研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

Ownership Societyと脱世俗化するアメリカ(2・完)

2005-10-13 02:33:20 | Weblog
西洋政治思想史における「政教分離」とは、the separation of church and stateである。教会と国家の分離なわけである。具体的には、ある特定の公定宗教(establishment church)が、それに属していない人々を政治的・社会的に弾圧することを禁じるものである。裏を返せば、宗教弾圧の禁止なのであり、公定宗教の存在自体は、必ずしも即座に政教分離原則への違反にはならない。英国国教会があってもイギリスは政教分離の国なのである。だから、大統領が就任式で聖書に手を置いて、牧師の前で宣誓しても政教分離原則への違反にはならないのである。これが、アングロ・サクソン・スタイルである。これに対して、フランスの政教分離原則は、公式の場からの宗教の排除である。これは、フランスが公立学校でのイスラムの女児のスカーフの着用を禁止したことに端的に示されるだろう。つまり宗教排除は、アングロ・サクソンの政教分離原則ではない。そうではないのだが、フランス文化に親しんでいたトマス・ジェファソンは、他の建国の父たちと異なり、ここにこだわった。彼は、地元のヴァージニア憲法での政教分離の原則をフランス式にした。実は建国期においては、マサチューセッツ憲法など州憲法レベルではアメリカには普通に公定宗教が存在していたのであり、フランス式の政教分離を採用していたのは、ヴァージニアとロードアイランドとニューヨークくらいのはずである(あと一個あったかも・・・)。連邦憲法には、政教分離の規定そのものがない。ジェファソンの強い要請で、修正第1条で政教分離を定めたのである。

ただし、革命後のフランスのスタイルは、西洋世界の伝統では特殊であった。というのは、代表的政治理論家で、市民の要件に無神論者を加えることを許容したのは、ジャン・ボダンくらいではなかったか。ジョン・ロックに至っては、カトリック教徒も排除の対象とした(カトリック教徒は、国家に忠誠心をもたず、遠方のローマ教皇に忠誠心をもっているから)。つまり、「神」は大前提だったのである。この前提の下に、政教分離をするとき、宗教心はどのように担保されるのであろうか。その鍵が、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』の最後の最後(第8巻第4章)にぽろっと出てくる英文・仏文でわずか2~3ページの「市民宗教」という謎の一節である。

Civil Religion。変な言葉である。普通、CivilとReligionはくっつかない。大陸ヨーロッパにおいては、マキャヴェッリ以来教会と国家の関係が常に理論家を悩ませてきた。そこでルソーは、無神論を避けつつ教会の国家への侵害を排除するために、不思議な政治宗教を考案した。しかし、これはフランスではとうとう採用されなかった。フランスは政治領域における無神論を選んだからである。一方、このルソーの考案した不思議な政教分離の方法は、アメリカにおいて採用されていた。ただし、アメリカ人はほとんど無意識で実践していたのだが。アメリカ史を分析し、その存在を最初に発見したのは、ロバート・ベラー(Robert N. Bellah)である。『心の習慣』や『善い社会』の著者として日本では有名であろう。彼の論文"Civil Religion in America," Daedalus, 96, 1, Winter, pp. 1-21.が、初めてアメリカの無意識の政教分離の様式を学問的に明らかにしたのである。

ベラーは、ケネディの大統領就任演説が独立宣言の宗教的側面を強調していることに触れ、独立宣言が神について4回言及していることを指摘する。「独立宣言」余話(2)でいうと、「自然の神の法」「すべての人間は創造主によって、誰にも譲ることのできない一定の権利を与えられている」「我々の企図の公正なことを世界の至高の審判官に訴え」「我々は神の摂理の加護を信じ」の四箇所である。これらの宗教的概念と新たな国家の自己像との密接な関係は、初期の政府文書にしばしば示されているとして、ワシントンの第一次就任演説を例に挙げている。(オッカム訳)

大統領としての最初の仕事において、全世界を支配する全能者への心からの嘆願を省くのは、はなはだ不適切なことでしょう。彼は諸国の議会に君臨し、彼の恩寵はすべての欠陥を是正し、彼の祝福は自由と幸福という本質的目的のために合衆国人民自身によってつくられた政府を聖化し、合衆国人民の自由と幸福に捧げさせました。そして神の祝福によって、その政府に採用されているすべての道具が、その職務に割り当てられた機能を成功裡に遂行することを可能にしました。
いかなる国民も、合衆国の国民以上に人間事象を導く神の見えざる手を知ることも崇敬することもできないのです。私たちが独立した国民の特質に向かって進むためのすべての歩みは、何らかの神意の働きかけの印によって区別されてきたように思われます。

天上の幸いなる微笑みは、神の国が定めた秩序と正義の永遠の支配を重んじないような国民には決して期待できないのです。・・・自由の聖なる炎と政府の共和制モデルの運命を保持することは、おそらくは深く明瞭に、アメリカ国民の手に委ねられている実験にかかっているのです。


ベラーはこのように、建国の父たちはじめ幾人かの大統領の政治文書を検討し次のように指摘する。

① 多くの言葉はキリスト教から引き出されているが、明らかにそれ自体キリスト教ではない。
② ワシントン(初代)もアダムズ(第二代)もジェファソン(第三代)も、その就任演説で「キリスト」に言及していない。後の大統領たちも「神」に言及しなかった者はいないが、「キリスト」の名を口にしたものはいない。
③ 彼らが語る「神」は、型としては理神論的だが、決して単純な機械仕掛けの神ではない。その神は、アメリカに特別な関心をもっていて、歴史に関与し含みこまれる。

こうした特長を指摘した上で、ベラーは、アメリカの「市民宗教」とはどのような概念であるかを次のように指摘する。

① 信条や象徴、そして神聖な諸物や共同体の中で制度化されたものに対して敬意をもってなされる儀式の集合体である。
② キリスト教とは対立するものではないし、実際多くの点で共通してはいるが、宗派的なものではないし、なんらかの特別な意味においてもキリスト教ではない。
③ しかしながら、市民宗教はたんなる「一般的な宗教」ではない。それは、アメリカというトピックに関しては特別に十分な意義をもっている。まさにこの特殊性によって、空虚な形式主義を免れ、宗教的力をもってきた。
④ その一方で、市民宗教はキリスト教の代替物では断じてなかった。市民宗教とキリスト教との間には、暗黙裡にしかしまったく明確な機能の区別があった。教会は国家を支配しないし、国家の支配も受けない。
⑤ 国家の執政者は、彼個人の宗教的見解がなんであれ、その官職にある間は、市民宗教の規範に従って職務を遂行してきた。

つまり、プロテスタントが多い風土であるがゆえに、当然キリスト教的な雰囲気はもつものの、それ自体はキリスト教とは別のアメリカの風土に根ざした政治のやり方であるということである。例えば、個人的信条がバプティストのそれであったとしても、あくまで政治は政治の文脈でなされなければならず、特定の宗派的な信条が政策に押し付けられてはならないのである。これが、アメリカの政教分離のあり方なのである。そしてそれをベラーは、Civil Religionと呼んだ。繰り返すが、これは積極的な宗教ではない。アメリカ的政教分離のあり方なのである。アメリカにおける政治の存在の仕方なのである。

ブッシュ大統領が、歴代の他の大統領と異なるのは、公的な場で「イエス・キリスト」の名を口にすることである。さすがに公式文書ではその名は語らないが、その政策が基礎とするもの(ownership society)は、歴代のどの大統領よりも宗派的なのである。これは、市民宗教ではない。キリスト教である。

ただし、ブッシュが大統領として国民に選ばれたのは確かだということは押さえるべきで、それは世界史の動向からみたとき、彼のような存在がまったく想定外とは言えないのである。というのは、そもそもsecularization(世俗化)自体が、世界史の中でそれほど確実な流れとは言えないからである。あるアメリカのカトリック系神学者が、テレビでこう語っていたのをきいたことがある。

世界に目を向けてください。西ヨーロッパのあの世俗化は異様ですよ。現在も共産主義を奉じる中国を別とすれば、中東、東南アジア、ロシアおよび東欧、南北アメリカと、どれも宗教が大きな力を持っているのがわかります。アメリカが特殊なのではありません。西ヨーロッパが特殊なのです。

世界史を公平に眺めるとき、ブッシュという人物の出現は当然にあり得たのである。

1 コメント

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なるほど (junk)
2007-11-17 22:45:22
宗教分離をうたいながら、なぜアメリカでは大統領の宣誓式に聖書?と疑問に思い、「独立宣言 宗教分離 」で検索してこちらのサイトにたどり着きました。
トマス・ジェファソンがフランス文化に親しんでいたから、
アングロサクソンスタイル、というところにへ~、というおもいです。
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