そういえば、アン・コールターの『リベラルたちの背信』って、結局どう処理されたんだろう。基本的には、無視だったような。大学では彼女の名前はとんと聞くことはなかった。私も口にしなかった。何か、自己利益に反しそうだったから。
その代わり、勉強会を開いてホーフスタッターのThe Paranoid Style in American Politics.を黙々と読んだ。コールター・スタイルへの反論は、すでにこの本の中に全部書いてあった。日本のリベラルのインテリたちも、無視なんていけずなことをせずに、ホーフスタッターを読めばよかったのに。マッカーシイズムへの批判の最高峰なんだから、そのまま引用すればコールター程度なら簡単に片付けられたのに。多くのことは、すでに過去に決着がついていた。
ただ、ホーフスタッターの『パラノイド・スタイル』を読んでいて、どうしても気になる箇所があって、そこが今でも決着がつかないでいる。それは、赤狩りの時代の「保守」論客たちの特徴を彼は「学者的」と表現し、その「細部へのこだわり」と「膨大な証拠の数々」を出すのが彼らの特徴であると書いてあった。これなどは、コールターの『リベラルたちの背信』がある種の典型だろう。要は、「マッカーシーの告発は実は正しかった」ということを冷戦後出てきた「資料」をもとに次々と「論証」していく。この時代に土地勘の少ない私は、「へー」っと思った。「実際にスパイだったんなら、糾弾されても仕方ないな」と(笑)。ところが、基本的に赤狩りの時代の当時も、告発者たちはずいぶん丹念な「証拠」を用意して告発していたわけである。コールターによって、特別に新しい何かが出たわけではない。こうした告発者たちの詳細な「事実」に基づく糾弾に対して、ホーフスタッターは、「一つ一つは『事実』であっても、それが本質なのではない」と言うのである。問題なのは、マッカーシイズムのもつあの抑圧なのであって、実際にアルジャー・ヒスがスパイだったのかどうかが問題なのではないと。細かな「証拠」を膨大に用意することによって、本質を自分たちの都合のよいように構成しているのだと。右翼の告発者たちの告発が、「事実」であったとしても、問題はそんなところにはないのだと。
こういう処理の仕方は正しいのだろうか。
何か、「居直り」に見えるんだが。
ずっと気になっていたのだが、今日本屋で高橋源一郎と斉藤美奈子の対談を立ち読みしていたら、彼らが同じことを言っていた。題材は南京大虐殺。「彼ら(「小林よしのり」などの人々)って、細部に妙にこだわるよね」と。「いったい、いつ何人殺したの?」「そんなことが可能なの?」と「(笑)」という記号とともに『彼ら』の言動を再現してみせ、斉藤は「じゃあ、3千人なら虐殺じゃないのか」と言い、「細部にこだわることで本質を見落としている」と主張していた。話はこうして従軍慰安婦などに展開する。吉本隆明の「だいたいでいいじゃないか」を自嘲気味に持ち出し、重要な本質は、右翼に都合の良い「証拠」にもかかわらず変わらないのだという。
ちなみに、この問題が「数の問題では」なくなったのは1990年代からである。それ以前は、まさに「数」の多さがこれを問題化していた。「数」の大小ってそんなに小さな問題だろうか。ヘーゲルは、「量の違いはある一定以上を超えると、それは質の違いなのである」と、『法哲学』の中で書いてあったが。まあそれはいい。こんな問題にかかわりたくないからこれで止める。
問題にしたいのは、ホーフスタッターの『パラノイド・スタイル』である。とにかく一読をお勧めする。まるで最近の時事問題を論じているような瑞々しさである。ただ、二つのことが、どうしても引っかかって仕方ないのである。一つは上に述べた。「重要なのは細かな事実ではない。本質だ!」という処理の仕方。もう一つは、「パラノイド」という言葉である。要は、アメリカ政治社会に時々起こるマッカーシイズム的なるものを「病理」として理解しているのだが、彼はこれを「必ずしも、アメリカのみに起こる問題ではない。どこの国にもあり得る。ただ、私はアメリカ史の専門家なのでアメリカについて論じるのである」とする。どんなものかといえば、リベラルな人たちが感じる「何とも言えない不愉快な社会の雰囲気」一般をさすものだと理解すればよい。言いたいことは、非常によく分かる。よく分かる上で言うのだが、「パラノイド」などという言葉遣いで、右翼的なものを侮蔑しているうちは、絶対に右翼的なものには勝てない。歴史家として断言するが、同じようなことは何度でも起こるだろう。
ここまで書いてきて気づいたことがある。私は「博士号」まで持っていながら、インテリがとことん嫌いらしい。
その代わり、勉強会を開いてホーフスタッターのThe Paranoid Style in American Politics.を黙々と読んだ。コールター・スタイルへの反論は、すでにこの本の中に全部書いてあった。日本のリベラルのインテリたちも、無視なんていけずなことをせずに、ホーフスタッターを読めばよかったのに。マッカーシイズムへの批判の最高峰なんだから、そのまま引用すればコールター程度なら簡単に片付けられたのに。多くのことは、すでに過去に決着がついていた。
ただ、ホーフスタッターの『パラノイド・スタイル』を読んでいて、どうしても気になる箇所があって、そこが今でも決着がつかないでいる。それは、赤狩りの時代の「保守」論客たちの特徴を彼は「学者的」と表現し、その「細部へのこだわり」と「膨大な証拠の数々」を出すのが彼らの特徴であると書いてあった。これなどは、コールターの『リベラルたちの背信』がある種の典型だろう。要は、「マッカーシーの告発は実は正しかった」ということを冷戦後出てきた「資料」をもとに次々と「論証」していく。この時代に土地勘の少ない私は、「へー」っと思った。「実際にスパイだったんなら、糾弾されても仕方ないな」と(笑)。ところが、基本的に赤狩りの時代の当時も、告発者たちはずいぶん丹念な「証拠」を用意して告発していたわけである。コールターによって、特別に新しい何かが出たわけではない。こうした告発者たちの詳細な「事実」に基づく糾弾に対して、ホーフスタッターは、「一つ一つは『事実』であっても、それが本質なのではない」と言うのである。問題なのは、マッカーシイズムのもつあの抑圧なのであって、実際にアルジャー・ヒスがスパイだったのかどうかが問題なのではないと。細かな「証拠」を膨大に用意することによって、本質を自分たちの都合のよいように構成しているのだと。右翼の告発者たちの告発が、「事実」であったとしても、問題はそんなところにはないのだと。
こういう処理の仕方は正しいのだろうか。
何か、「居直り」に見えるんだが。
ずっと気になっていたのだが、今日本屋で高橋源一郎と斉藤美奈子の対談を立ち読みしていたら、彼らが同じことを言っていた。題材は南京大虐殺。「彼ら(「小林よしのり」などの人々)って、細部に妙にこだわるよね」と。「いったい、いつ何人殺したの?」「そんなことが可能なの?」と「(笑)」という記号とともに『彼ら』の言動を再現してみせ、斉藤は「じゃあ、3千人なら虐殺じゃないのか」と言い、「細部にこだわることで本質を見落としている」と主張していた。話はこうして従軍慰安婦などに展開する。吉本隆明の「だいたいでいいじゃないか」を自嘲気味に持ち出し、重要な本質は、右翼に都合の良い「証拠」にもかかわらず変わらないのだという。
ちなみに、この問題が「数の問題では」なくなったのは1990年代からである。それ以前は、まさに「数」の多さがこれを問題化していた。「数」の大小ってそんなに小さな問題だろうか。ヘーゲルは、「量の違いはある一定以上を超えると、それは質の違いなのである」と、『法哲学』の中で書いてあったが。まあそれはいい。こんな問題にかかわりたくないからこれで止める。
問題にしたいのは、ホーフスタッターの『パラノイド・スタイル』である。とにかく一読をお勧めする。まるで最近の時事問題を論じているような瑞々しさである。ただ、二つのことが、どうしても引っかかって仕方ないのである。一つは上に述べた。「重要なのは細かな事実ではない。本質だ!」という処理の仕方。もう一つは、「パラノイド」という言葉である。要は、アメリカ政治社会に時々起こるマッカーシイズム的なるものを「病理」として理解しているのだが、彼はこれを「必ずしも、アメリカのみに起こる問題ではない。どこの国にもあり得る。ただ、私はアメリカ史の専門家なのでアメリカについて論じるのである」とする。どんなものかといえば、リベラルな人たちが感じる「何とも言えない不愉快な社会の雰囲気」一般をさすものだと理解すればよい。言いたいことは、非常によく分かる。よく分かる上で言うのだが、「パラノイド」などという言葉遣いで、右翼的なものを侮蔑しているうちは、絶対に右翼的なものには勝てない。歴史家として断言するが、同じようなことは何度でも起こるだろう。
ここまで書いてきて気づいたことがある。私は「博士号」まで持っていながら、インテリがとことん嫌いらしい。
アメリカの反知性主義のホーフスタッターですよね。この「パラノイド」も読んでみようと思います。
一言お礼を言いたくて、コメントさせてもらいました。
これからも楽しみにしています。
9月はひたすら忙しくって。
正直、関心をもっていただいて、本当に嬉しいです。
ヘンリー・アダムズの「合衆国史:ジェファソン政権~マディソン政権」は、議論の種としては、凄い源泉でしてね、そういう本格的なところをもっとちゃんとやりたいと思っています。
私の場合、論文を構想するときは、「ストーリー」を構成できるかどうかに重点を置くタイプなんです。面白くて、人間くさくて、それでいて高邁で勇壮という、そういう何かが感じられないと、研究のようなシンドイ作業は、私の場合できないです。