研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

政教分離原則の歴史

2006-10-30 06:09:05 | Weblog
ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』第四篇第八章に“civil religion”というよく分からない概念が書かれている。長さにして2頁くらいで、本当に最後の最後に唐突に出てきて、それきりになっている。学部学生時代、ハンナ・アレントの文献を読むゼミに出席していた時、当時の政治思想史の教授がふっと、「あれ、よく分からないんだよね」と言っていた。なぜこの話が出てきたのかは、私はもう憶えていないが、たぶんギリシャの政治と宗教の問題をアレントが論じていた時に、教授が思い出したのだろう。

ニコロ・マキャベリは、領主としてのローマ教皇の存在がイタリアの統一を妨げていると考えていたのは有名なわけだが、彼の宗教としてのキリスト教に対する否定的な感情は、『ローマ史論』の中に出ていて、要するに「キリスト教は共同体への英雄的な献身を生み出さないが、異教(古典古代のギリシャ・ローマ)の宗教ではそれを讃える」ということであった。これはヨーロッパの思想家の中に流れていた共通の感慨で、彼らによれば、カトリックというのは、愛国心がないんだというのである。カトリックは、普遍的な存在で、その忠誠の対象は、ローマにあるのだと。だから、ジョン・ロックは、彼の考える国家共同体の構想の中に、カトリックは入れなかった。時は、中世キリスト教普遍世界から国民国家建設に向かう時代で、そういう彼らを悩ませたのがカトリックだった。ヨーロッパの思想家たちのこういう着想は、基本的にマキャベリの影響で、モンテスキューもルソーもマキャベリを熱心に読んでいて、ルソーの“civil religion”は、異教世界における宗教のあり方を理想としてといたものなんだろう。ギリシャ文献学を専門としていたニーチェの宗教観は、もっとダイレクトにキリスト教そのものを否定するが、もちろん宗教そのものを否定したわけではないのは、彼の『ツアラツストラかく語りき』という無茶苦茶な作品を我慢して読むとなんとなく分かる。ドイツの場合、政治的にはプロテスタントがこういうニーズを請け負っていて、ヒトラーとゲッペルスはカトリックを捨てた人たちだが、ナチスの党員にプロテスタントが多かったのは、知っている人は知っているだろう。ルターの反ユダヤ主義は有名だが、そもそも彼の現世に対する態度は、完全に官憲まかせでキリスト教は完全に心の問題だったのだから。

もちろん“civil religion”のニーチェ的解釈は例外なのであって、オーソドックスなのは、ロバート・ベラーの「アメリカにおける市民宗教」という論文に示される“civil religion”観であろう。と言っても、この論文も分かるような分からないような難しい論文で、この論文が発表されたのはちょうど米ソ冷戦の真っ最中だったこともあり、ずいぶん誤解された。誤解というのは、要するに「市民宗教」とはアメリカへの愛国心を養成する政治的宗教であるというもので、ベラーの言説の揺れをみるかぎり、彼も少しは誤解に乗っかった瞬間が無いわけではなさそうである。やはり話題になるのは嬉しいものだから。そこで、ベラーの同論文を少し精密に読んでみると、もちろん「市民宗教」とはそういう性格の概念ではないことが分かる。

どんなものかを簡単に述べると、「市民宗教」とは具体的・積極的宗教なのではなく、国民の宗教感情を、特定の宗派的主張を最小限に抑制しながら、政治的動員と安定に結びつける体系的方法論であるということである。つまり、アメリカ的な「政教分離」原則だと考えればすっきりするわけで、こうすれば合衆国大統領が就任式でバイブルに手を置いても問題はないわけである。ポイントは、心の中でジーザス・クライストへの誓いを抱いていてもかまわなくて、本人の信仰がキリスト教ならバイブルに手を置けばよろしいと。国民への献身を、自分の信じる神に誓えばよいと。ただし、公的な場で、「ジーザス・クライスト」の名を口にするのは、ルール違反だという点で、断じて政教分離なのである。だから、純粋に憲法学的にのみ考えれば、仏教徒が大統領に選出されれば、仏典に手を置いて、僧侶臨席のもとで、誓えばよいということになる。理論的にはそうなる。ただ、そういう日は来ないというだけのことである。

そういうわけで、「市民宗教」は当然国によって、雰囲気が違ってくる。ピューリタンが多数ならば、ピューリタン的な雰囲気になる。ただし、それだけである。ピューリタンの主張そのものだとそれは「市民宗教」ではなくて、「国教」になる。だからベラーは、『市民宗教と市民宗教でないもの』という著作の中で、中東のイスラム国家におけるイスラム教は市民宗教ではないと述べている。ちなみに彼は日本の政治における神道的な様式を、「市民宗教」にカウントしている。神社本庁によれば、神道というものには、そもそも経典宗教におけるような「教義」が無くて、基本的には儀式の体系が神道なのだという。言われてみれば確かにその通りであろう。神道の修行方法などよく分からない。

ただし、こうした「市民宗教」というとらえ方自体が、すでに現実をとらえていないという主張が最近のアメリカで少しずつなされてきている。つまりこの枠組みは、アメリカの宗教と政治のあり方に、無理やりヨーロッパの政教分離の原則を当てはめて説明したもので、最初から無理があったのではないかというのである。そこで新たに提案されつつあるのが、「脱世俗化(desecularization)」理論である。この論者によれば、そもそもヨーロッパの世俗化が異常で例外的だというのである。もっと世界を見て欲しいと。世界は宗教がまず中心で、それを権威として政治が正統化されているではないかと。教会と政治を徹底して分離しているのは、世界でもヨーロッパと共産主義国だけで、後者を「宗教」の一形態だとすると、そもそも“the separation of church and state”などは、地域的にも人口的にもごくごく小さいヨーロッパだけの特殊な文化なのだというわけである。これまた言われてみればその通りである。彼らによれば、「世俗化」というのは、歴史の中の一つの現象にすぎないのだという。それで、今アメリカで起こっているのは「脱世俗化」なのだというわけである。

では、過去に実際にあった「公定宗教」・「国教」が、それに属さない人々を政治的に抑圧してきた歴史の教訓はどう活かされるのだろうか、たとえそれがヨーロッパというローカルな世界での特殊な文化だとしても、それが人類の目指すべき方向であるのに変わりはないのではないかという主張は当然なされるだろう。それに対する回答が非常に面白い。曰く「デモクラシー」だと。過去の公定宗教による弾圧にしろ、現在のイスラム諸国における状況にしろ、要するにデモクラシーが欠けていた、あるいは欠けているのが問題の根本なのだという。こうして、「脱世俗化社会における信教の自由」という命題の回答がデモクラシーとして登場するわけだが、なんだかデモクラシーが万能薬化しているのが気になる。

そういうわけで、最近は、自分の専門の傍らでこういう関係の文献を集めて研究を始めている次第である。

デモクラシーを愛す

2006-10-29 04:32:05 | Weblog
アレクシス・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の最初の巻は、1835年にフランスで出版された。同書は、その年のうちにヘンリー・リーヴ(Henry Reeve)が英訳したので、すぐに英仏の読書会の話題をさらうことになったが、それが当のアメリカ合衆国に流通したのは、ずいぶんあとのことになった。理由は、当時の米仏関係が極めて険悪であったことに加えて、同書に示される主張が、ホイッグ(イギリスのそれではなく、フェデラリストの系統を引く保守勢力。ここにも保守とリベラルの大西洋両岸の違いが見られる)の社会観・歴史観が強いということで時のジャクソニアンたちが反感をもったためであると言われている。ちなみに、同書の最初のアメリカ版は、リーヴの英訳を無断でコピーしたもので、どうやらトクヴィルは終生アメリカからは印税をまったく受けられなかったようである。

彼の『デモクラシー』の中で、アメリカ人たちが特に反発を覚えたのは、「多数者の専制」と「デモクラシーは高度な芸術を生み出せない」という二つのテーゼであろう。前者については、ジェイムズ・マディソンが悪魔のような筆遣いでその匡正策を『ザ・フェデラリスト』の中で論じていて、トクヴィルもそれを読み、大いに興味をそそられていた箇所だが、ジャクソニアンたちには、何か言いがかりのようにしか感じられなかったようである。後者についてはいうもさらなりであろう。

結論から言えばトクヴィルの言ったとおりなわけだが、アメリカ人が凄かったのは、それに対して、「反知性主義」で居直ったところである。この言葉は、リチャード・ホーフスタッターの『アメリカにおける反知性主義の伝統』という著作で有名になった分析概念だが、ここで注意しなければならないのは、「反知性」とは、「バカ」という意味ではないことである。ここでいう「知性」とは、「ヨーロッパ人のような考え方」という意味である。だから、「反知性主義」とは、「ヨーロッパ人のようには考えない」という決意である。ここまでいうと、「古いヨーロッパ」というブッシュ政権の言葉が、単純に笑えない迫力ある内容をもっていることが分かるだろう。

「知性」がなぜ「ヨーロッパ人のような考え方」ととらえられたのか。これを明らかにするには、アメリカ建国の歴史を正確に追わなければならないが、さしあたり、歴史と伝統に関するヨーロッパ人のとらえ方と、そこにおける自己の位置づけをイメージするしかない。結局、「インテレクチュアルズ」というのが、アメリカ社会の中で、「よそ者」と感じられるのも、こういうことが理由なわけで、アイヴィーリーガーというのは、どこの国の連中か分からない不愉快な人々なわけである。調子に乗って、乱暴な類比をするなら、本居宣長の「漢心(からごころ)」を弄するのが知識人で、しかしながら、そういう考え方を排するのが「大和心(やまとごころ)」という「反知性主義」みたいな感じであろうか。ただ、それでもアメリカに決定的にかけているのがやはり「歴史」なわけである。

ボストン美術館にある、アメリカン・アートのコーナーで私は笑いをかみ殺すのに苦労した。確かにあれは小学生の工作のレベルである。カンバスに何かプラスチックの破片がたくさん貼り付けてあるのだが、糊が乾いていくつかがはがれ落ちているのもある。その横で厳しい顔で立っている黒人のガードマンみたいな男に、「いいのか?」と問うと、彼は慌ててその断片を拾い上げ大事そうにポケットにしまった。私は急に自分はひどく品のないことをしたと思った。気づかないフリをしてやるのが「知性」だったのだ。

チェスタトンは、『正統とは何か』の中で、「それは少年の頃に見あげた大木の大きさ」であると表現した。私ごときの文章でその言葉の意味を説明するのは不可能である。ただ、大木の下に立って、その神秘的な大きさを感じていただくしかない。彼はそれを、「正統という名のロマンス」と呼んだ。エドマンド・バークは、『崇高と美に関する我々の思惟の起源についての哲学的探究』の中で、「崇高とは、美の堆積した伝統から醸成される圧倒的な支配力」であるという趣旨のことを述べ、また彼は『フランス革命の省察』の中で、マリー・アントワネットの輝きをこうした文化的観点から表現している。

しかしである。
実は私は、こういう崇高と美を破壊する権利は、常に民衆に留保されるべきであると考えている。考えても見て欲しい。崇高と美にまつわるものが、どれだけそれに預かり損ねた者たちに不愉快な思いをさせてきたかを。私は、困ったことに個人的資質としてはトーリーである。一方、子供のころから漁師のこ汚い友達と遊びぬいてきたが、はっきりとああいう連中にはどうしようもないのが多いと断言できる。しかし、私は彼らと同じ一票しかもたない事実をとても愛している。それゆえ、個人的には恵まれて育っているくせに、政治的見解がリベラルな人間が大嫌いである。そういうわけで、私は実はデモクラシー万歳の人間である。なぜなら、デモクラシー下では、リベラルな見解は、絶対に支配的にはならないからである。そして、歴史を検討するかぎり、隠微なアリストクラシーよりもポピュリズムが特に悪かったという証拠はどこにもない。穏健な私は、それゆえデモクラシーこそが理想的な体制だと確信しているのである。例え、デモクラシーの帰結があからさまなアリストクラシーを生み出したとしても、隠微で非公式なアリストクラシーよりは、何百倍もマシである。公式的なアリストクラシーならば、いつでも転覆できるからである。

ラディカル・モメント

2006-10-28 03:03:09 | Weblog
第二代大統領を引退したジョン・アダムズと、第三代大統領を引退したトマス・ジェファソンは、後世から「アメリカン・ダイアローグ」と呼ばれることになる書簡のやり取りを行っている。手紙の文章というのは、外国人にとっては論文よりもはるかに読みづらく、気楽には取り掛かれない。毎日カードに置き換えながら、一つ一つ仕上げていくという作業を続けることになる。そうしないと、いざ論文を書こうというときに使用できないからである。「あれ?これって二人は、どういう見解だったっけ?」と大抵は真夜中に気になり始め、文献から探そうとするが、分厚い書簡集からはなかなか関係箇所が見当たらず、斜め読みしようにも、ほとんど眠っていない頭では、雑で省略の多い英文は容易に頭に入ってこない。そういうわけで、原典に当たらなくてすむようなシステムを作っておかなければならなくなる。

そういうことに倦んでくると、久しぶりに原典を無作為に読んでみる。「やっぱり建国史は面白いなあ」と思う瞬間で、確かに私が専門とする分野は、一般にイメージされる「リサーチ」とは少し違うのかもしれない。音楽を聴く習慣をまったく持たない私は、「合衆国建国の父たち」の言葉を繰り返し「堪能」するのを趣味としている。彼らの言葉の面白さは、膨大な読書を背景に根元から物事を考え、それを簡潔に一行で述べるところで、だからこっちの学力が上がると、同じ文章でもより多くの回答を示してくるのである。例えば、『ザ・フェデラリスト』など、学部学生が読んでも、「政治学」として非常に面白いが、例えば10年くらい修行してから読むと、けっこうニヤリとする箇所が多かったりする。「マディソンって、ずるいな・・・」とかが分かるようになる。私は自分の論文で、「『ザ・フェデラリスト』は、各州の憲法案批准会議を通過させるために書いた政治的な書物だから、憲法解釈や政治史理解に使用するには危険なことが多い。立法者の意志を知りたければ、ジョン・アダムズの1780年のマサチューセッツ憲法案を精読すべきだ」と書いた。1797年の連邦憲法制定会議は、このマサチューセッツの1780年憲法案をたたき台にして議論がなされたのだから。

このマサチューセッツ憲法案は、マサチューセッツ西部でダニエル・シェイズなる人物が農民反乱を起こしたのをロンドンで耳にしたアダムズが、大慌てで帰国して作成したものである。こうした経緯と、その後の彼の『ダヴィラ論』を読むかぎり、アダムズにとって「憲法」とは秩序維持のためのものだったことが分かる。こうした憲法観は当時のフランスの、「理想を盛り込む」憲法観と対立するのだが、本当の憲法学的伝統からみるならば、どちらもおかしくて、本当は憲法とは、「国民の権利の保全を求めるために国民から政府に渡すもの」なのである。つまり、「権利の章典」なわけである。だから内容は必然的に「国王は課税を行う際には、~~をしてはいけない」という文体になる。

ところが、国王を追い出してしまった革命アメリカの場合、この専制者がいない。そこでアメリカの立法者たちが作った憲法は「列挙条項」形式となった。「政府は、○○をできる」という文体で、逆に言えば「ここで『できる』と書いていないものは、できないということである」というのがマディソンの主張で、これが共和派の厳格解釈の起源となった。ところが、同じ立法者にして『ザ・フェデラリスト』の執筆者の一人であるアレクザンダー・ハミルトンは、「法文上『できる』と書いていないことが、必要にして適切な措置までを『できない』ということを意味しているのではない」と主張し、連邦政府による財政案を次々に提出していった。この柔軟解釈派が、まもなく政党としての「フェデラリスツ(ハミルトン派)」を名乗るようになる。

こうなるだろうことを予測したジェファソンは、連邦憲法案を受け入れる条件として「権利章典(Bills of Rights)」をつけることを主張した。今の「修正条項」の1条~10条がそれである。ちなみにこの「修正条項」が後に、実質上の憲法改正の装置となった。憲法本文に時代に適合しない部分が見つかれば、「修正条項」として次々に付け足していく。18世紀に作られた合衆国憲法の本文がいまだに改変されていない理由はここにある。本文に手を入れるというプレッシャーの大きい仕事がなされてこなかったので、合衆国憲法ははからずも世界最古の成文憲法となったわけである。

連邦憲法に権利章典を付与するというジェファソンの主張は、ハミルトンには、連邦憲法に対する単純な誤解があるか、あるいは不勉強のように思われた。「列挙条項に記していないことは、すべて国民の自由なんですよ。権利章典なんか必要ないでしょう」というが、ジェファソンが「駄目だ」と言えば、ヴァージニアは動かない。それでマディソンが奔走して、当時はごくごく政治的手段(ジェファソンを納得させるための)として付与された。まもなく、ハミルトンと衝突したマディソンは、ようやくジェファソンがこだわった理由を理解したのだろう。彼は権利章典と厳格解釈派の牙城として活躍する。

こうした時代のことを晩年の二人は、振り返りながら、書簡の中で自分の解釈を説明しあう。「私たちは、互いを説明する前に、死ぬべきではないでしょう」(ジェファソン)という方針の下に。そのやり取りの過程で、独立から憲法制定までに頻発したアメリカ西部の民衆反乱の思い出が出た。アダムズが危惧したのはデモクラシーの暴走で、その根拠を古典古代のギリシャからいくつもの事例を掘り起こし、フランス革命まで話を進める相変わらずの凄まじい教養を披露する。それに対してジェファソンは、次のように回答する。

暴風雨というものが自然を健全に保つのに必要であるのと同様に、時々起こる民衆の暴動は、政府機能の健全さを保つのに必要なものだと私は思います。暴動によって、政府はそれまで放置してきた問題の所在を認識し、よりよい政治制度をつくることができるのです。

これがトマス・ジェファソンの偉大さなんだと思う。ある一定層が「耐え難い」と強く感じるならば、それは確かに統治に何か欠陥があるのである。しかし、平穏な雰囲気での改革は、人類の歴史を見るかぎりできたためしはない。民衆暴動こそが、統治者に改革を迫るものであり、それはジョン・ロックの「アピール・トゥ・ヘヴン」という概念によって正当化されている。「天に訴える」権利は、民衆に留保されていなければならない。それゆえ民衆暴動は、デモクラシーの欠点ではなく、デモクラシーに付随する国民の権利であり、デモクラシーを良しとする以上、統治者はそれを鎮圧するとしても、その主張には配慮しなければならない。もし配慮ができないならば、「革命」しかないのである。

私は、時として日本人のガヴァナビリティの高さに暗澹とすることがある。「増税とは悪しき制度の延命策である」という言葉を聞いたことがあるが誰の言葉だったか。例えば、医療を維持するために増税を受け入れることは、本当の愛国者のすることだろうか。あるいは、年金行政を破綻させないために、国民年金を払い続けることは、愛国者のあるべき姿だろうか。国民は法令を遵守しすぎて、政府を堕落させているのではないか。「まず義務を果たした上で、モンクは言うべし」などという正論が、一度でも改革に結びついたことがあるだろうか。過去の市民革命はすべてルールを放棄することから始まった。無駄を廃した上で、なおかつ高質な医療を実現するためには、ここはあえて支払わないべきなのではないか。国民が、ちゃんと払い続けているせいで、政府が緊張感をもって仕事をできなくなっているのではないか。まずは、干上がらせてみることから始めるべきである。そこまで追い詰めて、初めて改革がスタートするのであり、実は「国民が痛みをともなう改革」というのは、政府の言葉としては完全に語義矛盾なのである。痛みとは、ただ政府のみが受けるべきものである。国民が受ける痛みとは、暴動に際して官憲に捕縛されるさいに殴られるということ以外にはないのである。

こんど、NHKは受信料の未払い者に漠然と「払ってください」と呼びかけるのを改め、特定個人を選び、裁判所を通して個別的に攻撃を仕掛けてくる戦略をとる方針であることが分かった。孤立化させ各個撃破である。当局に中国古典に精通した人材がいるのだろうか。しかし、私はこういうときこそ集団的抵抗と暴動が必要だと思っている。先に出したシェイズの反乱の首謀者であるダニエル・シェイズは、その後どうなったか。彼は逮捕されいったんは死刑判決をうけたものの、翌年釈放された。大集団が行う暴力行為は犯罪ではなく、政治的主張である。シェイズの釈放は端的にそれを示している。

ある研究会にて

2006-10-24 18:18:19 | Weblog
最近、東京から私の住んでいる某地方都市(もう読者諸賢には全部ばれとるんだろうけど)に、今は名誉教授になっておられる政治思想史の有名な先生がいらした。「トクヴィルとキリスト教思想」をテーマに研究会やるんだけど、来ない?と、以前その先生のお弟子さんだった若い先生からお誘いを受けて、「いきますいきます」と大喜びで聴きにいった。場所は、私の勤務している大学の近くにあるカトリック系の女子大学の小さな研究会室で、ごじんまりとしたとても充実した研究会だった。私はその先生の著作や翻訳はすべて熱狂的に読んでいてずっと尊敬していたが、地方在住者なのでお顔をちゃんと見たことがなかった。「実物」にご挨拶すると、優しくて気さくな方で、非常に感激してしまった。

私の専門は、広くアメリカ政治史・アメリカ政治思想史ということで非常勤をしたり、ポスト探しをしたりしているわけだが、もっとも狭い専門分野は、アメリカ建国史なので、トクヴィルは大好物なのである。その大学には、神父さんや中世哲学を専門としている先生方がたくさんいらして、アメリカン・スタディーズの世界では「絶滅危惧種」と言われている私だが、この時は、「最近のことを研究している」という実に気分のよい立場だった。

私は、ただこの高名な先生と話したい一心で、ニュー・イングランドのピューリタン神学者たちのテキストが実はスコラ哲学、トマス・アクィナスだった不思議な事情を話して、「奴隷意志」を教義とするカルヴァンが実は意識的に排除され、「自由意志」を主張する不思議なピューリタン(コトン・マザー)の風土だったなどのアメリカ史専門者としての情報を、トクヴィルとカトリシズムについての議論を準備するために提供した。ちなみに、トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の中で、アメリカのエリート階級はいずれ無神論的になり、逆に民衆の心を支配するのは、カトリックとなるだろうと予言していた。東部民主党支持のエリートたちはそんな感じだし、またアメリカ社会において階級が大きく分化するのに呼応するように単独宗派としてはカトリックがアメリカの最大宗派となったことを考えると、トクヴィルの予測は、実際になかなか惜しいところまで当たっているのである。『大衆の反逆』(オルテガ)と『エリートの反逆』(ラッシュ)も、彼が予測した通りだった。

ただ、先生はそういうふうに宗派の違いを教義で厳密に分けて宗教と政治の問題を議論するのは、労力のわりに無駄な場合が多いという考えだった。カトリックにしろプロテスタントにしろ、そこに属する「キリスト教徒」は様々な個人なわけで、アメリカのピューリタンの特殊さも、要するに個人個人の考えが多様であったに過ぎないことを考えれば、カトリシズムとトクヴィルで議論するよりも、「キリスト教思想家としてのトクヴィル」に焦点を合わせたほうがよいと主張されていた。これは、実は意外なことに斬新である。というのは、プロテスタント思想家の思想史というのはいくらでも書かれているが、カトリックの思想史は本当に少ないのである。これはなんとなくわかると思う。だから、「カトリックの家庭環境で育ったトクヴィル」に注目しすぎるよりも、キリスト教思想家という広いくくりにした方が、素直に彼のキリスト教思想と、宗教を通したアメリカ理解を解明できるのである。実際、トクヴィルはアメリカのプロテスタント教会を少ししか訪れていないが、そこに深い意図があったわけでもなかったし、厳密な神学を検討してもいない。

そんなこんなで研究会が終わり、懇親会という飲み会の席に移った。
もちろん(笑)東大法学部を卒業されているその先生だが、何かの拍子に丸山真男氏の思い出を語った。「いつのころからか、丸山先生とは思想史の話はまったくしなくなった」とか。強固な持論があるタイプの人で、いくら批判しても強硬な反論をして絶対に聞き入れなかったが、ただ自分自身の研究は、黙って変化させていたと言っていた。多くの人がそうであろうが、私は丸山氏の研究には関心がない。もちろん全部読んでいるが、それは仕事だからである。

その先生はヴァイオリンを弾かれる。指を怪我したので、学者になったとかおっしゃっていた。ガリ勉して地方大学に入って、田舎では「勉強の神」と漁師のセガレどもに恐れられた私とは、根本的にクラスが違うらしい。先生は、「丸山先生の家でも、ヘタなヴァイオリンを弾きましたよ」とおっしゃったので、私は「丸山先生は、どんな曲がお好きだったのですか?」と聴くと、「ワーグナーですね」と応えてくださった。私は、急に可笑しくなり、「ああ、ヒトラーと同じですね」と(私のクラシック音楽の知識はその程度である)言って笑うと、となりで焼酎の梅割りを飲んでいた神父さんが大笑いしていた。先生は、まったく無表情に(東大法学部出身者の共通点なのだが、「下らない」と思った瞬間に表情を消す。これを我々地方出身者は、「本郷の黙る力」と呼んでいる)こんな話をしてくださった。

「丸山先生はね、音楽を完全に言葉で理解する人なんですよ。音を一つ一つ言葉に置き換えて、批評しながら聴くわけです。だから、演奏者の技術とかは、まったく気にならなかったと思います。名門楽団の演奏も、素人の趣味の演奏も、関心の対象にはならなかったんでしょうね。批評家としては、やはり超一流でした」

面白いなあと思いながら私はビールを飲んでいた。
そうだ、せっかくだから先生に論文の抜刷をお渡ししなきゃと考えていた。