研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

中央政府にとっての辺境の意味(2・完)

2005-09-29 05:32:15 | Weblog
入植以来、東岸諸州はどのように形成されたかというと、要は西部への自由な人々の移住・開拓・定住を最寄りの邦政府が追認していく形で形成されていった。各邦は、それぞれ別個に西部への膨張をしていく中で、独立戦争を迎えたのである。この西部への各邦の膨張を連邦政府がストップしたのである。現段階での各州の領域より西側にある広大な土地の所有権を連邦政府が握ったのである。そしてまず、1785年に「公有地条例(The Land Ordinance)」を制定し、科学的に測量して、西部の地勢を連邦政府が正確に把握した上で、それを非常に安価に西部移住希望の諸個人に売却した。土地にたいする移住者の焼けつくような欲望を連邦政府が救い上げ、各州政府を黙らせた。その上で、1787年に「北西部条例(The Northwest Ordinance)」を制定し、西部テリトリーにおける州の創設手段を定めた。

州は次のような手順でつくられる。
第一段階
西部のある地域の人口があるていど以上になると、連邦政府(1785年段階では大陸会議)が、知事・長官・判事を任命し、准州の暫定政府を創設する。
第二段階
その地域の男子自由民が5000人に達したとき、准州は議員を選出して議会を組織し、連邦政府が行政委員会を選定するための候補者名簿を作成する。ただし、連邦政府はなお准州の立法に拒否権を行使でき、知事の任命も行う。
第三段階
自由人人口が6万人を超えると、准州は州への昇格を申請することができる。
(州に昇格すると、もちろんその人口に応じて連邦下院に議席を与えられ、他州と同様に上院に2名の議席を与えられる)

こうして、西部の土地にまつわるすべての問題が連邦政府との関係で進行していくことになった。土地を欲する人々は連邦政府と親しくなっていく。そして既存の13州とは別の、新たな州の誕生過程を連邦政府が握った。独立以前の自治の経験を持たない新たに誕生した西部の州が、次々に創設され、次々に連邦に参入してくる。これによって、既存の13州のプレゼンスは、相対的に低下していく。反対に連邦政府のプレゼンスが上昇していく。既存の13州としても、自分たちの権益を守るためには、積極的に連邦政府での活動にかかわっていかなければならなくなる。

西部とは、アメリカ連邦体制の歴史を考える場合、既存の諸州にとっては時限爆弾のような効果があったのである。今からみれば当然かもしれなくても、あの時点ではことの重大性を理解していた人々は多くはなかった。(ハミルトンははっきりと意図していた)。その後の歴史で新たに37州が誕生し、連邦に加わるのである。まさに時間の経過とともに、中央政府(連邦政府)のプレゼンスが大きくなる仕組みであった。

「遠くに領域を持つほど、中央政府の権限は増大する。」

歴史をみれば明らかなことが、案外意識されていない。しかし、これは古典古代以来の真理であった。しかも、重要なのはシステムを握ればいいので金もかからない。当時の連邦政府の国務省の人員は11名程度だった。大陸軍は解散していたので連邦陸軍もなかった。物理的にも「小さな政府」だった。しかし、小さな政府の権限が弱いとはまったくいえないのである。要は法とシステムを握れば金と人員がなくても支配できるのである。

アレクザンダー・ハミルトンは、連邦政府という新たなポリティカル・エンティティを創設する際の邪魔者は、実は独立戦争に貢献した既存の13州であることをはっきりと意識していた。一つの政治体の創設における貢献者が、実はその政治体の運営における最大の不安要因であるということは、これまた歴史ではよく見られる事実である。アメリカ革命の第一の貢献者はヴァージニアを盟主とする南部諸州である。それでもヴァージニアは、ワシントン、ジェファソン、マディソンといった人々が連邦の首座にいたために自制が可能であったが、彼ら亡き後には、とうとう連邦離脱に踏み切るのである。南北戦争である。この南北戦争が、いわばアメリカ革命の最後の戦いとなったといえる。南部連合を倒し、連邦の統合を維持したのが、西部出身のリンカーンだったのは、これまた象徴的である。明治維新や、EU統合およびその東方拡大について考えるとき、つい当てはめてみたくなる誘惑を抑えるのに非常に苦労するような事例ではないだろうか。

通常、領域の拡張と、新参者の参入は、ポリティカル・エンティティの一体性を破壊するものだと考えられる。しかし、実際には、都市国家などの小さな単位の政府ほど効率が悪く、外敵の進入を受けやすかったのである。中世イタリアの諸都市国家がそうであろう。常に政府は鈍重で、外国勢力が簡単に内政に影響を与えた。

ただし、この領域拡張にはおのずから限界がある。すなわち、「同じネイションとして飲み込める」範囲を超えると、専制的帝国になるのである。「同じネイションとして飲み込める」範囲内であれば、民主制は維持されうる。いわば、共和制ローマと帝政ローマの境目が存在するのだろう。

いずれにせよ、辺境とは国家にとっての単純な足枷ではない。それどころか、辺境あっての国家であるとさえいえる。辺境なき都市国家はすべて滅びた。今日、都市国家の有力国などどこにも存在していない。それゆえ、今日、単純な行政統計をもとに地方切捨てを主張する人々は、国家についての緊張感が足りないのではないかと思うのである。

中央政府にとっての辺境の意味(1)

2005-09-29 05:31:15 | Weblog
1783年、パリ講和条約の正式調印によって、独立戦争は終結した。イギリス帝国という巨大な敵をどうにか破ったアメリカ諸邦連合は今度は自分たちの未来像をめぐる問題に取り組まなければならなくなった。「さて、この連合をどうするか」という問題である。

「さらに強化し、ナショナル・ガヴァメントをつくるべきだ」と考えたのがフェデラリスト。「戦争が終わった以上、本来の状態、すなわち各邦の独立自治に戻るべきだ」と考えたのがアンティ・フェデラリスト。「ナショナル・ガヴァメントは必要だが、主体はあくまでも州であるべきだ」と考えたのがジェファソンで、彼と考えを同じくする人々と、その傘下に入ったアンティ・フェデラリスツにより形成されたのがリパブリカンズである。

要するに、アメリカ革命を戦った東部13州の統合は、この時点ではなんら自明ではなかった。自分たちを統合する中央政府など、そもそも入植以来160年間にもったことなどない。伝統や経験にないというのは、元イギリス人たちにとっては重要であった。しかし、それ以上に問題なのは、3000マイル彼方の君主をようやく追い出したと思ったら、今度はもっと近くに、再びウエストミンスターを構成しようなどというのは、革命の理念に反するではないかと考える人たちも多かった。「ジョージ3世を倒したと思ったら、ジョージ1世が即位するのか?」と反対者たちはいったものである。言うまでもなく、ここでいうジョージ1世とは、ジョージ・ワシントンのことである。この時期、ワシントンをアメリカ国王にしようという考えは普通に検討されていた。

このように、議論は錯綜していたが、結局連邦形成派に最有力な人々が結集していたため、とにもかくにも連邦憲法はつくられ、各邦の批准会議をからくも通過し、1789年ジョージ・ワシントンを満場一致で大統領に選び、第一次合衆国議会は開かれた。後にリパブリカンズの領袖になるジェファソンは、初代国務長官になる直前まで駐仏公使としてヨーロッパにいたため、この時点での彼の視点は地域主義よりは「アメリカ」という単位に重点があった。また、マディソンも『ザ・フェデラリスト』の主筆者として、連邦形成の理論的主柱として、連邦下院の第一人者の立場にあった。ジョン・アダムズは、初代副大統領として、連邦上院の首座にあった。ハミルトンは、初代財務長官として、中央政府の財政政策を矢継ぎ早につくっていった。連邦政府は、「建国の父たち」の個人的な力量によって不安定な基盤の上に力ずくで打ち立てられた。

つまり、制度としては明らかに不安定であり、いつ崩壊してもおかしくなかった。まさに雄藩連合を統合することは非常に困難だったのである。イギリスから独立することは、連合の目的だったが、独立後の統合など、最初の契約になかったのだから当然である。

この状況を打開した歴史的契機の一つが、「西部の辺境」であった。パリ講和条約によって、イギリスはアレゲニー山脈以西の広大な土地を放棄したが、そのさしあたっての管理者は連邦政府(講和条約の時点ではまだ大陸会議)であった。そして連邦政府にいた建国者たちは、この西部の土地の処分権を独占することにしたのである。すなわち、既存の各州に西部への領土拡張を放棄させた。

パクス・アングロ・アメリカーナの始まり(2・完)

2005-09-22 03:36:43 | Weblog
1782年11月30日、イギリスとアメリカは、他の関係諸国を置き去りにして、単独講和仮条約を結んでしまった。イギリスは、アメリカの統治権は失ったが、カナダ領有権を強固にし、全員が英語を話す貿易相手国を手に入れた。アメリカ史におけるカナダというのは、それ自体が無限の研究対象であるが、この文脈において重要なのは、カナダという領域に住む構成者の問題であろう。

ジョン・アダムズによれば、アメリカ革命の際、アメリカ諸邦の人口は約300万人であったが、その内訳は「3分の1が忠誠派(イギリス派)、3分の1が愛国派(独立派)、3分の1が無関心であった」という。だから、アメリカの独立達成により、約100万人が合衆国を離れることになったが、どこにいったかというと、カナダなのである。もともとカナダは、フランスの毛皮貿易の拠点だったので、人口の多くはフランス語を話す人々によって構成されていた。フレンチ・アンド・インディアン戦争で、イギリスがフランスに勝利したため、カナダはイギリス連邦帝国に編入されてはいたが、そこは事実上フランス人の世界であった。これが、劇的に変化した。アメリカ革命で敗れた忠誠派のカナダ移住によって、カナダは、忠誠派イギリス人の世界になった。つまり、イギリスとしては、アメリカは失ったとしても、そのかわりにカナダを手に入れたようなものだったのである。

また、イギリスにとっては、アメリカ合衆国という魅力的な市場が再び開かれた意味も大きい。実は、当初からアメリカの独立を、「遺憾ではあるが仕方ない」と考えていたイギリス人はけっこういた。しかも、「人物」が凄い。まずは、エドマンド・バーク。彼は、1765年の印紙税法以来、イギリスの北米統治政策に反対しつづけていた。バークの主張は、これまでどおり、「有益なる怠慢」を維持せよということであった。北米諸邦の連中は、本来イギリス帝国の臣民であることに満足していたのだからと。だから、いよいよこじれぬいて戦争が不可避となったときは、バークは戦争そのものに反対し即時アメリカの独立を認めよと主張した。そうすれば、極めて友好的な同盟国ができるからと。また、アダム・スミスもそうだった。アダム・スミスは、もともと北米植民地の統治などイギリス政府は関心がなかったが、北米植民地との貿易は常にイギリスに利益をもたらしてきたと考えていた。だから、今まで関心をもっていなかった統治権などにこだわり、大事な収入源を損なうなど馬鹿げていると主張した。また、デイヴィッド・ヒュームもそうだった。スコットランド出身の彼は、スコットランドが1707年の合同法によりイングランドとともに一つの国王・一つの議会をもつブリテン連合王国となった時代と現在とではあまりに状況が違いすぎると考えた。当時は、スコットランドは貴族院に16名、庶民院に45名の議席が与えられた。それでも、ジャコバイトの反乱が起こるほど統合は大変だった。さらに、イギリスはすでに「同君連合」の統治形式の国ではなくなっている。すでに、近代的主権国家に成長しつつあったのである。3000マイルのかなたにあるアメリカに大量の代表者に議席を与え、中世的な同君連合を形成することは現実的に不可能であった。だから、アメリカがウエストミンスターに服さないのであれば、独立させるより他ないと考えた。ヒュームもまた、アメリカが独立したところで、イギリスとの関係は基本的に変わらないと考えていた。要するに、ことイギリスと北米植民地に関する限り、もともと本格的な統治など存在していなかったのが自然だったのであり、統治権にこだわること自体が慣習的ではなかったのである。「主権(sovereignty)」という言葉は、もともと英語にはなじみの薄い言葉だった。特に実害のない相手に対して、にわかに主権を意識するのも妙な話だと思われたのである。保守主義の神様と、経済学の神様と、経験論の神様が、「アメリカは独立でけっこう」と言っているのだから、たぶん独立するのが正しかったのだろう。事実、講和以降、イギリスの対米貿易利益は順調に回復し、アメリカ北東部の製造業は打撃を受けることになった。

明瞭な文書は残っていないが、講和交渉者の陣容と、講和交渉の経過を見る限り、フランクリンとグレンヴィルの間にはある種の裏取引があったのだろう。すなわち、イギリスはアメリカに寛大な条件で交渉するのと引き換えに、アメリカはフランスを切ったのである。フランス人に大人気なフランクリン博士にバッサリやられたフランスも気の毒ではある。いずれにせよ、イギリスは、巨大な植民地を形式的には失ったが、世界一手ごわい「アングロ・サクソンの国」であるアメリカ合衆国との対立から解放され、心行くまま自由に、世界をその手に入れていく。アングロ・サクソンの世界支配が始まろうとしていた。

パクス・アングロ・アメリカーナの始まり(1)

2005-09-21 20:15:52 | Weblog
いうまでもなく、アメリカはもともとイギリス連邦帝国の植民地であった。入植活動が軌道に乗ってから独立するまでの約160年間、この「北米諸植民地」は、基本的にイギリスの庇護のもと外交そのものを「免除」されていた。彼らの対外活動は、イギリスの航海法の規制の下での貿易と、イギリスの植民地に対する「有益なる怠慢」の下で行われた密貿易であった。しかるに、1765年印紙税法以降、この平穏な日々は終わりを告げ、反英抗争が始まり、1776年の独立宣言から1782年パリ講和条約調印までの間、「革命外交」が展開される。

「革命外交」とは、北米諸邦の人々が、自らを反逆者の立場から救うためになされたものであり、ベンジャミン・フランクリンがこれを担当した。彼らのイギリス本国との戦いは、法的には戦争ではなく内乱であった。イギリス臣民である彼らの一方的な独立の宣言は、法的には「反逆罪」である。敗北すれば待っているのは絞首刑である。それゆえ、彼らが反逆者という不名誉な立場から逃れるためには、その独立を他国から承認してもらい、その証しとして、他国との同盟関係を結ぶ必要があった。こうして、ジョージ・ワシントンの大陸軍がアメリカ大陸を8年にわたり転戦している最中、フランクリンはフランス、スペイン、オランダ、ドイツ諸邦、イタリア諸邦、ロシア、デンマーク、スウェーデンなどヨーロッパ大陸において縦横無尽の外交活動を展開し、アメリカ大陸内で展開されているイギリス帝国の内戦をあれよあれよという間に国際戦争にしてしまった。

ジョージ・ワシントンの大陸軍は、イギリス軍に対し、当初は連戦連敗であったが、次第に拮抗する勝負をし始めるようになっていた。特に、アメリカ在住者で構成される忠誠派軍(イギリス側)は確実に撃破されていった。こうした中でフランス、スペイン、オランダは正式に同盟を結んで参戦しはじめ、さらにロシア、デンマーク、スウェーデンまでが、イギリスへの攻撃を開始せんとしていた。まるでフランクリンがヨーロッパから次々と刺客を送り込んでいるようであった。そしてついにヨークタウンの戦いの辺りでは、イギリスはフランスに大西洋の制海権を奪われ、北米大陸で転戦するコーンウオリス将軍への補給も途絶えた。1781年、ヨークタウンの戦いでコーンウオリス軍はとうとう惨敗を喫し、イギリスは完全に追い詰められた。ここにいたって、イギリス政府は講和に傾く。より正確には、主戦論派が政権を退き、フォックスやエドマンド・バークらの講和派が主導権を握ったのである。気味悪いことに、彼らはみなフランクリンの親しい友人であった。

しかし、強国にとって「追い詰められての講和」というのは、実は難しい。自尊心を抑えて、植民地と講和することを国民に受け入れさせるには、有利な条件が必要であった。つまり、アメリカとの戦いを止め、アメリカの独立を認めるためには、この戦争でもうひと頑張りしなければならなかった。そして、実際にそれに成功した。ヨークタウンでは惨敗したが、イギリス軍は依然として、ニューヨーク、サヴァナ、チャールストンを支配していた。一方大西洋においては、イギリス海軍は反撃を開始し、スペイン海軍のジブラルタル海峡封鎖を解除せしめ、さらにインド洋でも勝利し、セインツの海戦でハウ提督は、フランスのド・グラス艦隊を壊滅させ、とうとう西インド諸島の制海権を完全に回復したのである。まさに、ヘロヘロになりながらも、名誉ある講和交渉を開始する環境をイギリスは自力でつくった。このあたりはさすがと言わねばなるまい。

こうして1782年、フランクリンの提案により、パリに関係諸国があつまり講和交渉が開始した。・・・関係諸国・・・同盟国フランス・・・・。なんということであろうか!交渉は、アメリカとイギリスとの間でとんとん拍子に進んでいく。アメリカ以外の国々もイギリスに何か要求しているようだが、イギリス代表トマス・グレンヴィルは、冷笑とともに聞き流した。イギリスは、アメリカの即時独立・主権の承認とイギリス軍の全面撤退をあっさり認めた。そのかわり、カナダのイギリス領残留をアメリカに認めさせた。さらに、イギリスとアメリカは、ニューファンドランド沖の漁業権協定まで結んでしまった。もとより、貿易は再開される見通しであった。滑稽なことに、フランス代表ヴェルジェンヌは、「イギリスは和解するというより、平和を金で買っている。その譲歩ぶりは、可能と思われる限度を超えている!」と言ったという。フランス人の見通しのまずさは昔からである。

日本の国制と陪審員制度(2・完)

2005-09-20 00:58:01 | Weblog
日本の場合はどうか。私は大学の学部時代、法史学の石井紫郎先生の集中講義を受けたことがある。その講義の中で印象的だったのは、「十六夜日記」の事例であった。「十六夜日記」の著者である阿仏尼は、亡くなった夫の残した所領が親戚に横領されたため、その所有権確認の訴訟のために京から鎌倉へ下った。文学作品として国語の時間に習う「十六夜日記」とは、この京から鎌倉へ下る過程での出来事の日記である。考えてみれば、鎌倉幕府とは司法裁判所だったわけである。それはそうで、坂上田村麻呂の時代はいざ知らず、鎌倉幕府とはもともと武士の土地分配の管理機関として源頼朝が打ち立てたものである。だから、幕府の機能とは裁判所である。これは徳川幕府に至るまで変わらない。

それにしてもこれは驚くべきことではないだろうか。鎌倉幕府とは1192年に設立されている。つまり12世紀ころには、日本では自力救済の放棄の流れがはっきりと進行しており、阿仏尼のころには、女が訴訟を起こせたのである。石井先生曰く「日本の場合、西欧に比べて自力救済の放棄はかなり早い段階から進行していたといえるのです」と。もちろん、その後の日本史のさまざまな展開の知っての通りである。しかしながら、司法制度の流れとしては、明治維新まで基本は変わらないのである。室町幕府のように効果的ではないものもあれば、徳川幕府のように絶対的なものまであったが、あるべきとされた型に変化はない。朝廷から司法警察権力を委ねられた幕府がこれを行った。

明治維新以降はどうか。明治政府の権威のもと、東京帝国大学法科出身の秀才たちが法学士の後光を帯びてこれを行った。第二次世界大戦以降は、司法試験という最難関試験を突破した者が、その試験カリスマを帯びてこれを行った。いずれもその権威の源泉を辿っていくと皇室に行き着く(笑)。これだけは、鎌倉時代以来かわらない。執行者が源平の血統か秀才かの違いはあるが、お上の権威に我々日本人は服してきたのである。我々日本人は、平時は世間に服すが、訴訟においては同格者の裁定には従わなかった。同格者の判断には権威も正統性もなかった。同格者は同格者であるがゆえに従う筋合いはなかった。判決は、お上(天皇)を源泉とする公方様(幕府)の任命した奉行か、法学部出身者の中の最優秀者(東京帝大法科または司法試験合格者)によるものである方が納得がいってきたのである。悲しいほどのガヴァナビリティだが、仕方がない。そうなんだから。

こうしたわけで、陪審員制度はわが国の国制(コンスティテューション)には存在したことがなかった。これだけは確かである。

だから、陪審員制度は日本が採用すべきではないといっているのではない。英米の歴史を見ると、陪審員制度によってコモン・ピープルの間に政治訓練が進んでいたことは確かで、それが彼らのリーガル・マインドを育み、フランス革命のような狂乱から彼らを救ったことはトクヴィルが『旧体制と大革命』で指摘したとおりである。民主政治において、「正統性は、国民にあるべきである」という思想を貫徹する意味で、あえて採用するのは意味のあることかもしれない。いずれにせよ、「日本人は、感情的だから陪審員制度に向かない」ということは根拠がない。(以前、若い弁護士がそうほざいていたので、面白いからいじめたことがある)。

また、法学部出身なら想像できると思うが、専門的な法実務において「証拠」なり「事実認定」なりは、我々が通常の生活で考えるものとはぜんぜん違うのである。「だから一般人には無理だ」というのは正しくない。我々の裁判である以上、そういう特殊な思考様式で考え出されたものは、それ自体、正統性がないのかもしれない。裁判は科学ではない。妥当性と正統性がすべてである。真実など神しか分からないし、神の声は聞こえないのだから。だとしたら、特殊な考え方をする専門家の判断は、専門家の判断であるがゆえに正統ではないのかもしれない(アメリカの陪審員制度の思想的起源の一端にはこうした「反知性主義」もある)。言われてみれば、裁判官には変なのが多い気もするし。専門知識を要する量刑や手続きはそれこそ専門家に任せるべきだが、それ以前の判断は、専門知識をもたない人々が行うべきなのかもしれない。今後多様化する社会において、日本人に一番欠けている資質―リーガル・マインド―を養成するという意味でも、あえて国制にない異国の制度を採用してみるのも悪くないのかも知れない。