研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

共通教科書という思想

2005-08-17 04:33:04 | Weblog
戦後60年がたちまたぞろ「アジア共通教科書」をという議論が展開されている。もちろん、そんなものはできないわけだが、私などは、出来る出来ない以前にやめて欲しいという気分がある。

共通教科書にある政治性が嫌なのである。共通教科書をつくろうという試みは、非常に政治的なもので歴史の面白さなどにはまったく関心がないのである。共通教科書を考えるとき、まず浮かぶ事例は欧州の試みであろう。その成果としてフレデリック・ドリューシュが編集した『ヨーロッパの歴史―欧州共通教科書』がある。木村尚三郎先生らが翻訳している。私もアタマから読んでみた。読んだ感想を一言でいうと「ツマラナイ」である。なぜツマラナイかというと、おそらく偉大さがまるで描かれていないからである。それはそうで、「ヨーロッパ市民」を育成しようという教科書なのだから、そこにはナポレオンの偉大さも、クロムウェルの偉大さも、マリア・テレジアの偉大さも描きようがない。国家のために命をかけた人々など描きようもない。みんな誰かから見れば侵略者なんだから。ナショナルなものを否定し、普遍的な市民をつくろうというあざとさのためにひたすらシラケル眠たい記述が続く。

やはり偉大さというのは国史でしか描けないのだろう。フランス史だけを読めばそれはとてつもなく面白い。イギリス史だけを読めばやはり素晴らしく面白い。なのに共通史にしたとたん、無味乾燥な事実の羅列か、毒にも薬にもならない偽善的な「慎重な考察」とやらが延々と続く。こんなものを読まされたら、子供は絶対に歴史嫌いになるにきまっている。だって、面白くないんだから。それはそうである。歴史を伝える意図ではなく政治的な配慮が目的でかかれているのだから、歴史として面白いはずがないのである。共通教科書の目的はコンセンサスであり、歴史ではない。みんなに気を使うのに精力が消耗し、正直なところ歴史には関心なんか無いのだと思う。

私は、まずは自国の歴史を学んだ上で、フランス史、イギリス史、イタリア史、スペイン史、アメリカ史・・・・とバラバラに読めばいいんだと確信している。人間の頭は、それでちゃんとバランスの取れた複眼的思考をもてるようになるのである。一つの事例に対する解釈の多様性はそれで十分に学べる。それを共通の尺度を作って押し付けようとするから、あざとさが鼻につくのである。

目をアジアに転ずるとどうか。中国史の面白さといったらない。日本史の面白さといったらない。ところが、これを共通史にすればどうなるか。簡単に想像ができる。おそらく、こじつけのグローバル史観が展開される。例えばシャムにあった日本人村、例えば長崎にあった唐人屋敷、例えば倭寇、例えばスカスカの蝦夷地にたまに現れたロシア船、・・・・こういったものが記述の中心になる。アジアは古くから交流し通商し交じり合っていましたよと。そのうえで、「そもそもアジアとは何か」という結論などでるわけもない知的遊戯が延々と検討されるのであろう。冗談ではない。こんな小さい小さい事例が歴史の中心になるなんてものごとの軽重をまるでわきまえない話である。シャムの日本人村にいた日本人など、日本全体からみれば近似ゼロである。日本史の教科書で2~3行記述すれば十分である。そんなことよりも源頼朝とはいかなる存在かを検討したほうがよい。紫式部の源氏物語の方がはるかに重要である。倭寇なんぞたかが海賊である。

要するに、共通教科書をつくろうという試みがそもそも冷静ではないのである。冷静ではないから、コンセンサスのまえに歴史家の魂を売り払えるのである。