研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

アリストクラシーとセンシビリティ

2007-11-24 01:06:04 | Weblog
アレクシス・ド・トクヴィルが生きていた時代のフランスは、復古王制期のフランスだった。それはスタンダールの『赤と黒』で描かれる、新旧が交わることなく同じ空間に並存する不思議な時代であり、名門貴族の家に生まれた彼が、まさにあの時代に「デモクラシー」を歴史の原動力と喝破したことは、やはり凄いとしか言いようがない。リパブリカニズムではない。デモクラシーを論じたのである。あの時代に。もちろん彼の親族は完全な王党派である。そんな親族に彼は、「デモクラシーは必然なのですよ」と説得する。

トクヴィルが訪れたアメリカは、ジャクソニアン・デモクラシー期のアメリカだった。彼は、デモクラティックな制度を支える「心の習慣」に着目したわけだが、その際に彼が気づいたのは、デモクラティックな社会と、アリストクラティックな社会の「センシビリティ」の違いだった。彼によれば、デモクラティックな社会は、他者に対する想像力が広いのだという。痛みを感じる範囲が広いのだという。確かに彼の周囲にも、優しい人々はいくらでもいた。細やかな感性、深い情愛を示す貴婦人はすぐに何人も思いつく。しかしその同じ彼ら彼女らは、下層の人々が残虐に処刑されるのを見ても、眉一つ動かさなかった。

アリストクラシーの社会においては、不平等は問題にならない。自由とは、親族より受け継いだ特権のことであり、特権を持たない人々とは「運命が違う」のだ。運命論と決定論こそがアリストクラシーの要諦である。運命が決定的に違っていれば、他者へのセンシビリティは限定的なものになる。そういうわけで、Societyは実質的に存在しないのである。社会がなければ、もちろん福祉などもあり得ない。思えば「社会」とは市民革命以降の時代に出来た言葉であり、アメリカにおいてさえ、個人の書簡の中にSocial, Societyといった言葉で出てくるのは、1760年代からである。それはかなり特殊な言葉だった。

そういう背景があって、フランスの革命家たちは、個人の運命を規定する中間団体を破壊することにした。「ル・シャプリエ法(1791年)」は、アンシャン・レジームへの憎しみと同じ哲学に属している。モンテスキューは、中間勢力としての貴族を自由の防壁としていたが、革命家たちには、この中間的存在が個人の自由を妨げてきたと考えた。こうして諸個人は、裸で「社会」に放り出された。

デモクラシーの理論家トクヴィルが、現在もいつも引用される理由は、彼が「中間団体」の重要性を主張しているからである。アメリカを訪れた彼は、帰国するとアメリカには自発結社がたくさんありますよと強調した。これは中間団体の禁止に反対する彼の長年の主張を正当化するために利用した側面があるのでそのままには受け取れないが、要するにフランスが共和政と王政の間を行きつ戻りつする原因は、裸の個人を包み込む社会的紐帯がないために、結局はデスポティズムに対して脆弱になってしまうのだということだろう。こうして、彼において中間団体という言葉が、アリストクラシーから分離していく。アンシャン・レジームの匂いが消えて、現在では、再アリストクラシー化を防ぐための処方箋として、中間団体、さらには「ギルド」の再構築すら安心して求めることができるようになった。我々の世界は、そこまで切迫しているのだろうか。トクヴィルも迷惑だろう。

ところでトクヴィルは、死後しばらくの間フランスでは忘れ去られていた。トクヴィルは、1805年に生まれて、1859年に死んでいる。カール・マルクスは、1818年に生まれて、1883年に死んでいるから彼らの生きた時代はかなりかぶっている。マルクスが階級を説いた時代に、トクヴィルは諸階級の平等化を説いていたわけで、まして「ブルジョア革命」に過ぎないフランス革命すら意味のないことだったように描くトクヴィルは完全に居場所がなかったのだろう。階級と革命に触れない彼は、知識人の議論においてはイレリバントもいいところだった。こうしてトクヴィルは、主に英語世界で生き残ることになった。

現在の我々は、革命とデモクラシーは別問題だということを知っている。やはりトクヴィルは偉かった。ただ、どうしてもアリストクラシーが克服できないでいる。デモクラシーにおける不平等は、アリストクラシーにおける不平等とは次元が違う。人間世界はもともと不平等なわけだが、デモクラシーにおいては、不平等である場合は、その不平等を正当化する説明が求められる。より良い、より有利な立場にある人は自己を弁明しなければならない。思えば、この緊張感がデモクラシーにおけるモラルだったのだ。このモラルが確実に減少しているように思われるのだがどんなもんだろう。モラルを偽善とし、平等へのセンシビリティを嫉妬と片付け続けた結果、慎みのある社会が出来たわけではなく、単純にアリストクラシーへの抑制が弱くなったようにも思われる。

ちなみに、他国に比べればマシという論者には用心するべきだ。警戒は、マシなうちにしなければ意味がないのだから。考えてみれば分かるのだが、階級が分かれる社会に、セーフティ・ネットなど期待できるはずがない。セーフティ・ネットに対する感性が欠如しているから、階級ができるのだ。貴婦人は冷たいという基本は忘れない方が良い。だからこの辺は、パラノイア的に用心するべきだ。紀元前以来、「市民であること」とはそういうことだ。ただ、これが本当にパラノイアになると、「プロ」になってしまうので、それはそれで気をつけたほうがいい。基準は、マルクスが妙に偉く見えるかどうかじゃないだろうか。

好感情の時代

2007-11-07 20:09:58 | Weblog
アメリカはなぜ二大政党制なのだろうか。もちろんこれに回答するには、アメリカの選挙制度はなぜ「勝者総取り」なのを考えた方が良い。選挙制度のほとんどが、勝者総取りならば、二大政党にならざるを得ないのだから。ではなぜ勝者総取りになったのか。

リチャード・ホーフスタッターは、The Idea of a Party System: The Rise of Legitimate Opposition in the United States, 1780-1840 (Berkeley: University of California Press, 1969)という本の中で、次のように言っている。

<partyというのは、アメリカ革命以前の世界では、政治的には腐敗したものであると認識されていた。・・・それは文字通り部分利益を意味していたのであり、公共善とは相容れない現象であると考えられていた。そしてこうしたparty理解は、ずっと後まで続くのである。>

つまり古典的共和主義の理解では、partyとは、「政党」ではなく「党派」とみなされるもので、それは公共善という観点からみて「悪徳」だったわけである。今日、民主的制度の要とみなされている政党政治だが、そもそもdemocracyというのが、「悪い」政治体制を意味していたわけで、その悪い体制の要であるpartyは、もちろん悪い習慣なわけである。だから、建国期の人々は、公式的には自らの党派性を否定し、敵対者をけなす場合に、「彼は党派的である」と言って非難した。

公式的にpartyを否定する以上、比例代表はあり得ない。単純多数が、住民の意思とみなされる。またその単純多数の意見に、仮に自分が反対であっても服するのが政治的徳の要件でもあった。公式的に政党は存在しないことになっていたがゆえに、選挙制度は勝者総取りになる。小選挙区制のアメリカにおける思想的起源は、政党の否定にあった。ただし州レベル以下の小さな単位では、これが多数者の専制につながりやすいので、もう一つ別の抑制手段があったほうが良いというのが、『ザ・フェデラリスト』におけるジェイムズ・マディソンの連邦制擁護論となった。

こうして建国期アメリカには、フェデラリスツとリパブリカンズという革命原理についての解釈の違いに基づく二つの政党ができるわけだが、原理的対立はそれ自体が極めて危険なものである。「意見や手法が違うだけで、原理は共有している」ならば問題はないが、原理で対立するなら、それは内戦につながる対立となる。特に建国期アメリカの場合、この原理の対立の実態は、奴隷制をめぐる地域間対立に立脚しており、常にデリケートな状態であった。

ここでやや興味深い現象が起こる。話を単純化するために、象徴的な人物の後を追うのが良いだろう。1803年、フェデラリスツから連邦上院議員に選出されたジョン・クインジー・アダムズは、1808年に上院議員を辞職し、リパブリカンズに入党する。翌年の1809年から彼は駐ロシア公使となる(1814年まで)。第四代大統領ジェイムズ・マディソンの1812年、アメリカ合衆国はイギリスと開戦した。「マディソン氏の戦争」といわれたこの米英戦争は、当初アメリカ国内で非常に評判が悪く、また終始アメリカは劣勢であった。ところが、ホワイトハウスにイギリスの砲弾が打ち込まれたことで、アメリカ諸州の人々の間に、にわかにナショナリズムが高揚した。フェデラリスツは事実上解党状態になり、1814年ころに政党としては消滅し、構成メンバーはすべてリパブリカンズに吸収された。駐ロ公使J・Q・アダムズは、1814年の米英戦争終結を決めたガン条約(Treaty of Ghent)の交渉団に加わり、そこから駐英公使を務め、1817年より第五代大統領ジェイムズ・モンロー政権の国務長官となり、「モンロー・ドクトリン」を起草する。また彼はフロリダ買収を行い、ラテン・アメリカ諸国の独立支援を行う。

この時代をアメリカ政治史では、「好感情の時代」という。これは形式的には政党対立のない時代ということからこのように呼ばれていた。もちろん旧フェデラリスツの系譜の人々がいなくなったわけではない。それは巨大な連立政権なわけで、内部での対立は依然として大きかったが、あとから眺めるなら、これが「党派対立」が「政党対立」に変容する熟成期間だったのだろうと思われる。この巨大なリパブリカンズ一党体制のもとで、ロイヤル・オポジッションを可能とする、なんらかのコンセンサスが形成されたのであろう。

第六代大統領に選出されたJ・Q・アダムズだが、その政権期に巨大なリパブリカンズは、アダムズ派のナショナル・リパブリカンズと、アンドリュー・ジャクソン派の民主党に分裂する。もちろん前者はフェデラリスツの流れであり、後者はジェファソン以来のリパブリカンズの流れなわけだが、彼らの父親たちの世代のようにpartyを恥じることはなかった。アメリカという単位が、父親たちの世代よりは、だいぶ強固だったので、安心して喧嘩ができたのだろう。ナショナル・リパブリカンズは、その後、ホィッグと名前を代え、西部の諸党派、反奴隷制諸団体などと大同団結し、共和党となる。ちなみにトクヴィルがやってきたアメリカは、ジャクソニアン・デモクラシー期のアメリカで、彼の友人たちはホィッグ系統の人々だったので、多数者の専制という概念は彼らの影響が強かった。そのため、彼の『アメリカのデモクラシー』は、出版当初はアメリカのデモクラシー批判として、あまり人気はなかった。

ただし、アメリカにはその後、内戦がまっているわけで、以上のことは単純に過ぎるかもしれない。しかし、二大政党制形成の熟成期としての好感情の時代というのは、それなりに意義のある視点だと思われる。