研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

北海道論(5)-移住にまつわる大きな文脈

2010-03-25 21:37:16 | Weblog
シベリアのロシア人と北海道移民の根本的な違いは、前者が徒刑囚や流刑囚であったのに対し、後者が徳川幕府時代末期の段階でまともな庶民だった人々であるということだ。嫌な言い方なのは承知している。ただ、こうでも言わなければ私の腹が収まらない。いや失言した。なぜ「まともな庶民」が北海道に入植したかの理由の一端を私は語りたいのだ。

1799年。帝政ロシアは、「東インド会社」にならって「露米会社」という国策会社に勅許状を与えた。その目的は、千島列島、樺太、アリューシャン列島、アラスカ、カリフォルニアに及ぶ北太平洋地域でのオットセイやラッコの毛皮である。当然関係地域の植民地化もその事業に含まれるので、社員の多くは海軍の軍人が兼務していた。総支配人は、日本史の教科書でもおなじみのニコライ・レザノフである。レザノフは、1792年(寛政4年)にシベリア総督使節アダム・ラクスマンが連れてきた日本人漂流民と引き換えに老中松平定信から受け取った許可証を手に長崎を訪れた。1804年のことである。しかし長崎奉行はこれを峻拒する。これに錯乱したレザノフは日本海からアリューシャン列島をさまよった挙句、皇帝に対する自身の名誉回復のために蝦夷地襲撃を決意した。1806年、彼はアラスカで軍艦二隻を手に入れ、当時カムチャッカでくすぶっていた海軍士官のフヴォストフとダヴィドフに与え、東蝦夷地襲撃を独断で命じた。

1799年。徳川幕府は、東蝦夷地を直轄地とした。すでに1798年より最上徳内、近藤重蔵らに千島探検をさせていた幕府は、択捉島の紗那に会所を設け、これをもって千島列島の拠点としていた。ここに幕府から派遣されていた技官の一人に、かの間宮林蔵がいた。彼は樺太が「島」だということを最初に発見することになる。

1806年。フヴォストフ等は樺太南端の久春古丹(クシュンコタン)をかわきりに、宗谷から択捉島にまたがる地域を蹂躙し始める。折悪しく宗谷は、天然痘が流行しほぼ壊滅状態にあった。「パラキオマナイ」というアイヌ語をご存知の方はまずいないだろう。津軽藩兵の宗谷駐屯地の当時の地名で、「ダニ多き沢」というのだそうだ。オホーツク海流が酷い湿気をもたらし、これが宗谷上空で反対側から吹き込むシベリア気団という凄まじい寒気とまじりあい、地上ではダンテも想像できないような地獄が展開される。湿気と寒気と猛吹雪とダニだ。生きる気力がなくなる。ここに世界の果てのカムチャッカでたっぷりと憎悪をため込んだロシア帝国辺境の海軍士官が、粗悪ウオッカで武装しつつ襲いかかるのである。悪夢などというレベルではない。

同年4月29日。彼らは紗那に現れた。これが紗那襲撃事件である。

「(間宮)林蔵は雇医師久保田見達と共に、徹底抗戦を主張するが、函館奉行調役下役戸田又太夫と下役関谷茂八郎には戦意がなく、ロシア側が3隻の短艇で上陸を始めると、会所の支配人川口陽助に命じて、ロシア人と交渉させようとした。しかしロシア側はこれを無視し、いきなり陽助の股を撃ち抜き、付き添いのアイヌ人をも撃ち殺してしまう。さらに海岸にある魚粕倉庫を占領し、そこから会所に向けて大砲、小銃を放った。交渉するつもりだった戸田又太夫と関谷茂八郎は激しく動揺し、津軽藩も恐怖のため、みずから陣屋に火を放ち、これを焼き払った。・・・その夜、戸田と関谷は、紗那からルベツ(留別)まで撤退することを決め、夜が明けないうちに紗那を後にした。この逃避行の途中、責任を感じた戸田又太夫は山中で自害している」(稚内市教育委員会編『天明の蝦夷地から幕末の宗谷』(株式会社国境))。

紗那襲撃事件の顛末は、江戸の知識階級を憤激させナショナリズムを喚起することとなる。幕府は、翌1807年、樺太・宗谷を含む西蝦夷地を松前藩の管轄から外し、津軽海峡より北側をすべて直轄地とし、ロシア帝国の「マニフェスト・デスティニー」と対峙すべく北方の国境紛争に本腰を入れ始める。ちなみに間宮林蔵の超人的業績と、それと比較したときにあまりに暗く感じる人物像は、ここから始まるのだろう。幕藩体制の世にあって、「国家」的使命を帯びた武士たちが北方に送り込まれる。蝦夷地に「日本」の前線基地が構築される。北海道だ。

北海道移民事業は、こうした国境防衛の文脈から始まった。入植団に罪人などが採用されるわけがない。北海道北部には北陸地方を中心に選りすぐりの「庶民」が入植する。敢えて言うと、シベリア人とはプライドが違うのだ。

Interests概念の変遷からみたアメリカ政治思想史(3・完)

2010-03-24 18:28:45 | Weblog
5.The Disappearing Public

1922年、ウオルター・リップマンは『世論』を書いた。世論とは、ステレオタイプ化された頭の中の擬似環境なのだという。さらに1928年のエドワード・バーネイズの『プロパガンダ』では、そもそもpublic opinionなるものは広告活動によって形成されたものであることが示される。もはやルソーはおろかウイルソンからもかけ離れたものとなっていく。一般意志は本当に存在しない、そんなものはルソーの戯言だと言うのは歯切れが良いが、本当に「存在しない」のだと居直るのも学問としてはそれなりに困ったことである。

この危機意識は、圧力団体を研究する人々にこそむしろ感じられたかもしれない。活発な意志を打ち出す圧力団体と、無力感から投票に行かない有権者の存在が重なり、結局は私的目的によって世論が操作される懸念は深刻なものとなる。E・ペンドルトン・ヘリングによれば、議会が耳を傾ける意見は、個人として語る市民の声ではなく、一定の目的に向かって組織された団体のコーラスであるという。彼はすでに19世紀の段階で、政党は政策決定において有していた独占的な支配権を失っていたと考えた。

ではpublicは、どこに打ち建てられるのか?

デューイは、そもそも近代社会において「パブリック」なる概念は一つの力を持ちえないと考えていた。しかし彼は、intelligenceの組み合わせによって、巨大な社会を巨大なコミュニティーに再構成できるかもしれないと考えていた。これは凄い。具体的にはどんなものなのだろうか。具体的なことは分からなくてもその雰囲気を伝える断片だけでも分かれば、それは大きな発見だったであろう。

しかしこの問題に関する彼の独創性はここで終わる。ここで彼は多くの思想家の墓場となる「教育」を口にせざるを得なくなる。「教育論」という万能薬の味をいったんおぼえると、思想家の思索はそこで終わり、あとは退屈なカリキュラム論に終始する。

こうしてジェイムズ・マディソンの想定したSocial Wholeは、流産したまま今日に至る。

6.The Rhetoric of Realism

Publicが存在していないことと、popular politicsが存在していることの間の断層が、民主社会には重大な懸念材料である。その一方で、レトリックとしてのcommon goodが無くなったことはない。これがイデオロギーという怪物になったことはあるし、分断する社会の紐帯になる可能性もある。さしあたり、commonの範囲を国家とするか、地域とするか、世界とするか、宇宙とするかで議論は悪い意味で深まるらしいことは、近年の日本がよく示している。Commonという観念が必然的に排除を前提とするのだとしたら、次は「包摂」というのがテーマになってくるのもまあそうなんだろう。

ホーフスタッターは『改革の時代』の中で、「革新主義時代において高められた道徳的な言葉をニュー・ディール期に使用し続けたのは保守派であった」と指摘している。彼によれば、ニュー・ディーラーたちは、抽象的な政治概念に不信感を持った、pragmatic realistsだったのだという。この点で、ニュー・ディーラーというのは、革新主義時代の知識人とは真逆の人々だったのだろう。リベラルな知識人が理念に不信感をもち、「リアリスト」を自任し、interestsを語る。何か変な感じがするが、確かにアメリカ政治史ではそうなっている。理念的ではない彼らの「理念」を、ホーフスタッターは、the new opportunismと読んでいる。西洋政治思想史の伝統では、interests同様、opportunism(機会主義)は下品な意味で使われてきた。福田歓一の『政治学史』によれば、「マキャベリズム」(マキャベリその人の政治思想とはとはまた別の位相の)というのは、「機会主義の教説」になるのだという。マキャベリの主張が、当時のハイブローな言説に対する、ローブローかつ「リアル」な見解だったことを考えると、ホーフスタッターのthe new opportunismという特徴付けは、気味が悪いほど正しい。しかし同時にこの概念史は、ヨーロッパ政治思想史の延長上にアメリカ政治思想史を読むことの限界を示している。以上の理屈だけでアメリカ政治思想史を語るなら、アメリカのリベラルの歴史は失敗の物語にしかならないからだ。

Interests概念の変遷からみたアメリカ政治思想史(2)

2010-03-22 16:24:36 | Weblog
3.Utilitarianism Redivivus

こうしたアメリカの政治言説の空間で、ローブローな言説はいかにして公的言葉となったのか。それは道徳的急進性とは別の、マックレイキングの経験主義的側面に注目する必要がある。それは南北戦争を契機として始まった、統計的手法と政治の結びつきである。

「統計」というのは、本来古典学芸を講じる大学には無縁の存在で、これは南北戦争という途方もない消耗戦を遂行する過程で登場した。このfactsを蓄積し現状を説明する手法は、南北戦争後の一世代を経て、レトリックとしての力を持ち始める。統計的見解は、専門家のみならず、法律家にとっても雄弁家にとってもあまりに有用な道具であった。ジョン・デューイが練り上げたプラグマティズムにはこのような時代背景があった。

デューイによれば、デモクラシーにおいて抽象概念(ハイブローな言葉)は、人間を既存の単一体に押し込めるだけで、結局は人間の個別的な悩みを何一つ解決できないのだという。彼にとっては、「行うこと」は常に「個別的な何かを行う」ことである。それゆえ、諸問題は、仮説・実験・結果にわけて個別的にみる科学的手法によって解決が可能になるのである。こうして、ローブローな言説は「科学」と結びつくことによって学問となり、公的な場で問題にしてもよい事柄になった。建国期のアメリカでまったく受け入れられなかった功利主義的な言葉使いが、南北戦争・再建期・金ピカ時代を経て公的に語ってもよいものになり始めた。

4.Empirical Political Science

アメリカ政治学において「ポリティカル・サイエンス」が発達するにはいくつかの思想的背景がある。その一つに、ドイツ観念論哲学への敵愾心がある。ウッドロー・ウイルソン曰く「ドイツ人の思考様式は邪悪である」と。彼によれば、あのドイツ観念論が国家の全能性(主権)を生み出し、第一次世界大戦を引き起こしたのだという。

しかしそもそも、抽象的な政府理論よりも、立法過程や政府機能の研究を目指す方が「正しい」のではないかというのは、アングロサクソン世界においてはなじみやすいものの考え方だったかもしれない。統計的手法は、「独逸国家学」に対抗し得る力強さがあるように思われた。

ただ国家と主権を重視せずに政治を語ることなんかできるのだろうか。というと、確かに可能で、例えばサンディカリズムがあり、ファビアン協会があった。ハロルド・ラスキは、国家主権を相対化し、多元的国家論を唱えた。彼は国家主権の絶対性を否定し、さまざまな中間団体を国家と並立すべきものとして重視した。さて、ではPublicはどう定義すればよいのだろうか。

Interests概念の変遷からみたアメリカ政治思想史(1)

2010-03-17 18:33:06 | Weblog
1.HighbrowとLowbrow

建国以来、アメリカの政治的言説にはある種の「ハイブロー」と「ローブロー」の微妙な組み合わせが存在していた。

ハイブローというのは、「国家」、「主権」、「政府」、「一般意志」、「共通善」、「コモン・マインド」といったジェントルマンが公的に論じることのできる概念的言葉である。一方、ローブローというのは、こういった高等概念に対してやや偽悪的にinterestsを問題にする言説で、面白いことに彼らはこれをpolitical realismと呼んだ(Van Wyck Brooks)。利益というのは現実の問題であり、諸利益の関係を考察する学問的概念として、interest group pluralismという言葉が後に形成される。つまり、interestsというのは、ハイブローな言説を「現実的ではない」と批判する文脈の中で使用された。もちろん何をもって「リアル」と認定するかは争いのあるところだが、とにかく現実主義とは利益の問題であるとアメリカでは認識され、かつこれはハイブローな言説へのアンチ・テーゼとして構成された。だからこれは「下品」な言葉である。

革新主義時代とニュー・ディール時代の大きな違いは、前者の人々はinterestsを「克服すべき対象」と認識していたことである。ホーフスタッターの整理によれば、アメリカ史において最初にむき出しの利益追求が行われた「金ピカ時代(Gilded Age)」は、経済権力が政治の実権を握り、ボス・マシーン政治が公権力を腐敗に満ちた方法で壟断していたとされた時代であり、マッグワンプ・タイプの古典的エリートはアメリカ社会の主流から疎外されていたという。例としては以前このブログでも論じたヘンリー・アダムズがいる。

後世の我々は、この「金ピカ時代」においてアメリカは近代的資本主義を確立し、ボス・マシーン政治が移民のアメリカ社会への同化を進めるとともに機能的な政党政治への橋渡しになったという側面を知っている。しかし同時代において疎外された古典的エリート階層からみるならばそれは腐敗に満ちた世界であり、事実アメリカにおいて本格的な社会問題が認識された時代であった。

それゆえ革新主義の担い手たちは、まずinterestsに対して、理念を主張することになる。ウッドロー・ウイルソンは、「政府の仕事とは、特定利益(special interests)に対して、共通の利益(common interest)を構成することである」と主張した。彼は政治を単なる権力の問題ではなく、commonでpublicなものとして考えた。つまり彼によれば、interestsに敗北するとき、政治は消滅するのである。こうしてinterestsという言葉の物語は、単にハイブローな抽象概念に対する抵抗ではなく、政治そのものへの深い懐疑の物語となった。

2.The Common Good

ダニエル・ロジャースによれば、革新主義の時代とはmorally ambitious Protestantismの時代と見ることができるという。こうした観点からたとえばマックレイカーたちの活動を再検討すると、「公的権力を私的目的に利用すること」を暴露していたわけである。これがジャーナリズムの一つの機能であることは間違いない。

この革新主義の時代の思潮から三つのことがいえる。
第一に、interestsをpublicに対する個別利益としてとらえ、前者の構造を暴露することによって、鋭い道徳的な要求を燃え上がらせる。
第二に、Common Goodという概念のリアリティを強調し、この概念をもとにした政治をpublicなものととらえる。まさに政治それ自体である。
第三に、アメリカ革命以来の分権的で弱い政府よりも、専門家による効率的な政府への権力の集中を望む。メリット・システム(猟官制批判)と連邦権限の拡大である。ここにおいてジェイムズ・マディソンの『フェデラリスト』第10論文が聖典としての価値を減退させることになった。

第一次世界大戦とは、アメリカ史の内部でみるならばそれは革新主義の時代を背景にしていることを忘れてはならない。植民地時代から常備軍を忌み嫌っていたアメリカ国民をあれほど外国に動員するには、「国家利益の衝突」という観念ではない道徳的衝動が背景になければならなかった。革新主義の時代という背景を抜きにアメリカ合衆国の第一次大戦参戦を説明することは本当はできない。

※Daniel T. Rodgers, Contested Truth: Keyword in American Politics since Independence(1998)をテキストにした教養課程学生への講義ノート。
無茶なことをしたものだ・・・・。

北海道論(4)-城塞の中の日本

2010-03-14 16:56:38 | Weblog
はじめに役所があった。しかる後にコロニーが現れた。

北海道の歴史を考察する際に、押さえておかなければならないことは、原野にサムライが役所を建てて、その後に移住民が入ってきたことである。まず地域社会が存在し、その上に役所が乗っかった本州とは、スタートが違っている。北海道開拓は、サムライたちが始めた。蝦夷地時代の人的移動はいざ知らず、北海道の歴史はサムライから始まった。

北海道の主要産業は役所だというのは、もちろん批判的文脈の中で語られるのだが、内実はもう少し深遠なものである。北海道、ことに北海道の僻地に住んだ経験のある人なら分かると思うが、役所(あるいは役場)に入ると、ほっとしてヘタヘタと座り込みたくなる。そこは、まぎれもなく、普遍的言語が通用する場所なのだ。確かに変な役人はいる。個々の役人が立派なわけではない。それはそうなのだが、とにもかくにも、あるべき論理が、いちおう「べき論」として、まともな会話が成り立つ場所なのだ。近代とは、なんと素晴らしいものなのだろうとさめざめと涙が出るような気分になるのが役所だ。

能力以外の人間の性質が生まれながらに違うわけではない。それは「システム」の違いだ。属しているシステムが、役所とコロニー内部では違うのだろう。

開拓移民団について大雑把な話をすると、「札幌圏」の場合は、明治政府の募集に応じた人々が多くは村落単位で入植事業団に参加した。個人参加は極めてまれな例だ。「日高山脈の向こう側」には、酔狂な個人単位も少なくないそうだ。「子爵家の三男」を名乗る変な人間がたまにいる。だから北海道の各地は、本州の文化がまだら模様に点在する形になっている。例えば「北広島市」は、広島県出身者が入植した土地なので、広島県にしかいないような苗字の人がここにだけいたりする。

では、多様な文化的背景の人々が入植した北海道の文化は豊かなのか、といえば私は「豊かではない」と断ぜざるを得ない。文化とは、その土地の歴史に根差した固有の様式および体系である。だから気候風土と切り離しては存在できないし、入植した人々は、競合する他の文化との衝突を回避するためにその文化的背景を消し込んだ。特に明治新政府創設期である。共通語の創造に示される規格化の方針のもと、開拓移民の各人が有していた文化的背景は消滅する方向で進んだ。特色は邪魔だったのだ。例えば島根県の文化様式では北海道では生活できないし、和歌山県の文化は、極寒の地を想定していない。開拓に必要なのは規格化であり、創意工夫よりは物量である。端的にそれが表れているのが建築様式であり、北海道では瓦屋根はあり得ないし、通気性よりも断熱性が決定的に重要である。青森県と比較すると、函館の建物は城塞のようである。

この「城砦のような」というのが、あえて言えば北海道の文化枠組みである。文化は城塞の中にのみ存在する。城砦の外に文化はない。少なくとも、「日本文化」は城塞の外にはなかった。そして城砦は、日本文化の先兵である。辛抱強く自然を砕き、城塞の壁を拡張していく。それは「日本文化」を拡大していくことだ。この方式が、依田勉三型ではない、中央政府のやり方である。そして厳しい自然環境には、それのみが有効だった。本州とは違うこのスタイルは、本州のような文化をつくる唯一有効な方法だった。開拓者が北海道に求めたのは北海道ではない。「日本」だ。その手段として文明の利器があった。

だから札幌農学校は中央政府直属の機関として理解すべきである。北海道民にとっては「地元の学校」ではない。札幌農学校については根本的な点で誤解が定着している。最大の誤解は、「優秀な少年が、開拓の夢のために『あえて』、札幌農学校に進んだ」という表現に示される。違うのだ。全然違うのだ。当時の札幌農学校は、とんでもないエリート校だったのである。東大よりも早く(つまり日本で最初に)学士授与を行った学校であり、創設期には、京都大学など影も形もなかったころの本格大学だったのだ。卒業生は官職を保証され、それは留学への最短距離であり、旧制高校教授にもなれた。現在の北大生などとはまったく別人種の秀才集団だったのだ。「あえて」進学するような学校ではなく、立身出世のために勇躍進学するのが札幌農学校だったのである。そうでなければ、卒業生があんなに優秀であったことを説明できないではないか。皆が皆、歴史に名を残しているのだ。

こうして北海道は、城塞を通して開拓された。最大の城砦は「開拓使」だったが、各種役所やその他学校機関も基本構造は変わらない。城砦という文明の中にのみ文化は存在し、それはまっすぐに東京につながっている不思議なトンネルであった。知識ある人々は、このトンネルを通して東京と北海道を行き来し、北海道そのものに対しては、あたかも籠城するように生活してきた。籠城しながら、忌まわしい自然と戦った。寒いことそれ自体が忌まわしい。「もっと火力を!」。あの針葉樹林を焼き払って、舗装して、交通網を作れば、日本に近づく。「だからもっと火力を!」。資源を要求するのはエリートの責任である。

稲作文明の継承者たる知識人たちは、津軽海峡を超えると、針葉樹林を焼き払う。稲作と同じ精神で、舗装道路をつくる。

関東出身の工学部の友人にこんな話をすると、明敏な彼はこう言った。
「つまり、大学にいるという段階で、私は北海道住民ではないのですね」。
私は答えた。「そういうことです。私は北海道で生まれ育ちましたが、故郷はあくまでも東京です」。