研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

建国期アメリカのエリートについて(1)

2007-06-18 20:56:47 | Weblog
外交というのは、もともと貴族たちの間で行われるものであった。特にヨーロッパの場合、現在の国家の原型は封建時代の領土、すなわち貴族たちの資産だったわけで、それゆえ相互の財産保全の交渉、あるいはその財産の継承にまつわる紛争解決の歴史が外交の起源である。そしてヨーロッパ諸国の王族・貴族たちはたどりたどれば何らかの形で姻戚関係なわけで、そういう共通規範を前提にしているから「外交」というのが成り立っていた。

アメリカ合衆国が成立した際、当然ながらヨーロッパの諸王国は自分たちのカウンター・パートナーを探した。が、困ったことにそういうことにしっくりくる階級はこの新国家にはいなかった。候補に挙がったのは、ニュー・イングランドのジェントルマン階級と、南部のプランター階級だった。だがどちらもよくよく調べてみると、正式な職業は弁護士だったりする。南部のプランターたちも農場経営はしているが、要するに弁護士が多かった。同じ土地所有者でも貴族と弁護士ではまるで違う生き物である。

外交の舞台でもっとも駄目なのは「宣教師」と「法律家」なんだそうだが、北米大陸はそもそも宣教師と法律家ばかりがいた。アメリカには教区(parish)がない。それゆえアメリカのキリスト者は伝道をする。まず個々の人間が西部の空間に住み着き、あとから宣教師と弁護士が開拓民を追いかけていく。移動する彼らは充実したレファレンスのある書斎を持ち得ないので、必然的に原理だけが先鋭化されていく。高い定住性のある国民がもつ阿吽の呼吸は発達しなかった。逆説的なことに、流動性の高い社会ほど思考様式は原理主義的になるようである。

「アメリカは歴史の浅い国なので外交の常識がない」と多くの人々が漠然と思っている。常識のない連中が、たまたま強大な経済力と軍事力をもってしまったために世界が混乱していると考える人もいるだろう。しかし独立革命の際のアメリカは、見事なヨーロッパ・スタイルの同盟外交をやってのけていた。つまり彼らは無知なのではなかった。独立革命期の人々は、「外交」とはどんなものかは知っていたのである。私はそれがなぜ継承されなかったかを考える方が有益だと思う。

フェデラリスツには、二通りあったことはこれまで何度か述べた。通常われわれがフェデラリスツとしてイメージするのは、やや親英的で、ヨーロッパ政治に積極的にかかわることでアメリカの利益を保全増進しようとする傾向を持つアレクザンダー・ハミルトン的なそれであろう。国務長官ティモシー・ピッカーリング、国防長官ジェイムズ・マクヘンリー、駐英公使ルーファス・キングといった人々がこの分類に入る。

しかし彼らは建国期のアメリカ内部では決して支配的な勢力ではなかったし、政党としてのフェデラリスツ内部においてさえ多数派ではなかった。そしてあまり語られてこなかったことだが、ヨーロッパの宮廷においても、フェデラリスツのこの層は、カウンター・パートナーとは必ずしもみなされていなかったようである。というのは、彼らはアメリカ社会の中では、貴族階級に属していないからである。西インド諸島のネイヴィス島出身のハミルトンは極端な例だとしても、ベンジャミン・フランクリン型の底辺からのし上がったタイプが確かに多かった。

それに対して、ニュー・イングランドには、もっと定住性の高い比較的確立した姻戚関係を形成していた階層が存在していた。いざアメリカが独立国家となった場合、ヨーロッパの宮廷が自分たちに類する存在を探すと、必然的にこの階層に目を向けることになる。つまり今日のわれわれからみて、建国期アメリカでもっともヨーロッパ的な外交スタイルを知っていそうな層は、アメリカ内部では貴族階級から遠い層であった。

ところがヨーロッパの宮廷は、このニュー・イングランドの「貴族」を前に呆然とすることになる。英国国王の前に昂然とつっ立つ駐英公使ジョン・アダムズに国璽尚書は声を荒げた。「貴国には他国に対して信義はないのですか?」と。アダムズは応える。「私の信義は合衆国にしかありません」。無茶苦茶である。アダムズが手だれの外交官だという話は誰が作ったのだろうか。実際彼のキャッチ・フレーズは無作法外交であった。