研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

ジョージ・ワシントンの憂鬱(2)

2005-11-03 06:06:00 | Weblog
ワシントンは、「ハミルトン派フェデラリスト」たちからの三選出馬の要請を拒否して二期で引退することにした。理由はいろいろあった。個人的理由としては、大統領職に忙殺されている間に、自分のプランテーションの経営が危機的状態に陥っていたのが大きい。この時代の連邦政府の官職には、俸給がほとんど支払われていなかった。官職とは、生活に困らない名士が、共同体に対する責任感から引き受けるもので、「政治で生活をする」などというのは悪徳であった。まして、税金が嫌で独立戦争をした国である。税金を食う存在は、それ自体が悪だった。だから連邦政府の官職というのはあまり人気がなかった。とにかくいいことが一つもないのである。ほとんどタダ働き同様なのに、ひどく激務だ。しかもその挙句に非難ばかりされる。ちなみに、初代国務長官のジェファソンは、国務省のあまりの人員不足に困り果て、自らリクルート文書を書いている。「君も国務省で働こう」と題する文書は次のようなものだった。

連邦政府には、アメリカ屈指の名士がそろっている。その仕事はやりがいに満ち、国家の運命に関与できる栄光がある。偉大な人々と同席できることこそ、人生の幸福ではないか。そこには、俸給以上の価値があるのである。

安月給だが、立派なキャリアになるから、人生の一時期、こういうところで働くのもいいもんだよと言っている。それくらい、人気がなかった。高度経済成長期の日本の自衛隊の勧誘みたいである。

また、ワシントンは実によく新聞を読む人だったようだ。手に入るだけの新聞を集め、毎日熱心に読んでいた。ところが、第一期の後半ころから、新聞の中に自分への批判を目にするようになった。彼は激しく動揺した。考えてみれば、政治家が新聞で公に非難されるというのを最初に経験したのは、アメリカ建国の父たちだったのかもしれない。中世から脱したばかりの時代である。今の政治家ならばビクともしないだろうが、この時代の紳士には耐え難いほどの出来事だった。見ると、自分のことを「国王」のようだと非難している記事もある。愕然とした。自分こそ共和主義精神の体現者だったはずではないか。とにかく非常に傷つてしまった。

そして、それに耐える気力も肉体的理由で減退していたのは確かである。実はワシントンは、歯がなかった。彼は総入れ歯だったのである。ところが、この時代の入れ歯は出来が本当に悪かった。この時代、入れ歯は基本的に金物職人や金細工職人がつくっていた。鉄で出来た上顎用の部分と下顎用の部分を強力なバネでつなぎ合わせたもので、これをバネの部分で二つに折り、口の中に押し込み、顎の筋肉の力で口を閉じていた。だから、油断して口の力を抜くとスポンと飛び出してしまう。ワシントンの肖像画で、口元が強く引き締まり、顎の部分にエラが張っているような感じになっているのはそのためである。

ちなみに日本の場合も、江戸時代は歯医者というのは漢方医や蘭学医とは別のギルドで、医師というより職人集団に近かった。明治維新期に、ドイツから医学部の制度が入ってきたとき、自分たちのギルドの存続を心配した歯医者たちがどうやら抵抗したらしい。一方、医師たちも歯医者を見下していたのでこちらも歯医者と同じ屋根の下に入るつもりはなく、結局両者は医学部に統合されなかった。東大と京大には今でも歯学部はない。医師がまがりなりにも武士階級だったのに対して、歯医者は職人階級だったわけで、ここは心理的にも微妙な関係だったのである。歯医者と大学の歴史は地味に面白い。北海道大学と九州大学は、ともに辺境にある数少ない大学だったため、地域の要請から遅ればせながら歯学部が設置された。ただ、歯学部の初代教授陣は、医学部出身者と理学部出身者、そして地元の歯医者からリクルートされたため、なんとも雰囲気が悪かった。歯医者を見下す医者と、歯科技術を知らない生物学者と、学問を知らない歯医者が仲良くやれるはずも無い。教育技術が発達していなかったこともある。大阪大学は、後発帝大だったので最初から歯学部が存在していた。名古屋大学は、小規模だったことと、地域の私立大学にすでに歯学部が存在していたために、今でも歯学部は無い。余談になるが、受験生にとって医学部というのは最難関で、一番成績が優秀な者が受験する。で、歯学部受験者には、「医学部をあきらめた連中」というレッテルがベッタリ貼りつく。私が受験生のころも、医学部というのは途方も無い難しさで、そのため医学部を目指して受験勉強していたが、直前にあきらめて歯学部にしたという者は確かにたくさんいて、彼らは医学部以外のどの学部の合格者よりも優秀だったのに、何故か気の毒な心理状態のなかに置かれていたりした。こういうことは、けっこう学部の士気や雰囲気に後々まで影響したりする。

何の話だっけ?そう、ワシントンである。こうしたわけで、ワシントンは心身ともに疲れきり、二期で大統領を辞めてしまった。こうして、FDRの登場まで大統領は二期で辞めるのが慣例になった。彼が大統領職を去る際に提示した「告別の辞」では、党派争いを戒めるよう説得がなされている。彼は最後まで自分が、フェデラリスト党の一員だと考えていなかった。しかし、それ以上に、この中で彼が示した「中立政策」は、アメリカの外交国是となり、それはモンロー・ドクトリンに受け継がれ、さらにアメリカが強国となった際には、「単独主義外交」として展開した。

地元に戻ったワシントンは孤独だった。ヴァージニアは、ジェファソニアンの牙城になっていて、彼はヴァージニアの利益を無視しつづけていたのだから。それもあってか、彼はその後、西部開拓に家業として専念することになった。しかし、やはり彼は高潔だったと思われる。彼は、自分の息子をハーヴァードに進学させ牧師にした。この時代の南部のアリストクラットは、自分の息子をオックス・ブリッジかパリ大に進学させていたが、彼はあえて、アメリカのハーヴァード大という「辺境の大学」で学ばせ、アメリカンであることを貫き通した。

2 コメント

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現代風の話題 (pfaelzerwein)
2006-04-24 18:01:29
こんにちは。記事の中間をターゲットにリンクを貼らせて頂きました。



歯の健康と気力の充実は、現代風の話題ですね。
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そういえば (オッカム)
2006-08-18 17:24:38
フランクリンも、アダムズも、ジェファソンも歯が駄目でしたね。それもけっこう早い時期に駄目にしてるんですよね。だから若いうちはもちこたえても、年をとると非常に老けるんですね。



あと、この時代の北米世界は「雄弁」の時代じゃないんですよね。「文」の世界です。これは案外見落とされています。この時代に北米大陸で雄弁だったのは、牧師ですね。
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