうと別のパラダイムの世界だったのではないか。とにかく、津軽海峡は本州と北海道をつなぐ海峡であるのに対して、宗谷海峡はどこにもつながっていなかった。

もう少し正確に言うと、冷戦中だったのだ。宗谷海峡の向こうは、本当に別宇宙の政治体制が存在していて、境目に住んでいる住民は海から閉め出されていた。冷戦は終焉するまでその終焉を予測した者はいなかった。冷戦終焉前のオホーツク海は、権力層と自衛隊のみがその存在を認識する海で、日本の庶民には存在していないも同然の海だった。稚内に住んでいても、漁師以外は、誰も海に関心を持たなかった。本当に不思議なのだが。漁師たちは、「オオマガキ」で何かを本当は見ていたのかもしれない。しかし、彼らの言葉は訛りがきつすぎて、市役所職員の息子である私には何を言っているのかさっぱり分からなかった。みんなそうだった。

しかし私は幼いころから海の向こうに島があることに気づいていた。稚内の海岸から樺太(サハリン島)は見えるのだ。天気の良い日ならば、樺太の近辺を巡るソ連の国境警備隊の船体に陽光が反射して銀色に輝くのが見えた。鉛色の海の向こうに見えるあの島には、確かに人間が住んでいるようだった。私は、どうにもそこに行ってみたかった。見れば見るほど、相当大きな空間であるように思われた。休日になるとしばしば父親に自動車で宗谷岬に連れて行ってもらった。何もない宗谷岬から、私は飽きることなく樺太を見ていた。何がそんなに引っかかっていたのか。実は私の感性は正しく機能していたのだ。

徳川幕府時代は、北海道を「蝦夷地」、樺太を「北蝦夷」とした。まずは蝦夷地を確保したうえで、北蝦夷はロシアとの状況次第といったところだったのだろう。しかし蝦夷地を北海道と改めるころには方針は固まっていたと思われる。小樽をもって北海道の都とせしめたことがそれを示している。日銀の支店を置き、倉庫(この時代、倉庫は銀行業務も兼務)を充実させた。ちなみに札幌はこの段階では想定外だったという。札幌は農学校を設置したことに示されるように、研究施設と食糧基地の位置づけだ。北の「帝都」は断然小樽だったのだ。そして小樽の位置を見れば中央政府の意図ははっきりする。次の停泊地は絶対に稚内であり、稚内の次は絶対にサハリン島のコルサコフだ。中央政府は樺太を日程表にはっきりと入れていたのだ。小樽が北海道の都であるということは、サハリン島は日本であると主張しているのと同じであり、もし小樽が北海道の都であるならば、確かにサハリン島が日本であることは明白なのだ。北海道と樺太はワンセットの企画だったのだ。

壮大な展望である。千島列島と樺太が日本だとしたら、オホーツク海は日本の内海となる。稚内からオホーツク海岸沿いの地域の地位は、まったく違ったものになっていただろう。宗谷海峡の重要性は、津軽海峡とは比較にならなかったはずだ。小樽と稚内がそれぞれ日本海とオホーツク海を代表する文化地域になっていたはずだった。つまり北北海道の設計工学は樺太を前提としていた。それが宙に浮いたのだ。樺太を失い、すぐに冷戦になった。そのため本件は考えてはいけないことになった。北方のマニフェスト・デスティニーは、とてつもない力で封印され、行き場を失った。そして想定外の札幌が肥大化した。

北海道開拓のすべては樺太と一対になった事業だったわけで明治以来の北海道開拓史の延長上に現在の北海道は無い。札幌の肥大化は、北海道開拓の失敗を象徴している。北海道が損なわれて、札幌が残った。