研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

社会的紐帯の消滅がもたらすもの

2005-07-09 18:27:04 | Weblog
社会的紐帯が消滅することの最大の問題は、人間の成長プロセスを助けてくれる機能がなくなるということである。社会的紐帯がもたらすこの機能とは、具体的にはどういうことかというと、例えば「適当な時期に学校に入れる」「適当な時期に職を用意する」「適当な時期に結婚させる」「適当な時期にそれなりの地位につける」ということである。

人間はだんだん人間になるのである。何も分からない子供は、ある時期周囲に強制され、学校に入る。学校に行くことで、初めて社会を体験し、自分の位置づけを考え始める。学年があがることでテーマや役割が変化していくことを経験する。そして受験という非常に客観的な試練を経て、努力→成果という基本的な因果関係を学ぶ。この過程が修了すると、なんとなく、就職先が用意される。職に就くと月給が与えられる。社会的役割を与えられる。社会人として認知される。こうして初めて「自由」を得る。社会人としての生活が軌道に乗ると、周囲が釣り合いのとれた結婚相手を紹介する。こうして家庭が築かれる。子供が生まれて親になる。家庭が安定したころ、その年齢と能力に見合った地位に昇進する。こうやって、オギャーと生まれた存在は、なんとなく人間になっていく。ずうっと日本人はそうしてきた。

現在はどうか。まず、職が無い。最近の若者がいいかげんなのではない。人間は最初、自分が何者で何をしたらいいのかなんて分からないのである。学生時代の哲学的悩みの根源はここにある。清水幾太郎によれば、哲学的にノイローゼになっている学生も、就職がきまるとさっと霧が晴れたように晴れやかな顔になるという。実際にそんなもので、学生的な悩みは職につけばなくなる。職につくことで、だんだん自分が分かってくるのである。ところが、今は職が無いのである。しかも、周囲が用意してくれない。自分で探せという。結婚もそうである。「お前は、お前の好きな人と結婚しなさい。お母さん(お父さん)は、何も強制したりしないからね」とか調子のよいことを言って、娘や息子の結婚相手探しを積極的に行うのを嫌がる。これは理想的な言説とは裏腹に、要は責任を取りたくないのである。相手方の家庭との付き合いが面倒くさいのである。そもそも結婚相手を自分で見つけてきた人など団塊の世代以前にどのくらいいたのだろうか。晩婚化が進むのは当たり前で、それは若い世代が結婚をしたがらないのではなく、彼らが世話をしてもらえなくなっただけのことである。案外指摘されてこなかったが、職と結婚は、これまで市民社会が若い構成員に用意してきたものだったのである。これを、グローバル化だの競争社会だの各人の自由意志だのいろいろな名目で用意しなくなっているのが現在の日本である。団塊の世代くらいまでは、みなこういう社会的恩恵を受けている。しかし、この世代は、自分たちがそれをどう担うかというノウハウは受け継がなかった。また核家族化の進展で、そもそもそういう機能自体が行使できなくなった。

こうして、団塊ジュニア以降の世代は浮遊することになった。その原因は、大人たちがその前の世代の大人たちが担っていた責任を果たさなくなったことにある。職を用意するのは社会の義務である。結婚させるのは、周囲の義務である。しかし、これはなかなか大変で責任とストレスを伴う。いろいろな理想論をいい、言っている本人もそれを信じているが、その深層心理は、無責任である。30歳を超えた娘に見合いの話も持ってこない親は親失格である。この不安定な社会で家庭を持たずに人間はどうやって死を迎えられるのか。自分たちが死んだ後、娘ないし息子がどんな人生を送るのか考えたことがあるのだろうか。職業も同様である。その人間がいいかげんなのではない。職に就き、地位をえることで始めて人間は責任感をもつのである。だからいいかげんだから職につかないのではない。職が無いのが悪いのである。そして職には社会が就けるのである。人間はここを忘れてはいけない。自分で職を見つけ、自分で結婚相手を見つけというのが出来る人は、実は案外少ないのである。たいていは、何らかの強制によって「まあ、いいか」と妥協し流れていくものなのである。つまり、職をもつこと、結婚して家庭を築くことは、人間という複雑な生き物が単独自力で行うのは難しい重要なことで、これは社会全体が若い構成員に強制することがらなのである。こうして初めて人間は人間になる。

そして、学校だけが制度として残った。歪むはずなのである。しかも打ち続く無責任の連鎖は、子供を学校に送るのさえ自明ではなくしつつある。寒々とした話である。

ニュートンとデカルト

2005-07-08 00:51:31 | Weblog
ニュートンが万有引力の法則を発見したとき、当時の啓蒙主義の時代に生きていた知識人たちは、その世界観を「オカルト的」と呼んだ。なぜなら、彼の想定する宇宙は真空であり、理由は分からないが、諸物にはみな引力があって、その引力の法則にしたがって、宇宙は運行していると語ったからである。ニュートンは、何故、諸物には引力があるのかは、分からないと言った。分からないが、神がそのように定めたのだと納得していた。何故、神がそうしたのかは分からない。分からないが、神の作った現世をよくよく観察してみると、このような法則がある(万有引力の法則)。それは、これまた数学という神秘的な魔術によって導き出されるのだという。微積分である。そして法則があること自体が神の存在を証明していると考えた。科学には、歴史性がある。17世紀の科学は神の存在証明を目的とした側面がある。ニュートンほど無神論の傾向のない人はいないだろう。彼は、神学におけるトマス・アクィナスのような存在である。

しかし、啓蒙主義の時代の知識人たち(ことにフランス人)は、真空における引力などという神秘的な世界観を嫌った。それは合理的ではないと考えた。彼らには、もっと「合理的」な説明方法があった。それはデカルトのエーテルである。世界そしてこの宇宙には、エーテルという質量のない物体が満ち満ちているのだという。だから、例えば月と地球はエーテルによってつながっている。イメージとしては、「豆餅」を連想するといい。豆餅においては、豆の一粒一部は、餅によってつながっている。豆と豆がぶつからないのは、餅が間にあるからである。同じように、月と地球の間にはエーテルがある。

これを前提に考えると、いろいろなことが説明できる。例えば、潮の満ち引きである。満潮とはなにかというと、それは月がぐーっとエーテルを押すのだという。月がエーテルを押すと、海面は押された分だけ上昇する。それが満潮なのだという。干潮とはその逆である。エーテルにかかる月の圧力が減るのである。そうすると、海面が下がる。それが干潮なのだという。要するに、風呂に入るとき、お湯がざーっと溢れるし、風呂からあがると、体の分だけ湯面が下がるようなものである。数学に弱い私などが当時それを聞けば、なるほどと思ったろう。また、例えば糸の先に重りをつけてクルクルまわし、その後、力を抜いてみるとどうなるだろう。回転の幅は次第に小さくなり、最後には静止するだろう。これなども、エーテル説によれば、重りはエーテルの抵抗で速度を次第に弱めていくからだと合理的に説明できる。

ニュートンにおいては、月は基本的に地球に落下していると考える。落下するが、月は自転によって生じる遠心力で地球から離れようとするのだという。物体が持つ引力と、自転によって生じる遠心力が常にバランスを保っているので月は落下せずに地球のまわりをまわっているのだという。また、糸と重りの例でいうなら、糸の先の重りのクルクル回る運動が静止していくのは、引力によって垂直方向の力が常に働き、水平方向の力が加えられない限り運動は静止せざるを得なくなると説明する。しかし、困ったことに、引力という概念そのものが、あまりに神秘的なのである。

デカルトは、その空前絶後の理性をもってエーテルの存在を前提に物体の運動を観察し解明していった。困ったことに次々解明できてしまった。しかし、重力加速度はそのままでは説明できなかった。高いところから落とした物体は、なぜ地表にぶつかる直前に一番速くなるのか?そこでたくさんの補助線と補正作業が必要となった。人類最高の知性の一人であるデカルトである。もちろん、なんとかしてしまった。私には理解できないが、とにかく地表直前の物体の速度、その速度が速い理由を説明した。しかし、ここで人々ははたと考えた。なぜ、こんなに複雑なんだろうと。ニュートンのいうように宇宙が真空で、引力が常に働き続けるなら、まったく問題ないのではないか。複雑な補助線や補正は必要ないのではないか。さらに、よくよく考えてみると、エーテルというのは、引力にくらべてそれほど「科学的」な概念なのだろうかと気づいた。オカルティックといえば、これの方がオカルティックなのではないのだろうか、と。

ヴォルテールは、『哲学書簡』において、ニュートンの宇宙観とデカルトの宇宙観とに対する人々の見解の変化をいつもの皮肉な調子で描いている。「いまや、誰もニュートン氏の真空をオカルト・ファカルティとは考えない」と。そして、もっとオカルティックなデカルトのエーテルの流動を人々が合理的と考えていた事実を描き、人類の進歩を論証する。

これは、いわゆるパラダイム(T・クーンの『科学革命の構造』)の問題でもあろう。例えば、かつては天動説が科学的だったのである。卒然と見る限り、あきらかに天体は地球の周りを回っている。しかも、われわれの足元は安定している。地表はたしかに平らなのである。それを、地球が回っているなどとは、聖書の教え云々以前にそもそも変な考え方であるように見えた。しかも、天体の運行の多くの事例は天動説でも説明できるのである。しかし、次第にどうしてもそのままでは説明できない事例が出てくる。すると、次々と補助線の数が多くなる。計算はどんどん複雑になる。その複雑さが頂点に達したとき、「地球が回っているなら、話は簡単なのだが・・・」と気づくのである。ガリレオ以前に、カトリックの枢機卿ニコラス・クザーヌスが、「仮に地球が回っているのだとしたら、こういう風に計算ができる」といって天体の運行を説明したことがあった。このときは、地動説が宗教裁判上の問題になることはなかった。ちなみに、後に地動説を唱えたガリレオが宗教裁判にかけられ、教会に従わざるを得ないところに追い詰められ、しかしながら「それでも地球は回っている」と言ったという話があるが、私は、そもそもガリレオが宗教裁判にかけられた原因は、カトリック教会の無明な横暴というよりも、ガリレオその人の人格にどうやら問題があったのではないかと思っている。

話をもどすが、デカルトの事例を見る限り、「理性」には理性特有の限界があるのだということが分かる。理性とは知識を用い論理を展開する力であり、パラダイムを超える力は無いのであろう。パラダイムを転換しうるのは悟性なのではないか。宗教は、悟性を中心にすえる存在であるがゆえに、「科学的ではない」と言われるが、そもそも科学自体がパラダイムに拘束された存在であり、時代性と権威性の担い手になりうるのである。その科学にそれまでの科学を拘束していたパラダイムの転換をもたらしたのが、ニュートンのような宗教的な悟性の人なのである。

ベンジャミン・フランクリンの風景(4・完)

2005-07-07 00:27:03 | Weblog
対英独立戦争とは、18世紀の文脈では、「社会契約」のやり直しを意味した。すなわち、イギリスへの「抵抗」であれば、イギリス人として戦えばよい。イギリス人が本来持っている自由をイギリス本国政府が侵害しているという主張ならば、それはあくまでもイギリス臣民としての異議申し立てである。しかし、独立となると話は違う。すなわち、イギリス政府は、本来「人間」がもっている「自然権」を侵害しているので、社会契約に基づく服従義務を解除し、新たに契約をしなおし、独自の政府を作るという論法になる。すなわち「革命」である。アメリカ独立が、アメリカ革命といわれる所以である。

革命の断行に腹を決めた大陸会議に参集したアメリカ諸邦の紳士たちは次々に手を打っていく。まず、対内的主権を確立するために、「連合規約」を制定し、主権をバラバラの諸邦から大陸会議に集中させる。そして、民兵中心に散発的な戦いをしていた混乱状態から自分たちを救うために、「大陸軍」という正規軍を創設し、総司令官にジョージ・ワシントンを任命した。しかしながらこのままでは、アメリカ独立抗争は、単なるイギリス連邦帝国内の「内乱」であることにかわりはない。そこで、大陸会議は他国の承認と同盟を得ることで、体外的主権を確立し、独立抗争を「内乱」から「国際戦争」に転換させることを狙った。狙いをつけたのはイギリスと慢性的に戦争をしていたフランスであり、この役割を帯びてフランスに乗り込んだのがフランクリンである。こうして、対内主権、戦時体制、対外主権の三つをそろえて、イギリスと戦う体制がようやく固まることになる。大陸会議の第一人者はアダムズであり、戦争の主役はワシントンであり、革命外交の担い手がフランクリンであった。

パリに乗り込んだフランクリン博士は、フランス人たちの自分への思い入れをはじめから計算にいれて存分に利用し、彼らの感情を完全にコントロールした。「新大陸の賢者」としてフランクリンは、フランスの貴族たちやフィロゾーフたちが涙を流さんばかりに喜びそうな政治思想を存分に語った。ヨーロッパ中の大学から与えられた名誉博士のオーラをしっかり身にまといながら、しかも、いかにも素朴な老人のように、しかしあくまで上品な物腰でサロンや宮廷に入り込みまんまと主役の座を占めた。さらに、その仕事の合間にはパリの美女たちを次々とものにしていった。フランスはこうしてフランクリンの軍門にくだり、1778年米仏同盟が成立し、対英宣戦布告を行う。

まさに大陸会議の狙い通りの展開であったが、この米仏同盟をやや不快げに眺めている人物が少なくとも二人いた。一人は、ジョン・アダムズである。アダムズは、そもそもアメリカの不幸は外国勢力からの影響をうけることであると考えていた。すなわち、彼の洞察では、現在たまたまイギリスと戦争をしているだけのことで、フランスという国のもたらす害悪はイギリスと同じか、それ以上にたちが悪いと思っていた。そしていま一人が、ジョージ・ワシントンである。ワシントンは、アメリカの勝利はいちにアメリカ諸邦の結束のみにかかっており、フランスの助力など不必要と考えていた。たしかに、進行中の戦争そのものは大苦戦などというものではない。連戦連敗である。しかし、ワシントンは大陸大で戦われるこの戦争は、最後にはイギリスの遠征軍を疲弊させるはずであると考えていた。だとするならば、ここでフランスなどにアメリカ大陸への介入の機会を与えれば、後々の禍根を残すと考えていた。イギリス正規軍の脅威に激しい不安を抱えていた大陸会議の紳士たちは、フランスとの同盟成立に狂喜し、フランス軍のカナダへの駐屯を認めるようワシントンに打診したが、ワシントンはこれを即座に拒否し、冷静になるように文民たちをうながした。

これは後の話になるが、独立達成後政権についたワシントンは、英仏戦争においてフランスが同盟義務にもとづきアメリカに参戦を求めた際にこれを拒否し中立を宣言し、反対にジェイ条約によってイギリスとの関係安定を行い、第二代大統領になったアダムズは、フランスとの同盟を解消した。ワシントン政権の駐仏公使のモンローは第五代大統領としてモンロー・ドクトリンを宣言したが、このモンロー・ドクトリンを執筆したのが、アダムズ政権下で米仏同盟解消の任務にあたっていたジョン・クインジー・アダムズ、すなわちアダムズの長男である。ここにアメリカ単独主義外交の起源がある。

要するに、フランクリンの路線をワシントンとアダムズが独立後ひっくり返したのである。ここにも、革命第一世代の間のさらなる世代間の違いがあった。すなわち、フランクリンは、ヨーロッパ式の外交スタイル、バランス・オブ・パワーの外交スタイルを熟知していた世代であるのに対して、アダムズは知識の上では知ってはいても、肉体感覚として完全にアメリカ人であった。

フランクリンといえば、The Americaとされているが、実は、アメリカ独立革命期の文脈では、アメリカにおける最後のヨーロッパ人だったのである。そして、独立達成後のアメリカを担ったのは、まさに最初のアメリカ人たちであった。

ベンジャミン・フランクリンの風景(3)

2005-07-03 21:11:40 | Weblog
最終的にフランクリンは、北米植民地の独立への決意を固める。彼は、アダムズ、ジェファソンらとともに独立宣言の起草委員となり、ジェファソンの「独立宣言」の草稿の添削者のひとりとなった。ジェファソンの独立宣言の草稿は、名文ではあったがかなり長く、彼の異常な教養と複雑な思考回路がそのまま叩き込まれていた。これにアダムズやフランクリンが容赦なく筆を入れた。ザクザクと削られ、言い回しを修正される様子を見ていたジェファソンはさぞ辛かったろうが、最終的な出来栄えは、多くの添削後の文章がそうであるように、最初の草案より素晴らしかった。異常な教養人の原案をたたき台に、これまた異常な教養人たちが練り上げると、なるほど歴史的文書というものはできるものである。(この独立宣言の作成過程については、明石紀雄先生の『トマス・ジェファソンと「自由の帝国」の理念』のなかに詳細な研究がある。)

フランクリンが、最終的に独立への決意を固めた背景は、要するに「大西洋両岸の二つのイギリス人社会の政治的伝統はもう別のものになってしまっていた」ということに尽きるであろう。北米植民地というまったく新しい環境で160年の間、独自の政治生活をおくってきたのである。このことは、「代表なければ課税されず」という北米植民地側の有名な主張にたいするイギリス側の回答にしめされている。

フレンチ・アンド・インディアン戦争終結以降、「印紙税法」をはじめとしてイギリス本国は植民地統治の必要からさまざまな課税立法を可決してきた。それにたいして、北米植民地の人々は、「自分たちは、ウエストミンスターの庶民院に一人も代表者を送っていなければ、そもそも投票権もないのである。それゆえ、自分たちが代表されていない議会できまった課税立法は受け入れられない。それを押し付けることは専制であり、『イギリス人の自由』にたいする侵害である」と主張した。これが、「代表なければ課税されず」の中身である。教科書におけるアメリカ史の該当部分はこれで終わるが、実はこれにたいするイギリス側の回答がある。

イギリス側の回答者は、長年商務院の委員を務め当時庶民院議員であったソウム・ジェニンズと首相秘書官トマス・ウォタリーである。彼らが展開した議論は、「実質的代表(virtual representation)」の理論である。彼らによれば、英国国内においても、バーミンガムやマンチェスターは、ウエストミンスターに議員を送っていないが、これらは当然に英国議会の立法に服するという。なぜなら、英国議会というところは、イギリス全体の利益を検討する場なのであり、これらの都市の住民がイギリス人である以上、英国議会には「実質的に」代表されているのである、という論法である。彼らによれば、ウエストミンスターから300マイル離れた地域に妥当する論理が、3000マイルはなれた「イギリス人」になぜ妥当しないのかというのである。「お前たち植民者もイギリス人なのだろう?だったら、英国議会は当然お前たちをも実質的に代表している。そうじゃないとしたら、お前たちはイギリス人じゃないということになる。そもそも議会とは、各国の外交官たちが、利益を争う場ではなく、ネイション全体の利益を調整し増進するための場なのである。」という主張である。これは、少々分かりづらいかもしれないが、現代に置き換えるなら、国会議員の「国民代表」の論理である。日本の国会議員は、それぞれ自分の選挙区から選ばれる。しかしながら、いったん議員となった以上、日本国の代表として振舞うべきであるとされる。つまり、各地方選出ではあるが、同じ日本国である以上、その議員は日本国民の利益を体現しているとされるし、体現できるとみなされる。選挙区が小さいのは、候補者の人格を有権者が判定しやすいための便宜であり、日本国民がみな平等であるならば、選挙区が日本のどこにあろうが関係ないのである。議員の代表し得る範囲が日本の領域なのである。同様に、イギリス帝国のどこかから選出された議員は、イギリス帝国全体を代表し得るのであり、北米植民地の人々がイギリス人ならば、当然、英国議会の立法には従うべきであり、それこそがイギリス人の義務であるというのである。

田舎者の植民地人たちの理屈を本国の秀才たちが完封した。こういわれて北米植民地人はたじろいだ。たじろいだが、納得できないのである。理屈で言い負かされながら、それが納得につながらないということは、その理屈が現実や実感を反映していないということである。「イギリス本国の議会は、本当に我々を代表しているのだろうか?我々の利益をイギリス本国は代表し得るのだろうか?」という疑問が鬱々と北米植民地人の心に鬱積していく。3000マイルの海は、両者を別の国民にしてしまっているのではないのか。もっといえば、そもそも北米植民地が独自に構成する植民地議会においては、イギリス側が主張する300マイルの違いは、代表者なくしては代表されてこなかった。北米植民地における代表観念は、実は「直接代表(actual representation)」である。いわば、「地域代表」であり、議会に送り込まれる代表者は、地域の「訓令(Instruction)」に基づいて行動する。これは、現代のアメリカ下院議員は、そうなのである。彼らは連邦議会の議員であるが、選挙区の利益を連邦において代弁する人々なのである。(アメリカにおける直接代表の伝統については、阿部斉先生の『民主主義と公共の概念―アメリカ民主主義の史的展開』(勁草書房、1966年)に詳しい)

この時、「騙されるな!」と喝を入れたのがジョン・アダムズである。アダムズは、「実質的代表なんてものは、観念上の遊びであり、詐欺である」とバッサリと斬って捨てた。知的・文化的コンプレックスを持っていた北米植民地の人々は、これではっと目が覚めた。自分たちには自分たちの政治的伝統があって、それがイギリス本国と違うことが、自分たちの劣等性を意味するわけではないと考えたのである。アダムズのこのドメスティックな叫びにたいして、フランクリンは外交の現場で同じ事を実感せざるを得なかった。印紙税法以降、フランクリンは、なんどもイギリスに渡り、イギリスのエリートたちと交渉を重ねるたびに、彼我の政治的伝統が別のものになっていることを実感せざるを得なかった。まるで別の国のようなのである。一国の主権とは一国に一つである。しかしイギリス帝国には、英国議会と別の考え方をもつ植民地議会が存在する。「国家内国家」は、主権概念と両立できない。だとするなら、北米植民地は、本国にたいし対等ではなく、従属者となる。もし本国が植民地の利益を代表できないならば、植民地はどうなるのか?それに北米植民地のイギリス人は耐えられるのか?

ここにおいて、ドメスティックな愛国派と国際人フランクリンの結論が一致をみたのである。