研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

ニュートンとデカルト

2005-07-08 00:51:31 | Weblog
ニュートンが万有引力の法則を発見したとき、当時の啓蒙主義の時代に生きていた知識人たちは、その世界観を「オカルト的」と呼んだ。なぜなら、彼の想定する宇宙は真空であり、理由は分からないが、諸物にはみな引力があって、その引力の法則にしたがって、宇宙は運行していると語ったからである。ニュートンは、何故、諸物には引力があるのかは、分からないと言った。分からないが、神がそのように定めたのだと納得していた。何故、神がそうしたのかは分からない。分からないが、神の作った現世をよくよく観察してみると、このような法則がある(万有引力の法則)。それは、これまた数学という神秘的な魔術によって導き出されるのだという。微積分である。そして法則があること自体が神の存在を証明していると考えた。科学には、歴史性がある。17世紀の科学は神の存在証明を目的とした側面がある。ニュートンほど無神論の傾向のない人はいないだろう。彼は、神学におけるトマス・アクィナスのような存在である。

しかし、啓蒙主義の時代の知識人たち(ことにフランス人)は、真空における引力などという神秘的な世界観を嫌った。それは合理的ではないと考えた。彼らには、もっと「合理的」な説明方法があった。それはデカルトのエーテルである。世界そしてこの宇宙には、エーテルという質量のない物体が満ち満ちているのだという。だから、例えば月と地球はエーテルによってつながっている。イメージとしては、「豆餅」を連想するといい。豆餅においては、豆の一粒一部は、餅によってつながっている。豆と豆がぶつからないのは、餅が間にあるからである。同じように、月と地球の間にはエーテルがある。

これを前提に考えると、いろいろなことが説明できる。例えば、潮の満ち引きである。満潮とはなにかというと、それは月がぐーっとエーテルを押すのだという。月がエーテルを押すと、海面は押された分だけ上昇する。それが満潮なのだという。干潮とはその逆である。エーテルにかかる月の圧力が減るのである。そうすると、海面が下がる。それが干潮なのだという。要するに、風呂に入るとき、お湯がざーっと溢れるし、風呂からあがると、体の分だけ湯面が下がるようなものである。数学に弱い私などが当時それを聞けば、なるほどと思ったろう。また、例えば糸の先に重りをつけてクルクルまわし、その後、力を抜いてみるとどうなるだろう。回転の幅は次第に小さくなり、最後には静止するだろう。これなども、エーテル説によれば、重りはエーテルの抵抗で速度を次第に弱めていくからだと合理的に説明できる。

ニュートンにおいては、月は基本的に地球に落下していると考える。落下するが、月は自転によって生じる遠心力で地球から離れようとするのだという。物体が持つ引力と、自転によって生じる遠心力が常にバランスを保っているので月は落下せずに地球のまわりをまわっているのだという。また、糸と重りの例でいうなら、糸の先の重りのクルクル回る運動が静止していくのは、引力によって垂直方向の力が常に働き、水平方向の力が加えられない限り運動は静止せざるを得なくなると説明する。しかし、困ったことに、引力という概念そのものが、あまりに神秘的なのである。

デカルトは、その空前絶後の理性をもってエーテルの存在を前提に物体の運動を観察し解明していった。困ったことに次々解明できてしまった。しかし、重力加速度はそのままでは説明できなかった。高いところから落とした物体は、なぜ地表にぶつかる直前に一番速くなるのか?そこでたくさんの補助線と補正作業が必要となった。人類最高の知性の一人であるデカルトである。もちろん、なんとかしてしまった。私には理解できないが、とにかく地表直前の物体の速度、その速度が速い理由を説明した。しかし、ここで人々ははたと考えた。なぜ、こんなに複雑なんだろうと。ニュートンのいうように宇宙が真空で、引力が常に働き続けるなら、まったく問題ないのではないか。複雑な補助線や補正は必要ないのではないか。さらに、よくよく考えてみると、エーテルというのは、引力にくらべてそれほど「科学的」な概念なのだろうかと気づいた。オカルティックといえば、これの方がオカルティックなのではないのだろうか、と。

ヴォルテールは、『哲学書簡』において、ニュートンの宇宙観とデカルトの宇宙観とに対する人々の見解の変化をいつもの皮肉な調子で描いている。「いまや、誰もニュートン氏の真空をオカルト・ファカルティとは考えない」と。そして、もっとオカルティックなデカルトのエーテルの流動を人々が合理的と考えていた事実を描き、人類の進歩を論証する。

これは、いわゆるパラダイム(T・クーンの『科学革命の構造』)の問題でもあろう。例えば、かつては天動説が科学的だったのである。卒然と見る限り、あきらかに天体は地球の周りを回っている。しかも、われわれの足元は安定している。地表はたしかに平らなのである。それを、地球が回っているなどとは、聖書の教え云々以前にそもそも変な考え方であるように見えた。しかも、天体の運行の多くの事例は天動説でも説明できるのである。しかし、次第にどうしてもそのままでは説明できない事例が出てくる。すると、次々と補助線の数が多くなる。計算はどんどん複雑になる。その複雑さが頂点に達したとき、「地球が回っているなら、話は簡単なのだが・・・」と気づくのである。ガリレオ以前に、カトリックの枢機卿ニコラス・クザーヌスが、「仮に地球が回っているのだとしたら、こういう風に計算ができる」といって天体の運行を説明したことがあった。このときは、地動説が宗教裁判上の問題になることはなかった。ちなみに、後に地動説を唱えたガリレオが宗教裁判にかけられ、教会に従わざるを得ないところに追い詰められ、しかしながら「それでも地球は回っている」と言ったという話があるが、私は、そもそもガリレオが宗教裁判にかけられた原因は、カトリック教会の無明な横暴というよりも、ガリレオその人の人格にどうやら問題があったのではないかと思っている。

話をもどすが、デカルトの事例を見る限り、「理性」には理性特有の限界があるのだということが分かる。理性とは知識を用い論理を展開する力であり、パラダイムを超える力は無いのであろう。パラダイムを転換しうるのは悟性なのではないか。宗教は、悟性を中心にすえる存在であるがゆえに、「科学的ではない」と言われるが、そもそも科学自体がパラダイムに拘束された存在であり、時代性と権威性の担い手になりうるのである。その科学にそれまでの科学を拘束していたパラダイムの転換をもたらしたのが、ニュートンのような宗教的な悟性の人なのである。

1 コメント

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悟性、理性は原語で解釈の必要 (タノウエ アキラ)
2011-01-26 10:21:19
最後のくだりを除いて非常にわかりやすく一気に読みました。
ただ、理性、悟性などの用語は、特に原語で受け取らないと西欧思想は理解できないと考えます。理性は、ドイツ語ではVernunft、悟性はVerstandで、漢字で表すと漢字の考え方になるわけです。
ドイツを旅行して哲学用語が日常語であること、ドイツ語の字面どおりに受け取れること、また受け取る必要があることに初めて気づきました。
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