研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

ヘンリー・アダムズの挫折(3)

2005-12-20 21:32:04 | Weblog
ヘンリー・アダムズは、『ヘンリー・アダムズの教育』という自伝を残している。その中で彼は自らを「彼」という三人称で表現し、その心の動き、アメリカ社会での自分と自分の家族たちの振舞いを描写している。こうすることで、彼は自分自身を客観視するとともに、こういう突き放した目線をもつことでアメリカ史における「アダムズ」を表現しようとした。しかし、この自伝にはそれ以上にこの時代のアメリカ社会における知識人たちの精神史が記されている。いつか訳してみたいものだ。売れないだろうけど。

ここで、ごくごく簡単にアメリカ政治史を振り返ってみる。政党としてのフェデラリスツは1812年戦争(対英戦争。別名「マディソン氏の戦争」)を期に解体し、第6代大統領ジョン・Q・アダムズ政権終了まではリパブリカンズ一党体制となる。これが「好感情の時代」であるが、もちろん好感情なわけもなく、 セクション間の利益の分裂の高まりとともにつかの間の均衡は崩れパブリカンズは割れる。J・Q・アダムズ派はナショナル・リパブリカンズに、アンドリュー・ジャクソン派は民主党になる。ナショナル・リパブリカンズは、もちろん旧フェデラリスツの系統にある人々で、彼らはまもなくホィッグと名乗る。ホイッグからは、W・H・ハリソン(第9代)、J・タイラー(第10代・副大統領より昇格)、Z・テイラー(第12代)、M・フィルモア(第13代・副大統領より昇格)が大統領になっている。ただし、民主党に基盤を置く南部が強固な一体性を保っていたのに対して、北部の諸党派は分裂していた。そこで、ホィッグ、自由土地党、Abolitionists(奴隷制即時廃止論者)、民主党の反奴隷制派等々が大同団結して共和党が結成される。非常に雑多な大同団結であるが、とにかくこうして今日の「共和党」・「民主党」が出来上がった。

ヘンリーら兄弟は、州議事堂のそばにあるビーコン・ヒルで育った。そこは、建国以来の名家の人々が住む地域で、そこに住む人々は、「バラモン」と呼ばれていた。当然、グラマー・スクールで学び、ハーバードを卒業している。ヘンリーは幼いころ、父のチャールズに連れられてホワイトハウスを訪れている。そこにいたのは、第12代大統領Z・テイラーであった。『ヘンリー・アダムズの教育』によれば、「彼は、大統領に対してなんの畏怖も感じなかった」とある。つまり目の前にいる人物は、アメリカの12番目の大統領だが、大統領の6分の1はアダムズ家から出ているのである。しかもそのうちの一人は「建国者」である。ヘンリーは、漠然と自分もいずれこの家(ホワイトハウス)に住むことになるのだと考えていた。そういう教育を毎日受けているのだから。アダムズ家で働いていたアイルランド出身の庭師でさえ、「坊ちゃまも、大旦那様のように大統領におなりになるのですね」と宝石をみるように眺めていた。ヘンリーに鬱屈はなかった。ジョン・アダムズ、ジョン・Q・アダムズのように勉強した。それはどこまでも孤独で厳しい生活ではあったが、身に圧し掛かる責任感に彼はよく耐え続けた。

アダムズ家はもちろん共和党に属することになり、大統領リンカーンの駐英大使としてチャールズ・フランシス・アダムズが任命される。彼の仕事は、内戦(南北戦争)に英国およびヨーロッパ諸国が介入するのを阻止することである。もちろん、南部連合からも大使が派遣されており、彼らは逆にイギリスに参戦を求めている。チャールズの仕事は我々が考えるよりはるかに難しかった。まず南部は綿花の供給基地である。イギリスの紡績業は南部からの綿花の輸入で成り立っている。それゆえ、南部はイギリスの紡績工場で働く労働者たちの雇用も支えていた。また北部は工業地帯であったが、それ自体がイギリスの工業製品に高関税をかけている根本原因であって、内戦の結果北部が破れることは、イギリスの製造業にとっても悪い話ではないのである。

じゃあイギリスは文句なく南部支持かというと、話はそう単純ではない。ネックは「奴隷制」である。19世紀も後半にさしかかり、奴隷制はいかにもまずかった。イギリス国内にも反奴隷制を主張する団体はたくさんあり、当のイギリスの大衆も奴隷制を擁する南部に荷担するのを嫌がる空気があった。ところが、ここにもリンカーン政権の難しい立場があった。北部が奴隷制即時廃止主義なら外からは分かりやすい。「人間の自由を求める勢力」VS「奴隷主の勢力」なら簡単である。しかし、リンカーンはなかなか「奴隷制廃止」を口にしないのである。彼はいつまで待っても「ユニオンの維持」しか言わない。これが非常に外国には分かりづらかった。「ユニオン」・・・。これは外国人には分からない、アメリカの責任ある政治家にとって最大の問題であった。

アダムズ家は、初代ジョン以来の奴隷制反対論である。ただし、即時廃止論ではない。即時廃止論が単純に無知による主張であることがよく分かっていた。考えてみて欲しい。これは生存形態の問題であり、それゆえ文化の問題であり、さらにはアメリカの経済構造の問題であった。ここをラディカルに解決しようとすると、待っているのは、内戦どころか「宗教戦争」である。間違いなくそれは南部文化の全面否定なのだから、南部がどれほど傷つくか、その傷がアメリカ全体をどれほど長く苦しめつづけるか。それゆえ、初代ジョン以来、奴隷制反対をまったく隠さず、なおかつこの問題へのラディカルな解決は行わず、漸次自然消滅の方向にもっていくというのが彼らのスタンスで、リンカーンもこのラインに立っていた。そして「ユニオンの維持」こそが最小限の傷で奴隷制を消し込んでいく可能性の基礎であった。しかし、これが外国には分かりづらい。「北部も基本的には黒人奴隷を容認しているのではないか?」ということになるわけで、こうなると北部へのシンパシーはなんとも弱くなるのである。

駐英大使チャールズがロンドンを中心にこうした問題に対処している最中、ヘンリーの二人の兄、J・Q・アダムズ二世とチャールズ二世は南北戦争に従軍している。特にチャールズ二世は、黒人部隊の指揮官として准将にまで昇格している。武勲が認められ司令部付を命じられたが、黒人部隊から離れるのを嫌がりこれを断っているあたりは美談であろうか。こうして家族ぐるみで取り組んだ南北戦争が終結したときアダムズ兄弟は、まったく新しいアメリカに出会うことになる。南部再建から金ピカ時代のアメリカである。まずは、二人の兄の南北戦争後を見てみよう。

長男のJ・Q・アダムズ二世は、資本家「泥棒貴族」と結んだ共和党の独裁による政治腐敗と共和党急進派の南部制裁に強い危機感を感じ、あえて民主党に転じた。フェデラリスツ→ホイッグ→共和党というアダムズ家の基盤を捨てて、民主党員として政治生活を始める。その政治生活は濁流を手の平で押しとどめようとするようなものであった。成果はどうかといえば、アダムズ直系では珍しく『アメリカ人名事典』に載らなかったといえば分かるだろう。ただし、本人はそれほど不幸感は持っていなかったようである。アダムズ家では珍しく、書物を一切書かなかった彼の心の底は分からないが、晩年はアダムズ家の基盤であるクインジーの人々からは尊敬され、これまたアダムズ家では珍しく非常に親しまれた。当時深刻な赤字財政を続けていたクインジーの町政を引き受け8年でこれを片付けたりしている。また効率的な行政を行い税金を1%にまで下げて感謝されたりしている。党によって利益を得なかったこと、主義を最後まで変えなかった結果クインジーで朽ち果てたことに深く満足し、62歳で死んだ。

次男のチャールズ二世が南北戦争から最も強い印象を受けたのは鉄道だった。北軍が勝利できた要因は、鉄道に代表される「何か」であると感じた。と同時に、こと鉄道に関するかぎり、それが完全に私企業間の自由競争にさらされた場合、それが民衆を支配する巨大な権力になり得ることを見抜き、連邦の公共サービスとしての鉄道網の形成と鉄道規制の必要を感じた。南北戦争後の歴史は描きようによっては鉄道建設の歴史とも言えるわけだが、チャールズ二世は戦後、鉄道委員として鉄道規制のモデルを作った。また兄と同様にクインジーのタウン・ミーティングの議長を務めた。ただし、兄と異なり非常にとっつきにくい気難しい人物だったらしく親しまれはしなかった。また地方史家としてはその筋では有名であり、彼の『マサチューセッツ史における三つのエピソード』は地方史の最高傑作というのがアメリカ史学会では通説である。

ヘンリーの二人の兄に対する評価は、「彼らは、どういう偶然だろうか、アダムズ家では珍しく善き市民であった」というものである。ヘンリーによれば、彼らにもアダムズ家の教育の傷跡は濃厚に残っていたのだが、幸運な偶然が重なり、穏健な人生を送れたというのである。二人の兄の心の底は分からない。不偏不党と優秀な頭脳は確かに「アダムズ」であるが、確実に彼らが通用しない時代になりつつあった。それは何だろうか。ここで我々は、第四世代最高の逸材ヘンリーを検討しなければならないことになる。