研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

スカリア判事の反対意見

2007-08-03 21:00:52 | Weblog
内輪の勉強会で、『歴史のなかの政教分離―英米におけるその起源と展開―』という本を読んでいたら、その中で成蹊大学の安部圭介先生が「ロック対デイヴィ判決」を紹介されていた。それは政教分離・信教の自由・連邦制を憲法学から検討した論文の中の一部分なので、詳しくは各人が読まれたいが、それとは別に妙に印象的だった箇所があったのでメモしておきたい。それによれば、ワシントン州では1999年、学業に秀でているが経済的に恵まれない高校生の大学進学を支援するために、Promise Scholarship Programという奨学金プログラムを創設した。アメリカの良質の大学には私立大学が多く学費が非常に高い。だから大学に進学できるかどうかは基本的に奨学金を獲得できるかどうかにかかっている。

件のPromise Scholarship Programの奨学金を得るには、成績要件、所得要件、出身校要件といろいろあるわけだが、その中の一つに「奨学金受給者は、神学の学位を取るための課程で学修をしてはならない」というのがあった。これは公金を宗教関係に使ってはいけないというワシントン州憲法の規定による。原告ジョシュア・デイヴィは、<牧師としてみことばを伝える生活を送るという少年時代からの夢を実現するべく、「牧会学(pastoral ministries)」と経営学の両方を専攻することにした>のだが、大学の担当者に神学を専攻する場合にはこの奨学金が支給されないことを知らされた。奨学金を受けたいのであれば神学の学位を志望しない旨の文書に署名することを求められ、これを拒否したために彼は奨学金を受給できなかった。

そこでデイヴィは、このような奨学金のあり方は、連邦憲法修正第1条の宗教活動の自由条項、国教禁止条項、表現の自由条項に反するほか、修正第14条の平等保護条項にも違反するとしてワシントン州知事らを相手に、奨学金支給拒否の差止めと損害賠償を求める訴訟を起こした。合衆国控訴裁は、Promise Scholarship Programを宗教活動の自由に反し違憲であるとしたため、敗れた被告側は合衆国最高裁に上告した。

連邦憲法修正第1条は以下。
<Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the Government for a redress of grievances.
連邦議会は、国教を定め、または自由な宗教活動を禁止する法律;言論または出版の自由を制限する法律;ならびに人民が平穏に集会をする権利、および苦痛の救済を求めて政府に請願をする権利を侵害する法律を、制定してはならない。>

ポイントは、「連邦議会は、国教を定め、または自由な宗教活動を禁止する法律を制定してはならない」という部分で、前半を「国教禁止条項」、後半を「宗教活動の自由条項」という。「信教の自由」を構成するこの二つの条項がorでつながっているのがミソで、どちらに比重をおくかは裁判官によって異なる。つまり揺れている。

上告を受けた合衆国最高裁の判断は「原判決棄却」、つまりデイヴィの敗訴となった。レーンクイスト首席裁判官の執筆による法廷意見によれば、「国教禁止条項」と「宗教活動の自由条項」の間には、「遊びの部分(room for play in the joints)」とも呼ぶべき一定の隙間が存在していて、本件はここに関わる事例であるという。それで、ここで問われているのは、神学を専攻する学生に奨学金を支給しないことが、連邦憲法の「信教の自由」を侵害することになるかどうかである。レーンクイストら多数の判事は、いろいろ検討した結果、ワシントン州のPromise Scholarship Programのあり方は「信教の自由」に反するとまでは言えないとした。

それに対して保守派判事として高名なスカリア裁判官が反対意見を書いている。彼の見解によれば、①聖職者を支援するための公金支出を禁止する州憲法の規定というのは、他の誰もが享受している便益を聖職者だけに与えないというものではない。本件の場合、自分の学問分野を専攻するという他の奨学生の誰もが享受する権利をデイヴィは奪われている。②神学を学び、自らの生涯を伝道にささげることを志すほどの深い信仰を持つ人々は、現代アメリカ社会においてはマイノリティであり、本件は「宗教的少数者に対する差別」の事例であることを見落としてはいけない。こんなことになれば、例えば聖職者に対してのみ医療費の補助を行わないようなことまで許されることになるだろう。

さすがスカリア判事は言うことが違う。「このご時勢に、神学を学び伝道に生涯をささげたいなどと言う感心な若者は、もはや少数者なんだから保護しなくてはいけない」という論法が実に渋い。

政教分離というのは、改めて言うが、separation of church and stateである。churchというのは、宗教というよりも「特定の宗教(派)」を意味するわけだが、churchとのかかわりはそれぞれの国の歴史によって違うので、これを歴史や比較で検討するのは、結論が出るかどうかは別にして有意義なのだろうなと思う。アメリカとヨーロッパとの違いを一つ言えば、歴史的に(特に市民革命において)、churchがcivilの敵対勢力ではなかったということはあるのだろう。アメリカにおける政教分離の歴史をみると、ヨーロッパとの違いと同時に、やはりアメリカもヨーロッパ文明の一つなのかなという、両方の感慨を持つ。人間の歴史を考えると、政教分離というのはそれ自体極端に西欧的な概念で、それをもとにするのも西欧思想の独善だったのかもしれない。