研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

国土と住民

2006-01-18 12:37:28 | Weblog
以前のエントリーで西部テリトリーの州編入の仕組みを解説したことがある。ここで私は一つの重要なことを語らなかった。それは1820年以降の準州の問題の特殊性である。新たに編入される州が、「自由州」であるか「奴隷州」であるかというのが、連邦政治における重大問題であった。つまり、南北戦争までの様々なアメリカ政治の彩りは、この準州がどちらに転がるかをめぐる争いと連動している。ホイッグから共和党の形成も、ジョン・カルフーン、ダニエル・ウエブスターそしてヘンリー・クレイといった、白銀時代をつかさどった人々による華やかな連邦議会政治も、自由州と奴隷州のどちらが連邦政治における優勢を占めるかという競争に絡んだものであった。

壮大なのは、新たなテリトリーに奴隷制反対論者や奴隷制を守ろうとする人々が、政治的理由から移住し、住み着き、多数派工作を行い、それが連邦政治における抗争に連動する。つまり、地方の住民の性格は、そのまま国政にとって重要な問題なのである。それゆえ、国政を考える上で、どの勢力が地方を占拠するかというのは、致命的に重大な問題なのである。

「植民」とは実に生々しい言葉である。第二次大戦以降はプランテーション式の植民地帝国のイメージが強いが、もともとはある国家が、ある地域に文字通り自国の人間をそこに住まわせてしまい、その地域を自国の領域にしてしまう行為である。ロシアなどはこうして国土を作ってきた。たんなる資源開発や略奪のために男性(主に囚人など)が送り込まれることは大昔からあったが、こういうのは長続きしない。本当に進出先の利益をモノにするには、家族単位で定住させてしまうのが良いわけである。北米大陸におけるアングロ・サクソンの勝利はここにあった。共同出資会社を通して、北米大陸に家族ごと移住させてしまう。ちなみにOEDによれば、colonyという言葉が英語に入ったのは1555年ということである。要するにアメリカ大陸への植民事業が開始されたころというわけである。

住民がいる。住んでしまう。これは理論を超越するリアリティである。他の方のブログを読んでいたら、最近の豪雪問題で、「なぜあんなところに住んでいるんだ?」という疑問を呈する人がいた。これは、辺境の住民に対して、そもそもなぜ都市住民の税金を振り込まなければならないんだという疑問の延長上にある。いろいろな回答があり得るのだろうが、こと国家論の観点から言うならば、辺境に住民がいるというのは国家そのものを支える上で重要であるということがいえる。以下極論だが、国家を理論的に考える場合、極点まで突き詰めなければならないので、そのまま書くが、例えば、大雪がふる地域(北海道、北陸、東北)に日本人が誰も住まなくなったらと考えるとどうだろうか?答えは簡単である。中国人や朝鮮人やロシア人が住み着くに決まっている。笑い話ではない。現に、警視庁に東京を追われた外国人犯罪組織は、地方を拠点にし始めている。今や外国人犯罪が着実に増えているのは地方なのである。まして、地方に日本人が減り始めれば、増えるのは外国人である。

外国人が多数を占めれば、当然その地域は独特の政治的主張をはじめることになる。それは当然国政に跳ね返る。こんな不安定要素はないわけで、だから中央政府は、金を払ってでも辺境に同じネイションの人間を多数住まわせ続けなければならない。これはリスク管理の問題である。もちろん私は、極端な仮定をしている。しかし、中央政府が多額の税金を投入してでも辺境に中央を構成するネイションと同じネイションを住まわせなければならない理論的根拠はここにある。その国家のネイションが多数住み着いているというのは、国土を決定するに際して、法を超越する強力なリアリティであり、説得力なのである。だから、北方領土問題にいまひとつ力が入らないのは、このためである。日本人が「実質的」に誰も住んでいないというのはいかにも痛い。

私は北海道のさらに辺境の港町の出身なのだが、北海道など東京の人々にとっては寒くて不便なところだろうが、ロシア人から見れば天国なのである。ましてそこは経済大国日本に属するのである。私はロシア人をよく知っているが、彼らは生活者としてとても日本人の手に負える相手ではない。しかもいったん住み着いたら絶対に帰らない。

私は北方領土の「四島一括返還論」者である。理由は、「四島一括返還」などとてもロシアが受け入れられないからである。つまり、こういう強硬な主張を維持することで、実際には問題が動かないことを希望している。私は鈴木宗雄氏の二島先行返還が絶対に許せないのだが、その理由は、これならうっかり実現してしまうかもしれないからである。しかもロシア人つきで・・・。だって現に住んでいる住民を追い出せるものじゃない。そもそも住民自身が日本に移ることを悪い話ではないと思っているのだから実にやっかいである。領土の半分を放棄した上に、ロシア住民まで抱え込むなど、私はまっぴらである。北方領土返還を成し遂げるという功名心のためであれば、ロシア人まで引き受けかねないのが政治家というものであるから、私は本当に鈴木氏が憎かった。

もちろん、北方領土が更地であれば、かえってきて欲しい。しかし、これにロシア人が一緒にくっついてくるならば、非常に困るのである。だからといって、北方領土に住むロシア人を全員追い出すなど不可能である。しかしながら、先の大戦以降不法占拠された領土の放棄などを簡単に認めるわけにはいかない。こうした矛盾に対する回答が、「四島一括返還論の維持」である。これなら、日本は面目を守りながら、問題を固定することが出来る。

もし北方領土がロシア人つきで返還などされたら、間違いなくその領域は日本で最貧困地域になるわけだが、彼らが黙って貧乏に暮らしてくれるはずもない。絶対に断じて間違いなく、政治的主張を展開することになる。北方領土選出の国会議員はその主張を中央で展開することになる。もちろん小選挙区制導入以来少々苦しんでいる某宗教政党がこれを放置するはずもない。そんな不安定要素なんか抱え込んではいけない。

話が脱線したが、中央政府が辺境住民の生活にある程度の金を出すのは当然である。中央を構成するネイションと同じネイションを辺境に住まわせるのは、国土防衛の手段だからである。北海道や沖縄に日本国民が多数を占めることは、中央の政治を円滑にする条件の一つなのである。それゆえ、辺境に赴任する医師や教師に僻地手当がでるのである。辺境の住民は、個人的にはそれぞれの事情で辺境に住んでいるわけだが、マクロに見れば、辺境で生存することを通して、国土防衛に貢献しているのである。

フェデラリズム余話(2・完)

2006-01-17 06:31:14 | Weblog
政治学で「近代」を考える場合、主題となるのは主権国家についてである。「主権国家」は人類史にとってけっしてメジャーな存在ではない。ある時期、世界のある一角ににわかにできた政治体であるに過ぎない。しかしながら、この政治体は非常に戦争に強かった。「戦争に強い」ということは、福祉にも強いということである。すなわち、領域内のすべての事柄を一元的に支配できるということであり、内部の効率性は、外部への強靭さと軌を一にするのである。これが革命あるいは漸次的民主化をへて「国民国家」に変容して、先進国となった。

「(国民)国家の終焉」だとか、「国民国家の限界」だとかという言葉を聞くと、私は不愉快になる。国民国家以前の人類社会がいったいどれだけの不幸な矛盾を抱えてきたか。ハンナ・アレントは、国家なしの人間には、実質的権利が存在していないということを亡命中の経験から身にしみて理解していた。彼女には、世界主義など実感としてあり得なかった。「もし国家がなかったら」と想像するなら、それは何のことは無い、「力」の世界である。女性の権利も、身障者の権利も、自然状態では存在しない。その証拠に中世以前にはそんなものは無かった。結局権利とは法の問題であり、法に実質を与えるものは国家なのである。自然法などは架空の概念に過ぎないのであって、国家なき法は要するに架空のお話なのである。国家あっての法であり権利である。国家が個人の権利を侵害することはもちろんあり得る。しかし、国家なしには個人の権利は想像上のものでしかない。国家抜きには人間の権利は実質的に存在しない。逆に言えば世界はそれくらい獰猛である。その獰猛な世界の一角を「同じ文化をもつ」と想像し得る人々のカタマリが切り取って、自分たちのための特別な領域を形成したのが国家である。確かに国家には様々な危険な部分がある。しかしながら、そういう危険を矯正し得るのも、国家という単位あってこそなのであって、アナキーでは矯正のしようもない。

こうしてできた、主権国家だが、その性格上形成期はデスポティズム(専制)そのものに見えるわけである。イングランドやフランスのように、国家の領域が長い歴史をへてほぼ確定しつつある場合はなし崩し的に主権国家化が進んでいくが、歴史的条件から事が簡単に進まない地域は多く存在していて、こういう地域では、政治構想の正当化を「デスポティズム批判」によって行っていた。デスポティズムの反対概念は「自由」なわけだが、この自由を実現する手段は、「権力の抑制」であるとされた。権力の抑制の手段には二つあって、それは「混合政体論」と「フェデラリズム」である。この両者はともに単純な集権化が難しい地域に生活していた政治理論家が国家を形成する際の正当化理論として使用していた。

このうち前者の混合政体論は、アメリカ革命のプロセスで近代的三権分立に変容していったということは以前に触れたし、これからどこかで敷衍するだろう。今回の検討課題はフェデラリズムである。

少々古い話をするが、本多勝一が以前アメリカ合衆国を合「州」国と表記していたことをご存知の方は多いだろう。アメリカ史の研究者の中には実際に「合州国」と表記する人もいる。またある研究者は、州が事実上の国家として強力な自立性を有していた南北戦争以前のアメリカを「合州国」とし、南北戦争以降ひとつのネイションになったアメリカを「合衆国」と表記していたりする。しかし私はアメリカにおける「フェデラリズム」の歴史的用法を検討するに、日本語表記は「合衆国」でよろしいと考えている。

アメリカにおいては、「入植以来160年の慣行を温存しますよ」というのが連邦政府形成の条件だったわけである。入植以来の慣行をイギリス本国が侵害したから、アメリカは独立に踏み切ったわけで、アメリカ人にとっての「善き政体」とは「160年来の慣行」なのである。それがたまたま「最寄りの政府(州政府)」に権力の多くを留保するというものであった。ここは、今日の我々がもつアメリカの州-連邦関係に対するイメージとは実は一致していない。今日の我々は、日本の地方自治と比較して、アメリカの州政府の強力さに注目したり、また逆に連邦政府権限が大きくなっている傾向に注目したりするわけだが、建国期のアメリカにおいては、連邦政府という名の「中央政府」というのが圧倒的に不吉な異物だったということの方が大きな問題だったのである。「中央政府」とは建国期のアメリカ人にとっては「イギリス本国政府」のイメージだったのだから。だから、建国の父たちがこれから作ろうとしている連邦政府なるものを正当化しようと思えば、まず「この連邦政府なんてものは、本当にたいした権限はもっていないんですよ。ただ、皆さんの州だけではできない機能(外交など)を補完するための便宜的なものに過ぎないんですよ。これまでの我々の享受してきた自由はほうっておいても永遠に維持されるわけではないのです。連邦政府はあくまでもこれまでの自由を永続化させるための道具なのです」というニュアンスを前面に出すことになる。『ザ・フェデラリスト』を通読してみると、実はけっこう辟易とすることが多い。辟易するというのは、後世の我々は、フェデラリスツの真意を知っていて、彼らははっきりと主権国家を作ろうとしていたのだが、それを政治的理由から粉飾していたのだから。「連邦」という言葉は、フェデラリスツにとっては、後世の我々が考える以上に、「政治的」な配慮に基づく言葉だったのである。後世の我々にとっては、連邦制というのは、一つの政治形態として考察の対象なわけだが、フェデラリスツにとっては、主権国家に向かう「プロセス」だった。アメリカ史は、一貫して連邦権限が強化されていく歴史だったわけだが、それは建国者たちの意図を考えれば当然である。

つまり、州の自立性に主眼があったのではなく、人民の同意やこれまでの慣行を保全するというのが「連邦」という言葉に集約されているので、わざわざ「合州国」と力みかえらずとも「合衆国」という馴染み深い表記でよいと私は考えている。「州の自立性」とは、要するに「人民の自由」を象徴する政治的言葉だったわけで、主眼はあくまで州ではなくピープルだった。ただ、中央政府設立に反対する人々を取り込むのには非常に重要な言葉だったのである。例えば、ジェファソンなどは州の自立性を「条件」に連邦政府という名の中央政府を認めることが出来たのである。

フェデラリズムとは、結局は「架橋の理論」ということである。すなわち、主権国家に向かうに際して、現実に存在する自立的な地域権力を取り込んでいくための暫定的形式である。だから、逆に地域権力の自立性を政治的には配慮してみせることになる。この辺は、EU憲法を作ろうとしている人たちの言説をみればなんとなく想像できるだろう。連邦政府設立に際してなされる言説は、行政の効率性以上に、「人権」を重視するものが多い。地域権力(既存の主権国家)だけでは保全できない人権を連邦の存在によって救い得るのだと。連邦形成者のこうした傾向は、マディソンによる有名な『ザ・フェデラリスト』第10篇以来の伝統である。逆に言えば、連邦それ自体を目指すということは歴史の中では実はなかった。だから、すでに主権国家であるものを連邦化することはまず出来ない。そいういうわけで、道州制が実現する日は来ない。

フェデラリズム余話(1)

2006-01-09 06:42:42 | Weblog
以前、有名なロシア政治研究の大御所のS先生と二人で昼食をとっていたとき、こんな会話をした。

先生「アメリカ連邦制のモデルが、実はインディアン諸部族の連合形態をモデルにしているって話を聞いたことがあるんだけど、どうなの?」
私「はあ・・・。そんな説もありますね。そういえば、フランクリンが友人への手紙の中でインディアンの政治形態をずいぶん詳細に書いています」
先生「インディアンっていうのは、もともと中央アジアにいたモンゴロイドだよね。だとすると、それは当然なんだ。彼らは基本的にフェデラリズムで存在している。だから、アメリカ大陸に渡ったモンゴロイドがフェデラリズムを構成しているというのは分かる話だ。でね、今の日本国憲法はアメリカが作ったわけで、アメリカの連邦憲法の影響が日本にも少しは流れているとしたら、これは壮大な太平洋史観になって非常に愉快だと思うんだ」

学術の中心にいながら、こういう飛び道具を面白がるのがこの先生の偉いところだと思った。

先生「でもね、Nくん(アメリカ建国史の先生)に聞いても、ニヤニヤ笑って答えてくれないんだよ」
私「いわゆる正史じゃないんですよね。かといって、突飛かというとそうでもなくて、学術レベルでもそういう論文はわりとあるんですけど・・・。ネイティヴ・アメリカンの研究者は、そういう問題関心がないので、本当は建国史家がやるべきなんでしょうけど、建国史家は、逆にインディアンに興味がないんです」
先生「なぜ?」
私「建国史家は、もともと西欧政治思想史が得意だったタイプが多いんです。だからどうしても目線がヨーロッパとの関係に行くんです。あと、技術的な問題として、インディアンの言語が難しくて、正直取り組めないんです。インディアンの言葉って、日米戦争時の暗号になるくらいで、非常に難しいんです。私もアルファベッドに落とした単語を読んだことがあるんですけど、とても発音自体できないんです。」
先生「彼らの言語が解明されたのは、じゃあ最近なんだ?」
私「いえ、実は古いんです。最初に解明したのは牧師ですね。伝道のためです。ジョナサン・エドワーズが辞書を作っています。あと、ジェファソンなんかは、インディアンの言語を系統ごとに分類しています。ただ、分類した上で、この言語体系の根っこがどこから来たのかを不思議がっていますね。まさか太平洋の向こう側から来たとは、思わなかったでしょうから。」
先生「じゃあ、当時の人間は、だいたいネイティブ・アメリカンのことは理解していたわけだね」
私「我々が考える以上に知っていたでしょう。ただ、さて、連邦体制構成という段階になって、パタリと彼らに関する記述が消えるんですよ。植民地時代には、ずいぶん熱心なインディアンの政治形態を研究した文献があるんですが、独立戦争以降消えるんです。」

ここでいう、いわゆる「インディアン」のフェデラリズムとは、部族連合のことだがフランクリンの書簡を読むと、彼はずいぶんこの方面の研究をしていたようである。ただし、それをどの程度自分たちの統治形態の問題としてみていたのかは分からない。Federalという言葉が建国期に明確に意識されだしたのは、独立戦争に勝利した後、それまで独立していたコロニーズを統合しようという段階になってからである。

ウイリアム・H・ライカー(William H. Riker)は、古代から現代までのフェデラリズムを検討した結果、その動機はざっくり「外的危機」であると断言している。要するに、必要に迫られて構成されるものであるという。18世紀というのは、古典的価値観が濃厚に存在するとともに、その一方で国家の集権化が進んでいた時代である。普通は外的危機に対する対応として我々は領域主権をイメージするが、フェデラリズムというのはその中間に位置する考え方であった。すなわち、現に存在する割拠的政治体とより大きな「国家」としての枠組みとの間の妥協的存在である。

「妥協的」という言葉を別な言葉で表現するならば、「政治的」ということである。つまり、外的危機に対応するためには、より大きな統合が必要である反面、古典的政治観念における「デスポティズム批判」に対する配慮がそこにはあった。「共和主義」の理念と「主権国家」の必要性との間の矛盾に対する政治的回答が、「連邦制」だったのである。この連邦には様々なヴァリエーションがあって、それは「弱い連邦」から「強い連邦」までの間にいろいろな段階があるということである。連合における最低限の取り決め以外のすべての権限を地方政府が握っているものから、中央政府が対内主権を有するものまでの間にいろいろな段階がある。アメリカ史においては、前者をconfederationと呼び、後者をconsolidationと呼んだ。

いわゆるフェデラリストとは、後者を目指す人々だったわけだが、連邦権限の強弱についてはどちらが「保守」か「リベラル」かは時代によって様々である。あえて言えば、出現時は「強い連邦」を主張するほうが「保守」的ではあったが、時代が下ると、「リベラル」の方が「強い連邦」を利用しようとした。そういうわけで、単純に色分けできる性質の議論ではない。

理解への道のり(3・完)

2006-01-06 05:24:37 | Weblog
我々外国人にとっては、ビアード、ハーツ、ポーコックなどが非常に分かりやすいのだが、そもそもアメリカ革命史においては、彼らはメインストリームではない。アメリカ革命史とは、「アメリカ人の物語」なのであり、彼らの市民宗教の経典なのである。つまり、「国学」としてのアメリカ革命史研究が存在していて、これは上記の学派の興亡とはなんの関係もなく、重厚に存在し続けている。

具体的にいうと、建国の父たちの文書、ピューリタニズム、神学、憲法をアメリカの文脈のみで総合的に語る営みで、これがなんとも迫力があるのである。階級だとか、ロックだとか、共和主義だとかいう異国の言葉は使わない。アメリカ内在的な文脈でのみ歴史を語る。あえてメジャーな人々を挙げるならジョン・ファーリングやジョゼフ・エリスなんかがそんな感じであるが、実際にはある特定の研究者を挙げられないほど数の上では支配的である。アメリカの士官学校などで教えられているアメリカ革命史は、基本的にこのラインであって、我々外国人にとって馴染み深い諸学派による整理はなされていない。こうした国学派の歴史が単なるお国自慢の偉人伝ではないのは、彼らが基本的に神学にも強い人が多いことで、この神学の壁が外国人留学生の前に立ちはだかる。

「アメリカ革命史をやります」と言って、たとえば日本人留学生なんかがノコノコイェール大あたりに出かけても、基本的にそんなものはやらせてもらえない。たいていは、コースワークをやらされて、日本政治論か日系移民論のエッセイを書かされて、最後に修士号なんかをくれて体よく帰される。そりゃあそうで、例えば日本語も怪しい留学生が、「古事記解釈における賀茂真淵と本居宣長の異同」を研究したいと言っても、まあ相手にされないだろう。国学派の歴史叙述に一度触れると、ポーコックのアメリカ革命についての叙述がなんとも色あせて見えるのである。まるで、外国人の書いた皇室論のように。

先に「資料や政治史における事実についての決着がついてからが本当の勝負だった」と書いたが、アメリカ革命史は、様々な学派によって検討され続けることで、確かに精度を増し続けているのである。まずは、非常に土着的な革命の物語が継続的に研究され、これでは補えなかった部分を革新主義学派が、革新主義学派ではとらえられない部分をコンセンサス学派が、コンセンサス学派ではとらえられない部分を、共和主義解釈がという風に、様々な角度から検討されることによって、この政治史的にはすべてが自明な分野は、たしかによりいっそう進歩しているのである。不思議なことに、10年前の研究が、すでに古かったりする。近代史研究なら不思議ではない。資料の開き方や関係者の証言が10年前と違うのだから。しかし、資料が開ききり、関係者が全員死んで200年たつのに、いまだに10年前よりは進歩し続けているのである。つまり、より分かるようになっている。1776年から1787年までの約10年間を理解するのに200年以上かけてもまだ、10年前より分かるようになっているというのは恐ろしい話で、陳腐な言い方だが、他者を理解するのは本当に難しいものだと思う。ひょっとしたら、我々は常に何もわかっていないのかも知れない。史観とは、過去を解明するための道具だが、道具は道具であるがゆえに、ある側面を分析するには適しているが、別の側面を分析するには適していないということがある。だから、いろいろな史観の洗礼をうけた方が、よりいっそう正確に近づくのだろう。そういう意味で、多様な解釈は容認されなければならない。

余談になるが、こういう本来はきりのない話に、ある一定の価値判断や戦略的意図から断を下す側面が政治学にはある。例えば、インディアン。16世紀にヨーロッパ人がぱらぱらと北アメリカ大陸に入植したとき、「インディアン」という一つの「民族」が存在したわけではない。インディアン・リパブリックという一つの国家が存在したわけではない。北アメリカの先住民たちは、それぞれの部族に別れ、対立したり、同盟したりしながら存在していて、後から来たヨーロッパ人たちもいわばそのうちの一つだったわけである。イギリス人のあるコロニーは、インディアンのある部族と連携し、別のインディアンのある部族と戦闘をしたりしていた。フランクリンにしろ、アダムズにしろ、インディアンを特定の束としては見ていなかった。

ところが、歴史が下ったある日、ウーンデッドニーという場所で、インディアンの虐殺事件が起こった。ここで、はたとアメリカ史をインディアンの虐待の歴史としてみる見方が発見されたのである。繰り返すが、インディアンという一つのカタマリはもともと存在していなかった。しかし、この瞬間、歴史をさかのぼって「インディアン」が虐待されていく歴史が形成されるのである。これは歴史学ではない。政治学である。政治的正しさから歴史が作られる。「インディアンに対する歴史的罪」は、もとより実定法では解決できない。それゆえ立法によって救うことになる。

歴史解釈が国民をつくるための政治的営みであることはいまさらいうまでもないだろう。日本人は非常に善良なので、純歴史学的な態度を政治的な場で貫いてしまうことがある。つまり、相手方は政治的に歴史を語っているのに対して、日本人は歴史的に公正であろうとするために、「相手の立場に立つと、それはどう見えるのだろう」と考える。もちろん、この態度は美しいに決まっている。しかし残念ながら、これは混乱なのである。「相手の立場にたって考える」というのは大学でやることであって、(国際)政治の場でやるのは、端的に損をすることにつながるのは確かである。損をしてもかまわないというのも一つの見識ではあるが・・・。ただ、政治の場というのは、どの歴史観が現世を支配するかを争う力の場だということは、頭の隅においておくのは悪くないと思う。残念ながら、理解するための努力と、政治とは次元を異にするもののようである。

以前、ヒストリー・チャンネルを見ていたら、こういうナレーションで終わっていた。「ミニッツ、マッカーサー、アイゼンハワー・・・。これらの五つ星の人々の努力によって、世界の人々は平和と幸福を享受できているのです」。

悪い冗談である。
それにしても、戦争は嫌だが、どうしてもやらなければならないとしたら、やっぱり勝つべきだなあと改めて思う。歴史的な正しさとは別の次元の話だが。

理解への道のり(2)

2006-01-06 05:21:37 | Weblog
ビアードは、フェデラリスツの連邦形成の動機を経済学的視点から分析するわけだが、じゃあその連邦に編入される当の西部の入植者たちは、どんな人たちだったかと考えると、これもまたヨーロッパのペザントとは似ていなのである。つまり非常に「資本主義的」行動様式をもつ人たちだったわけで、ここに着目したのがルイス・ハーツの『アメリカ自由主義の伝統』である。要するに、アメリカは封建制の伝統を持たず、最初からロック的な自由主義を基礎にして作られたというコンセンサス学派の登場である。「コンセンサス」とは、対抗者どうしは、対抗しつつも基本的思考様式を同じくし、根本的な対立関係にはないということである。

「コンセンサス」とは、アメリカの政治思想そのものを考える上でも重要で、私は以前アメリカ革命史における、「フェデラリスト・インタープリテーション」と「ジェファソニアン・インタープリテーション」の対立の話を書いたが、考えてみれば、この両者はともにアメリカ革命そのものの正統性において対立していないのである。要は、革命の目標が「すでに成就した」とみるか、「いまだ成就していない」と見るかの違いである。これはある時期までのアメリカの保守とリベラルの違いでもあって、「アメリカの理想」においては対立はなく、ただその理想が「すでに成就した」と見るのが保守、「いまだ成就せず」とみるのがリベラルだったわけで、両者の対立は、せいぜい手法の違いで、当然同じ人物が人生のある側面において保守とリベラルを行き来したりする。(もっともこの図式はもうなりたたないだろう)

ちなみに、ハーツの師匠はホーフスタッターなのだが、ホーフスタッター自身は自分を革新主義学派と呼んでいたようである。後世からはコンセンサス学派の人と整理されることが多いが、彼の『改革の時代』のあの異様な面白さは、革新主義学派のものだと思う。なんというか、非常に歴史が躍動的に展開するのである。「革新主義学派は、変化を描けるが、状態を描けない」とされるのに対して、「コンセンサス学派は、状態を描けるが、変化を描けない」とされている。ハーツの『アメリカ自由主義の伝統』それ自体は、とてつもなく面白いが、「もう、これ以上何も書けないだろう」という感じがする。対立がないんだから。歴史叙述は、対立がもたらすダイナミズムによってグングン展開する面がある。

もっともホーフスタッターは過渡期にいた巨人で、学派に収めるのも気の毒である。ただ、ハーツのもっていた弱点を師匠ももっていて、それは南部が描けないということである。南部は両者とも基本的に「例外」という扱いになっている。ハーツは、わざわざ『自由主義の伝統』の中で一章を割いて、南部が「例外」であることを論証までしていた。ハーツのヒストリオグラフィーでは南部は分析不能なのである。

さて、こうして話は、ハーツの「ロック一元論」に対する共和主義的歴史解釈の話に行くのが王道なのかもしれないが、ことアメリカ革命史研究に関するかぎり、もっとも強力な存在があることには注目したほうがいいと思う。それは、「国学派」である。