研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

アメリカン・スフィンクス

2005-12-29 00:55:00 | Weblog
トマス・ジェファソンという怪物を理解することは基本的に不可能である。彼には「無神論者」という疑惑が当時からあったが、私は彼は無神論者ではなかったと考えている。彼は神は存在すると考えていただろう。ひょっとしたら、その正体をすでにつかんでいたのかもしれない。

アダムズとジェファソンは、1800年の大統領選挙で対決した後、12年間絶交状態だった。ペンシルヴァニアの建国の父ベンジャミン・ラッシュは、「アメリカ革命の南北の柱」であるこの二人が絶縁状態にあることを非常に残念に考え、ちょっと異様な情熱で両者への説得を続けた。その結果、まずはアダムズが、「年をとると、暇をもてあましますが、私の政治思想や歴史論を対等に論じられるのは、この大陸ではモンティチェロ(ジェファソンの邸宅のある場所)の賢者しかいないようなのですよ」という手紙を送った。ジェファソンからは、「まったく同感です」という返信が来て、二人の友情は復活した。以後、両者の書簡のやり取りは、1826年7月4日に両者が死ぬまで続く。劇的なのは、アダムズとジェファソンは、独立記念日にともに死んでいるのである。アダムズの最後の言葉は、「ジェファソンはまだ生きているかな」であった。ジェファソンは、この言葉の3時間前に死んでいた。

アダムズの問いかけに対するジェファソンの回答がなんとも私は恐ろしいのである。例えば、アダムズのナチュラル・アリストクラシー論に対するジェファソンの回答。

「私は、あなたのおっしゃるように、自然的貴族が我々の社会に存在することに同意します。・・・しかし、自然の貴族とは、道徳的な貴族政(moral aristocracy)を意味するのです。・・・つまり、・・・貴族には「自然的貴族」と「作為的な貴族(artificial aristocracy)」とが存在し、後者を否定して前者を選ぶのが、アメリカ革命なのであると私は考えているのです。・・・・もっとも、・・・・ヨーロッパと関係の深い、マサチューセッツやコネティカットでは、伝統的な家族が影響力をもち、政治的官職を相続しているかもしれませんが、ここヴァージニアではそのような慣習は存在しないのです」

奴隷主がぬけぬけと言ったものである。しかし、ジェファソンはこれが歴史上の公式見解になることを理解していた。アダムズは、奴隷云々については何も言わず、ただ「あなたの区別は本質的なものとは言えないのです。自然か、作為かは、貴族の存在が現実にもつ社会的影響力の重要さにとっては、重要ではないのです」というものであった。正しいのはアダムズだが、その正しさには「政治的意味がない」ということを理解していたのはジェファソンである。この違いはフランス革命についてのやり取りで劇的に現れる。ジェファソンは次のように言う。

「・・・フランス革命について、・・・私は誤った見解をもっていたことを認めざるを得ません。・・・あなたは何度も忠告してくださっていました。・・・・私を筆頭に、私に親しみを持つ人々が、あなたの政権を追い詰めてしまったことを・・・・遺憾に思います」

これは重要な証言である。フランス革命を共和制の精神から支持すべしというジェファソニアンの主張が政治的にはアダムズに貴族主義者というレッテルを貼り、それによってアダムズは敗れたのだから。これを受けてアダムズは次のように回顧する。

「パリのホテルで、ラファイエットがあなたと私、そしてジョン・クインジー・アダムズに一晩中熱弁を振るったことがありましたね。・・・実のところ、私は彼が統治や歴史についてあまりに無知であることに驚いていたのです。ちょうどそれより4年前にパリで会った、テュルゴーやコンドルセやフランクリンのように。こうした彼らの乱暴なイデオロギーに接して私が最初に考えたのは、アリストクラシーについて何かを書こうということでした。・・・しかし、フランスが議会を開こうというときに、私はテュルゴーの「一つの中心に政府を、一つの中心に国民を」というアタナシウス信条のような奇妙な矛盾した一文がまさに実行に移されようとしているのを目撃しました。・・・・こうしてアメリカへの共感が、フランスを燃え上がらせていることを理解したとき、私はすべての誤りを洗い流すことを決意したのです。そのとき私は、この仕事は人生最大の賞賛を得るものになると思っていました。しかし、いくらか誉められましたが、私が思ったほど大きな反響ではなかったのです。実のところ、私の『アメリカ諸邦憲法擁護論』も『ダヴィラ論』も酷い不人気でした。・・・あなたの民主政原理への一貫した擁護そしてフランス革命への変わらぬ好意的な意見が、あなたの強固な人気の基礎になっているのです」

アダムズは、フランス人がアメリカ革命を誤って理解し、熱に浮かされて妙なことをしようとしていると考えた。それで、『アメリカ諸邦憲法擁護論』と『ダヴィラ論』を執筆し、フランス人に政治学と歴史を教えてやろうとしたのである。しかし、これがまったく不評な上に、アダムズには貴族主義者というレッテルがついた。一方、フランス革命という民衆暴動を支持したジェファソンの方が、何故か政治的成功を収めてしまったことを面白おかしく回顧している。これに対する、ジェファソンの回答が面白い。

「考える自由と言論の自由が許される政府のもとでは、人々は政党に分かれることになります。・・・・人民の力と貴族の権力のどちらが支配するべきなのかという問題は、古代ギリシャの諸国家やローマ帝国においても古今を通じて対立する問題で、・・・・国民の性格を分裂させてきたのです。・・・・この国の歴史に照らして、あなたと私がはじめて互いを知った時を省みても、大陸会議で激しく争った深い党派的対立とその激論は忘れられません。そのとき、あなたと私は同じ見解をもっており、・・・・独立反対派と戦いました。独立反対派はイギリス国王を重視し、私たちはわが国民の権利を重視しました。わが現政府が諸邦連合から合衆国へと脱皮の過程にあったとき、フェデラリスツとアンティ・フェデラリスツとの分裂、抗争はどれだけ激しかったか!そのときもまた、あなたと私は同じ一つの立場をとっていました。・・・しかし、憲法が実施されるやいなや分裂がまたしても現れました。われわれは、二政党に分立し、それぞれ異なる方向に政府を動かそうとしました。一つは、政府の一番民主的な部門を強化しようと望み、他方は、恒久的な諸機関を強化し、その永続化をはかろうとしました。この点で、あなたと私とがはじめて袂を分かちました」

真実がどうであろうと、歴史はこういう風に書かれますよと言っている。これを書いているときのジェファソンの顔が私はなんとなく想像できるのである。おそらく、ニコリともしていなかっただろうし、なんの昂ぶりもなかっただろう。アダムズにしてみれば、ジェファソンの分類自体がおかしいのである。それは、「イデオロギー」であって、歴史の真実ではない。しかし、政治とは歴史学ではない。「こういう物語で、私は勝つことになるのです」とジェファソンは言うのである。

こう書くと、まるでジェファソンが歴史を使った詐欺師のようになるが、私はそういうことではないのだと思う。11の言語で聖書を読み、ラテン語の神学書を読破し、異教の神話を異教の言葉で読んでいた彼は、神と歴史と民衆の度しがたい性質を理解していたのだろう。それを前提に、幸福な国に導こうと思ったのだと私は考える。私がジェファソンを怪物であると考えるのは、上の言葉をジェファソン自身が真実ではないと理解していながら、何故か不誠実ではないということである。彼は誠実に嘘を言い、民衆に何の感情も持たずに民衆の幸福を追求した。こういう化け物はなかなか理解するのが難しい。『青年ルター』を書いたエリクソンが、ジェファソンを分析した『歴史のなかのアイデンティティ』という本を書いているが、どうもルター級の怪物のようである。

パラノイド・スタイル

2005-12-28 23:35:15 | Weblog
そういえば、アン・コールターの『リベラルたちの背信』って、結局どう処理されたんだろう。基本的には、無視だったような。大学では彼女の名前はとんと聞くことはなかった。私も口にしなかった。何か、自己利益に反しそうだったから。

その代わり、勉強会を開いてホーフスタッターのThe Paranoid Style in American Politics.を黙々と読んだ。コールター・スタイルへの反論は、すでにこの本の中に全部書いてあった。日本のリベラルのインテリたちも、無視なんていけずなことをせずに、ホーフスタッターを読めばよかったのに。マッカーシイズムへの批判の最高峰なんだから、そのまま引用すればコールター程度なら簡単に片付けられたのに。多くのことは、すでに過去に決着がついていた。

ただ、ホーフスタッターの『パラノイド・スタイル』を読んでいて、どうしても気になる箇所があって、そこが今でも決着がつかないでいる。それは、赤狩りの時代の「保守」論客たちの特徴を彼は「学者的」と表現し、その「細部へのこだわり」と「膨大な証拠の数々」を出すのが彼らの特徴であると書いてあった。これなどは、コールターの『リベラルたちの背信』がある種の典型だろう。要は、「マッカーシーの告発は実は正しかった」ということを冷戦後出てきた「資料」をもとに次々と「論証」していく。この時代に土地勘の少ない私は、「へー」っと思った。「実際にスパイだったんなら、糾弾されても仕方ないな」と(笑)。ところが、基本的に赤狩りの時代の当時も、告発者たちはずいぶん丹念な「証拠」を用意して告発していたわけである。コールターによって、特別に新しい何かが出たわけではない。こうした告発者たちの詳細な「事実」に基づく糾弾に対して、ホーフスタッターは、「一つ一つは『事実』であっても、それが本質なのではない」と言うのである。問題なのは、マッカーシイズムのもつあの抑圧なのであって、実際にアルジャー・ヒスがスパイだったのかどうかが問題なのではないと。細かな「証拠」を膨大に用意することによって、本質を自分たちの都合のよいように構成しているのだと。右翼の告発者たちの告発が、「事実」であったとしても、問題はそんなところにはないのだと。

こういう処理の仕方は正しいのだろうか。
何か、「居直り」に見えるんだが。

ずっと気になっていたのだが、今日本屋で高橋源一郎と斉藤美奈子の対談を立ち読みしていたら、彼らが同じことを言っていた。題材は南京大虐殺。「彼ら(「小林よしのり」などの人々)って、細部に妙にこだわるよね」と。「いったい、いつ何人殺したの?」「そんなことが可能なの?」と「(笑)」という記号とともに『彼ら』の言動を再現してみせ、斉藤は「じゃあ、3千人なら虐殺じゃないのか」と言い、「細部にこだわることで本質を見落としている」と主張していた。話はこうして従軍慰安婦などに展開する。吉本隆明の「だいたいでいいじゃないか」を自嘲気味に持ち出し、重要な本質は、右翼に都合の良い「証拠」にもかかわらず変わらないのだという。

ちなみに、この問題が「数の問題では」なくなったのは1990年代からである。それ以前は、まさに「数」の多さがこれを問題化していた。「数」の大小ってそんなに小さな問題だろうか。ヘーゲルは、「量の違いはある一定以上を超えると、それは質の違いなのである」と、『法哲学』の中で書いてあったが。まあそれはいい。こんな問題にかかわりたくないからこれで止める。

問題にしたいのは、ホーフスタッターの『パラノイド・スタイル』である。とにかく一読をお勧めする。まるで最近の時事問題を論じているような瑞々しさである。ただ、二つのことが、どうしても引っかかって仕方ないのである。一つは上に述べた。「重要なのは細かな事実ではない。本質だ!」という処理の仕方。もう一つは、「パラノイド」という言葉である。要は、アメリカ政治社会に時々起こるマッカーシイズム的なるものを「病理」として理解しているのだが、彼はこれを「必ずしも、アメリカのみに起こる問題ではない。どこの国にもあり得る。ただ、私はアメリカ史の専門家なのでアメリカについて論じるのである」とする。どんなものかといえば、リベラルな人たちが感じる「何とも言えない不愉快な社会の雰囲気」一般をさすものだと理解すればよい。言いたいことは、非常によく分かる。よく分かる上で言うのだが、「パラノイド」などという言葉遣いで、右翼的なものを侮蔑しているうちは、絶対に右翼的なものには勝てない。歴史家として断言するが、同じようなことは何度でも起こるだろう。

ここまで書いてきて気づいたことがある。私は「博士号」まで持っていながら、インテリがとことん嫌いらしい。

ヘンリー・アダムズの挫折(4・完)

2005-12-26 01:50:37 | Weblog
建国の父たちが慎重に先送りにしてきた州と連邦との間の緊張関係は、結局南北戦争という形で露見することになったわけだが、この問題にある種の解決をもたらしたのは、必ずしも北軍の勝利ではない。それは、「金ピカ時代」のアメリカにおけるなし崩し的な「状況」であった。

科学技術が飛躍的に発展し、産業が興隆し、都市には低賃金の移民労働者が流れ込み、本格的な資本主義が勃興した。鉄道は諸州を横切り、アメリカ大陸は猛烈な勢いで一つの市場になっていった。要するに、政治的努力やコンセンサスの形成に先んじて、市場がなし崩し的にアメリカを一つの経済圏にしていった。これを「市場革命」と言っても良いし言わなくても良い。要するに、この時期のアメリカの諸問題は、行政・法律における後進性と経済的現実のギャップによって生じていた。州政府が依然として強力な独立性を維持する建国以来の分権的政治観念が大陸大の現実に対応できないでいたのである。鉄道問題、移民の増大、都市問題、強力なビッグビジネスの存在に、建国以来の政治哲学が対応できなくなっていた。

この時期、アメリカを握っていた概念は「ビジネス」である。それに対して、建国以来の「自然的貴族」たちは疎外されていた。この時期にアメリカで流行っていたものとして、イギリスでは二流以下の思想家であったハーバート・スペンサーの「社会進化論」であり、その下地になっていたのは反知性主義である。強大なエネルギーの集中と拡散。これをどのように制御するかが疎外されたインテリたちの課題となる。そして、その時彼らがすがりついたのは、社会進化論同様のある種の「(擬似)科学」だった。この盲目的なエネルギーの濁流をなんとか科学的に制御できないかというのが彼らの一縷の望みだったのである。

ヘンリー・アダムズは、ハーヴァード卒業後ドイツ、フランス、イタリアに留学する。そこで彼は何を学んだかというと、「科学的歴史の方法」であり、ランケやコントに影響を受ける。後世の我々には、いろいろ突っ込みどころもあろうが、彼は真剣に歴史の科学に取り組んでいた。自然科学のごとき「法則」を歴史に発見しようとしていた。歴史が科学ではありえないと可愛げもなく開き直るのは我々の時代の特権(悲劇?)であり、19世紀までの人々にとっては、政治学においても歴史学においても「科学」というのが最後のよりどころであった。熱力学の第二法則が歴史研究の役に立ちそうに思えた。

「歴史を書く」。これは、弟のブルックス・アダムズが兄(ヘンリー)に提案していた「アダムズ家の最後の使命」であった。弟のブルックスは、自らを「消え行くアメリカの名門」と定義し、それゆえ文明の衰亡史を書くのが自分たちの仕事なのではないかと兄に伝えた。事実、彼は文明批評家になった。しかしヘンリーは気乗りしなかった。というのは、アダムズ家には初代ジョン以来のある価値観があった。それは、若き日のジョン・アダムズの日記に出てくる「才能のヒエラルヒー」である。最下層にあるのは、「職工の才能」。それより高いのは「偉大な詩人の才能」。それより高いのは「科学的才能」。それより高いのは「道徳的才能」。もっとも高いのは「政治家としての才能」である。こういう序列がアダムズ家にはあった。たしかにジョン・アダムズは、歴史を書き、さらにはジャーナリスティックな活動も行ったが、それらはみな立法者としての自分をつくるための作業であった。つまり、専門的な文筆家や学者というのは、「アダムズ」には遺憾な状態なのである。しかし、二人の兄の政治活動はまったく上手くいかない。上手くいかない理由を探求するためにますます歴史にのめり込むうちに彼は心ならずもハーヴァード大学の中世史講座の教授になる。中世史・・・。同時代への熱烈な関心と中世史研究が、実は内在的につながっているというのは私には非常によく分かるのだが、多くの人々にはおかしいのだろう。私は、現代アメリカを解明するのに役立つと思って建国史を研究しているのに、「アクチュアリティがない」とか言われるので、このへんの気持ちは非常によく分かる(笑)。

ハーヴァード大でのヘンリーは、アメリカで初めてゼミという形式を始める。ドイツ仕込みである。ここで彼は、旺盛なジャーナリスト活動と『合衆国史』の執筆に取り組み始める。歴史研究とジャーナリズムは、一人の人間の能力として本当は矛盾していないことはヘンリーの作品を読めば明らかである。前者は、社会の仕組みを分析・暴露・批判するもので、主観的には初代ジョンの『教会法と封建法について』(ジョン・アダムズ30歳のときの作品。これで彼はデビューする)に連なるものだが、これはむしろ後のマックレーキングの元祖とされる。実に明快・痛烈な名文である。後者は、「科学的歴史叙述」によるアメリカ史の法則の解明を試みたものである。どちらも後世から名著とされているが、主観的には挫折感のみが残ったようである。ジャーナリズムでは結局何も変わらなかった。『合衆国史』は九巻に渡る大著だが、記述できたのはジェファソン政権とマディソン政権までである。ここで挫折した。もう書けなかった。包括的なアメリカ史を科学的に書くことなど実は不可能であることを我々は知っている。だからこれは彼の無能ではない。彼の失敗によって発見されたのである。

とうとう彼は、ハーヴァード大学教授という「不名誉な」職を辞して、ワシントンに赴く。しかしまるで相手にされない。「政治など先生のような方が、なさる仕事ではありません」という対応を受ける。都市の政治ボスには「アダムズ」など魅力のないブランドである。政治家は木偶人形で十分なのだから。名望家支配の時代はとっくの昔に終わっていた。正直、我々から見れば喜劇である。しかし、彼の使命感からみれば深刻な悲劇だった。

「私の人生は失敗だった」。これがヘンリーの晩年の総括である。「ハーヴァード大学教授止まりのつまらない人生」、「不適合な人間」というのがヘンリーの自己認識であった。客観的には彼は同時代において文筆の成功者であった。しかし、彼の挫折感は深かった。文筆での成功など、「自然的貴族」の使命ではなかったのである。しかし、彼は時代に適合できなかった。

さて、彼は本当に間抜けなお坊ちゃんだったのだろうか。あるいは、初代ジョン以来の「アダムズ」、すなわちジョン・アダムズ同様、アメリカに不適合な人間だったのだろうか。必ずしも、そうとばかりは言えないことは、まもなく明らかになる。それは彼の死後、ウオルター・リップマンの“Drift and Mastery”(「漂流と制御」)そして『世論』に明らかである。リップマンを読んでから、ジャーナリスト・ヘンリーの作品を読めば、すべてはそこに語られている。リップマンに盗作疑惑をかけたくなるだろう。ヘンリーの問題関心が、遅ればせながら20世紀になり受容されたのである。そして政治の世界においては、セオドア・ローズベルトの登場である。名門の子弟で、ハーヴァード出身の彼が政治の世界に進路を定めることが、当時どれほど奇異であったかは、今日からは分かりにくいかもしれない。彼の時代において、初めて「全国的な問題」に対応する可能性が政治に開け、州と連邦との間隙に存在していた政治ボスが力を失っていくのである。革新主義の時代である。革新主義とはあまりに多様な運動の総体であるが、政治に関する限りその理想はあくまで建国の時代であったと主張できる。ただ、それを実現する手段が連邦政府だったというのが圧倒的な新しさであり、発見であった。革新主義の時代が理念的にはアメリカ史を救ったというのはこのためである。

古典的言語で将来を理解するために、同時代において敗北し、後世からは「不適合者」としていつまでも歴史に残るという意味では、確かに彼も「アダムズ」であった。政治的に成功した経験がないということを除けば、初代ジョンに資質が良く似ていると私は思う。ただ、初代ジョンは、若き日には酒場を訪れて顔を売り、貧乏人の弁護を引き受けては自分をアピールしたという時期があったことを、ヘンリーは忘れていたのではないか。こればかりは、育ちの違いでどうしようもなかったのだろう。

ヘンリー・アダムズの挫折(3)

2005-12-20 21:32:04 | Weblog
ヘンリー・アダムズは、『ヘンリー・アダムズの教育』という自伝を残している。その中で彼は自らを「彼」という三人称で表現し、その心の動き、アメリカ社会での自分と自分の家族たちの振舞いを描写している。こうすることで、彼は自分自身を客観視するとともに、こういう突き放した目線をもつことでアメリカ史における「アダムズ」を表現しようとした。しかし、この自伝にはそれ以上にこの時代のアメリカ社会における知識人たちの精神史が記されている。いつか訳してみたいものだ。売れないだろうけど。

ここで、ごくごく簡単にアメリカ政治史を振り返ってみる。政党としてのフェデラリスツは1812年戦争(対英戦争。別名「マディソン氏の戦争」)を期に解体し、第6代大統領ジョン・Q・アダムズ政権終了まではリパブリカンズ一党体制となる。これが「好感情の時代」であるが、もちろん好感情なわけもなく、 セクション間の利益の分裂の高まりとともにつかの間の均衡は崩れパブリカンズは割れる。J・Q・アダムズ派はナショナル・リパブリカンズに、アンドリュー・ジャクソン派は民主党になる。ナショナル・リパブリカンズは、もちろん旧フェデラリスツの系統にある人々で、彼らはまもなくホィッグと名乗る。ホイッグからは、W・H・ハリソン(第9代)、J・タイラー(第10代・副大統領より昇格)、Z・テイラー(第12代)、M・フィルモア(第13代・副大統領より昇格)が大統領になっている。ただし、民主党に基盤を置く南部が強固な一体性を保っていたのに対して、北部の諸党派は分裂していた。そこで、ホィッグ、自由土地党、Abolitionists(奴隷制即時廃止論者)、民主党の反奴隷制派等々が大同団結して共和党が結成される。非常に雑多な大同団結であるが、とにかくこうして今日の「共和党」・「民主党」が出来上がった。

ヘンリーら兄弟は、州議事堂のそばにあるビーコン・ヒルで育った。そこは、建国以来の名家の人々が住む地域で、そこに住む人々は、「バラモン」と呼ばれていた。当然、グラマー・スクールで学び、ハーバードを卒業している。ヘンリーは幼いころ、父のチャールズに連れられてホワイトハウスを訪れている。そこにいたのは、第12代大統領Z・テイラーであった。『ヘンリー・アダムズの教育』によれば、「彼は、大統領に対してなんの畏怖も感じなかった」とある。つまり目の前にいる人物は、アメリカの12番目の大統領だが、大統領の6分の1はアダムズ家から出ているのである。しかもそのうちの一人は「建国者」である。ヘンリーは、漠然と自分もいずれこの家(ホワイトハウス)に住むことになるのだと考えていた。そういう教育を毎日受けているのだから。アダムズ家で働いていたアイルランド出身の庭師でさえ、「坊ちゃまも、大旦那様のように大統領におなりになるのですね」と宝石をみるように眺めていた。ヘンリーに鬱屈はなかった。ジョン・アダムズ、ジョン・Q・アダムズのように勉強した。それはどこまでも孤独で厳しい生活ではあったが、身に圧し掛かる責任感に彼はよく耐え続けた。

アダムズ家はもちろん共和党に属することになり、大統領リンカーンの駐英大使としてチャールズ・フランシス・アダムズが任命される。彼の仕事は、内戦(南北戦争)に英国およびヨーロッパ諸国が介入するのを阻止することである。もちろん、南部連合からも大使が派遣されており、彼らは逆にイギリスに参戦を求めている。チャールズの仕事は我々が考えるよりはるかに難しかった。まず南部は綿花の供給基地である。イギリスの紡績業は南部からの綿花の輸入で成り立っている。それゆえ、南部はイギリスの紡績工場で働く労働者たちの雇用も支えていた。また北部は工業地帯であったが、それ自体がイギリスの工業製品に高関税をかけている根本原因であって、内戦の結果北部が破れることは、イギリスの製造業にとっても悪い話ではないのである。

じゃあイギリスは文句なく南部支持かというと、話はそう単純ではない。ネックは「奴隷制」である。19世紀も後半にさしかかり、奴隷制はいかにもまずかった。イギリス国内にも反奴隷制を主張する団体はたくさんあり、当のイギリスの大衆も奴隷制を擁する南部に荷担するのを嫌がる空気があった。ところが、ここにもリンカーン政権の難しい立場があった。北部が奴隷制即時廃止主義なら外からは分かりやすい。「人間の自由を求める勢力」VS「奴隷主の勢力」なら簡単である。しかし、リンカーンはなかなか「奴隷制廃止」を口にしないのである。彼はいつまで待っても「ユニオンの維持」しか言わない。これが非常に外国には分かりづらかった。「ユニオン」・・・。これは外国人には分からない、アメリカの責任ある政治家にとって最大の問題であった。

アダムズ家は、初代ジョン以来の奴隷制反対論である。ただし、即時廃止論ではない。即時廃止論が単純に無知による主張であることがよく分かっていた。考えてみて欲しい。これは生存形態の問題であり、それゆえ文化の問題であり、さらにはアメリカの経済構造の問題であった。ここをラディカルに解決しようとすると、待っているのは、内戦どころか「宗教戦争」である。間違いなくそれは南部文化の全面否定なのだから、南部がどれほど傷つくか、その傷がアメリカ全体をどれほど長く苦しめつづけるか。それゆえ、初代ジョン以来、奴隷制反対をまったく隠さず、なおかつこの問題へのラディカルな解決は行わず、漸次自然消滅の方向にもっていくというのが彼らのスタンスで、リンカーンもこのラインに立っていた。そして「ユニオンの維持」こそが最小限の傷で奴隷制を消し込んでいく可能性の基礎であった。しかし、これが外国には分かりづらい。「北部も基本的には黒人奴隷を容認しているのではないか?」ということになるわけで、こうなると北部へのシンパシーはなんとも弱くなるのである。

駐英大使チャールズがロンドンを中心にこうした問題に対処している最中、ヘンリーの二人の兄、J・Q・アダムズ二世とチャールズ二世は南北戦争に従軍している。特にチャールズ二世は、黒人部隊の指揮官として准将にまで昇格している。武勲が認められ司令部付を命じられたが、黒人部隊から離れるのを嫌がりこれを断っているあたりは美談であろうか。こうして家族ぐるみで取り組んだ南北戦争が終結したときアダムズ兄弟は、まったく新しいアメリカに出会うことになる。南部再建から金ピカ時代のアメリカである。まずは、二人の兄の南北戦争後を見てみよう。

長男のJ・Q・アダムズ二世は、資本家「泥棒貴族」と結んだ共和党の独裁による政治腐敗と共和党急進派の南部制裁に強い危機感を感じ、あえて民主党に転じた。フェデラリスツ→ホイッグ→共和党というアダムズ家の基盤を捨てて、民主党員として政治生活を始める。その政治生活は濁流を手の平で押しとどめようとするようなものであった。成果はどうかといえば、アダムズ直系では珍しく『アメリカ人名事典』に載らなかったといえば分かるだろう。ただし、本人はそれほど不幸感は持っていなかったようである。アダムズ家では珍しく、書物を一切書かなかった彼の心の底は分からないが、晩年はアダムズ家の基盤であるクインジーの人々からは尊敬され、これまたアダムズ家では珍しく非常に親しまれた。当時深刻な赤字財政を続けていたクインジーの町政を引き受け8年でこれを片付けたりしている。また効率的な行政を行い税金を1%にまで下げて感謝されたりしている。党によって利益を得なかったこと、主義を最後まで変えなかった結果クインジーで朽ち果てたことに深く満足し、62歳で死んだ。

次男のチャールズ二世が南北戦争から最も強い印象を受けたのは鉄道だった。北軍が勝利できた要因は、鉄道に代表される「何か」であると感じた。と同時に、こと鉄道に関するかぎり、それが完全に私企業間の自由競争にさらされた場合、それが民衆を支配する巨大な権力になり得ることを見抜き、連邦の公共サービスとしての鉄道網の形成と鉄道規制の必要を感じた。南北戦争後の歴史は描きようによっては鉄道建設の歴史とも言えるわけだが、チャールズ二世は戦後、鉄道委員として鉄道規制のモデルを作った。また兄と同様にクインジーのタウン・ミーティングの議長を務めた。ただし、兄と異なり非常にとっつきにくい気難しい人物だったらしく親しまれはしなかった。また地方史家としてはその筋では有名であり、彼の『マサチューセッツ史における三つのエピソード』は地方史の最高傑作というのがアメリカ史学会では通説である。

ヘンリーの二人の兄に対する評価は、「彼らは、どういう偶然だろうか、アダムズ家では珍しく善き市民であった」というものである。ヘンリーによれば、彼らにもアダムズ家の教育の傷跡は濃厚に残っていたのだが、幸運な偶然が重なり、穏健な人生を送れたというのである。二人の兄の心の底は分からない。不偏不党と優秀な頭脳は確かに「アダムズ」であるが、確実に彼らが通用しない時代になりつつあった。それは何だろうか。ここで我々は、第四世代最高の逸材ヘンリーを検討しなければならないことになる。

ヘンリー・アダムズの挫折(2)

2005-12-19 02:04:05 | Weblog
娑婆での生活が異常な忙しさだったために、ずいぶん間が空いてしまったが、普通に続行したい。

アダムズの自然貴族論についてstandpoint1989さんがコメントしてくれているが、この人はなんとも恐ろしい。イギリスの人材教育のシステムがアダムズ家のありように派生していて、これがアダムズ家の精神的変調につながっていたというのは、私が丹念に暖めてきたアイディアだったのだが、この人はなんでそんなことが分かったのだろう。もうつけくわえることがない(笑)。ただ、これから述べようとするのは、こうした「ナチュラル・アリストクラシー」という普遍的問題よりもう一段下の、アメリカ的事情における挫折の物語である。


チャールズ・フランシス・アダムズには、四人の息子がいた。長男はジョン・クインジー・アダムズ二世、次男はチャールズ・フランシス・アダムズ二世、三男がヘンリー・アダムズ、四男がブルックス・アダムズである。この四人を、ジョン・アダムズから数えてアダムズ家第四世代という(全員ハーヴァード大をとりあえず卒業している)。この四人は、まぎれもなく「アダムズ」であった。それゆえ、ジョン・アダムズがジェファソニアン・デモクラシーに敗北し、ジョン・Q・アダムズがジャクソアン・デモクラシーに敗北したのと同様に、彼らはアメリカ史に敗北することになる。

アメリカ史における「アダムズ」とは何か?それは自然貴族たる特権的な立場を公的義務と同一のものとして受け止める存在である。アメリカの運命を己の運命と同一視する存在である。しかしこれが、公式的には貴族制度の存在していない社会では、まったく「政治的」に無能な振舞いにつながることになるのである。初代ジョンがそうだった。第二代ジョン・クインジーもそうだった。そして第三代チャールズもあるいはそういう役割を担っていた。これはいずれ触れる必要があるだろう。実はチャールズは、南北戦争をリンカーン政権の駐英大使としてイギリスで戦っていた。このときのチャールズの功績は、アダムズ・コンサーヴァティヴを考える上でどうしても検討しなければならない。ちなみに、ヘンリー・アダムズは父親の私設秘書としてイギリスにいる。この辺の動向は、あまりに重要なので稿を改めざるを得ない。

アダムズ家の人々を見るかぎり、本質的に陰気な人々ではないように私には見える。特にジョン・Q・アダムズなどは人間の傑作であろう。なのにこの一族には精神的に平衡を欠いている人々が多い。ヘンリー・アダムズの観察によれば、アダムズ家でとにかくもっともマトモであったのは、父のチャールズがはじめてであったと言っている。前回のエントリーでも述べたとおり、チャールズの兄二人はアルコール中毒を経て死んでいる。ジョン・Q・アダムズの妻は、アダムズ家に嫁いでから精神病になった。ヘンリー・アダムズの妻は自殺している。これが従兄弟・親戚に広げると、実に死屍累々なのである。とにかく、一人のジョン・クインジーを作るために無数の悲劇があった。それゆえ、アダムズ家が第三世代にチャールズ・フランシス・アダムズという、政治家としては成功しなかったが、とにかく精神的に安定した人物を輩出したことは幸運だった。このチャールズの下に生まれた第四世代は天寿をまっとうできたのだから。

アダムズ家第四世代が相対した時代とは、南北戦争後の再建期~Gilded Age(金ピカ時代)である。アメリカ史にはいろいろな分け方があるが、例えばその一つとして次のようなものがある。
① 黄金時代:アメリカ革命、合衆国建国の時代
② 好感情時代:1812年戦争後フェデラリストが消滅しリパブリカンズ一党体制時代(ジョン・Q・アダムズとジャクソンの対決で終焉)
③ 白銀時代:南北戦争前夜、ダニエル・ウエブスター、ヘンリー・クレイ、ジョン・カルフーン等の論客による議会政治華やかな時代
④ 金ピカ時代:南部再建後のビッグビジネス興隆期、マシーン・ポリティックスの時代
⑤ 革新主義時代:セオドア・ローズベルトがトラスト規制に乗り出す時代。いろいろありすぎて書ききれない面白すぎる時代

黄金→白銀→金ピカという分類からわかるように、この分類は基本的にアメリカ史は悪くなっているという認識である。それゆえ、⑤の「革新主義時代」がアメリカ史を救済する役割を担う。この辺りを研究する人たちはアメリカ史家の中でも特に優秀な人が多い。アダムズ家第四世代が生きたのは、その手前の④の時代である。

金ピカ時代とは、さまざまな規制が出来る前の資本主義が勃興した時代で、この時代は共和党が都市資本家の御用政党に成り下がっていた時代である。政治腐敗が凄かった。また、都市政治屋の時代でもあった。「ボス=マシーン・システム」。都市の政治ボスが、港に到着する移民や都市の貧困者たちに生活の便宜を与える代わりに票を買い取り、商売としての政治が形成されていた。こういう時代だから、政治の世界に優秀な人材は近づかない。政治の世界に入るというのは、上流のインテリには恥ずかしく感じられる時代であった。だから我々は、リンカーン以後のジョンソン(17代)、グラント(18代)までは知っていても、第19代、第20代、第21代の大統領はぱっと出てこないのではないだろうか?ようやくアメリカ史に詳しい人々の中に、第22代大統領のクリーヴランドが出てくるだろうか。多くの人々は、第26代のセオドア・ローズベルトまでは空白なんじゃないだろうか。その理由は、この時代において政治家というのは優秀な若者の野心の対象ではなかった時代だからである。優秀な若者は経済の世界に進路を見出していた。その一方、建国以来の名門の自然貴族たちはどうしていたのか?彼等は、完全に疎外されていた。アメリカ史における主導権を完全に失っていたのである。

こうしたアメリカ史の段階をアダムズ家の第四世代は生きることになった。そしてこの不適合性こそ、逆説的にアメリカ史のある側面を照らし出すのである。