研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

国民代表と地域代表

2005-09-12 02:04:07 | Weblog
国会議員の代表観については、大きく二つの考え方がある。一つは、「国民代表」であり、いまひとつは「地域代表」である。そして、この問題に関しては、実はいまだに結論は出ていない。

「国民代表」とは、国会議員は、各地域の選挙区から選ばれるが、いったん選ばれた以上は、国家全体の利益の観点から判断し、行動するべきである、という考え方である。一方、「地域代表」とは、国会議員とは、各地域から選ばれるのであり、各地域の利益を国会の場で代弁するべき存在であるという考え方である。

日垣隆氏はメールマガジンにおいて、国会議員とは地域の利害の代表者ではないと主張していたが、それは自明ではない。国会議員が地域代表ではないということは、まだどこの国においても確定してはいないのである。というのは、地域の代表であることが、国家の代表者であることと必ずしも矛盾しないからである。なぜなら、国家にはその支配領域というものがあり、一つの場で利益を主張しうる範囲が国境であるのだから、地域の主張を中央で行うということは、見方によっては、堂々たるジュリス・プルーデンスを維持する営みであるといえるからである。すなわち、沖縄選出の議員が、沖縄の利益を中央の国会で主張できるということは、沖縄が日本の領土であることの何よりの象徴的行為なのである。そういうわけで、国会議員であるからこそ、地域代表であるべきだという考え方もあり得るのである。

ちなみに、アメリカ合衆国連邦下院議員は、実は地域代表なのである。彼らは、その選出地から、訓令(instruction)を受けて、連邦議会に乗り込む。すなわち、アラスカ選出の議員はアラスカの代表であり、アラスカの利益が連邦議会で代表しうるがゆえに、アラスカは合衆国の一部なのであるという主張である。アラスカが、合衆国連邦議会において代表されうるがゆえに、アラスカの代表は、アメリカ合衆国の代表なのである。この「代表され得る」というのが、アメリカ史を考えるとき、致命的に重要である。

1765年、アメリカがいまだイギリス連邦帝国の植民地であったころ、イギリス本国議会が、印紙税法を可決した。このとき北米植民地の人々は、この印紙税法案の審議には自分たちが参加していないので、この課税法案は受け入れることができないと主張したのにたいして、イギリス本国政府が行った反論が、まさに国民代表の考え方だったのである。すなわち、イギリス議会は、イギリス全体の利益の代表機関なのであるから、イギリス議会で審議された法案は、北米植民地から代表者が出ているか否かにかかわらず、北米植民地をも代表しているのであると言ったのである。これにたいして、愕然としてしまったのが、アメリカ独立の歴史的契機となった。

ここから分かるように、国民代表という考え方は、地域代表という代表観にたいして、一見、高尚に見えるが、実は地域住民の権利を眉ひとつ動かさずに踏みにじりうる可能性を持っているのである。当時の北米植民地の人々が、懊悩のすえだした結論は、「北米植民地の利益は、どうやら、イギリスの中央政府では、『代表され得ない』」というものである。そうして独立した彼らだから、逆に、自分たちが独立国家となったとき、自分たちの新たな中央(ワシントンおよび、北東部)から見た、新たな辺境(西部)の主張にたいして、高踏的な国民代表を安易に主張できなかった。西部の土着的な主張は、かつて自分たちがイギリス本国にたいして行っていたものと同じだったからである。自分たちが、新たなイギリスになるわけにはいかなかった。自分たちが新たなイギリスになった瞬間に、西部の諸州は、合衆国の支配領域から離脱してしまうのである。

今日我々は、選挙のたびに候補者が、「地域、地域」というのに辟易とした顔をする。鈴木宗雄氏型の利益誘導に眉をひそめる。しかしながら、国家を維持するというのは、実は辺境の生活水準を、中央の水準にたもつための不断の努力の過程なのであるという事実もどこかにとどめておく必要がある。辺境に対する緊張感がないということは、実は国際社会の中では危険なことなのである。なるほど、都市の利益が田舎に流れるだろう。一票の格差は、不愉快であろう。しかしながら、日本国の領土を維持したいなら、受け入れるべきなのではないかという考え方もあり得るのである。確かに、この辺の緊張感を持たずとも、北海道が日本国を離脱し、ロシアになることは実際にはないだろう。しかし、ないという事実に甘えていてはいけないのではないか。国家を考える場合、極点までさかのぼって考える必要があるのである。そうでなければ、防衛のために命をかける意味が分からなくなる。

ここ最近、地方にたいする侮蔑的感情があまりにあからさまになっているように思うが、それは、国家にたいする意識に実は甘えがあるのではないかと思うのである。地域代表という考え方は、必ずしも馬鹿にしたものではないし、国会議員であるがゆえに国民代表であるというのは、どこの国の歴史においてもまったく自明ではないのである。