研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

ヘンリー・アダムズの挫折(1)

2005-11-14 04:59:12 | Weblog
第二代大統領ジョン・アダムズは、その大きな功績にもかかわらず、「忘れられた人物」として人々の記憶に残っている。これはアダムズ一族の特徴かもしれない。いつも時代遅れ認定されてしまう。そういえば、「アダムズ・ファミリー」という映画が昔あった。死人の家族のコメディである。その息子ジョン・クインジー・アダムズも非常に玄人うけする人物ではあるが、それでも多くの現代アメリカ史研究者には、「一般投票で勝てなかった大統領」という気の毒な言及のされかたで登場することが多い。特に、ジョージ・W・ブッシュ大統領のせいで、いつも妙な形で登場を余儀なくされている。ちなみに、細かいことだが、John Quincy Adamsの発音は、ジョン・「クインジー」・アダムズである。cyで終わるので、みんな「クインシー」と呼んでいて、映画「アミスタッド」の字幕でも「クインシー」と書いてあるが、「クインジー」が正しい。

このジョン・アダムズの孫、ジョン・クインジー・アダムズの息子は三人いて、長男はジョージ・ワシントン・アダムズ、次男はジョン・アダムズ二世、三男はチャールズ・フランシス・アダムズという。長男と次男は、アルコール中毒で最後は船から落下して死んだり、原因不明の事故死をしている。どうも出来損ないだったらしい。というか、後でも述べるが、この家のプレッシャーはひどくて正直だれがこの家に生まれてもグレただろうと思われる。唯一三男のチャールズだけが、連邦下院議員になっていて、かろうじて政治一家を継いでいる。しかし、政治家としての歴史的名声は残せなかった。ただ、彼には妙な奇癖があって、とにかく異様な情熱で一族の書簡や日記の収集保管、分類整理を一生かけて行っていた。その成果がWorks of John Adams全10巻をはじめとする超膨大なアダムズ・ライブラリーで、アダムズ研究は基本的に彼の編纂した全集を使って行われる。私も彼のおかげで博士号が取れた。ちなみにこの全集は、日本では東大、筑波大、広島大、同志社大くらいにしかないんじゃなかろうか?と思って調べたら、なぜか日大にあった。個人で所有している人はほとんどいないと思う。実は、ちょっと自慢するが、私が持っている。重ねて自慢すると、一昨年亡くなられた政治学者の阿部斉先生が所蔵しておられて、その阿部先生に譲ってもらったのである。阿部先生は、もともとアメリカ建国史で学位をとられていて、ジョン・アダムズについての研究を残されている数少ない方だったのである。で、私は、その阿部先生から貴重なアダムズ全集をいただいたわけで、ま、この辺の正統性が私のひそかな自慢なわけである。

このチャールズの息子にヘンリー・アダムズがいた。彼は少年時のアダムズ家の風景をいろいろ書き残している。ある日、幼なかったヘンリーが学校へ行くのを嫌がってぐずっていた。母親ではどうしようもなくなって窮していると、奥の部屋から祖父のジョン・クインジー・アダムズが現れた。この時は、すでに大統領職を退き、連邦下院議員をしていたころであったが、基本的に政治の世界では現役時代の最高官職で呼ばれるのが慣例なので依然として「プレジデント」と呼ばれていて、彼の場合は家族からも「プレジデント」と呼ばれていた。家族はこの大統領には一言も口ごたえや狎れた口調では話せなかった。「大統領」が現れたのを見て直立不動で固まるヘンリーの前につかつかと近づいてきたジョン・クインジー・アダムズは、黙ってヘンリーの手をとって、そのまま学校まで歩いていった。学校までの道では一言も話はなく、ヘンリーが学校の門へ入るのを見ると、そのまま何も言わずにジョン・クインジー・アダムズは家に帰っていった。

嫌な家である。ジョン・アダムズの考え方に、「ナチュラル・アリストクラシー」というのがある。それは、階級のない世界においても自然と、おのずから生じる貴族のことで、それは血統、財産、教養、かもし出す雰囲気、過去の業績、風貌、体格、おかれた状況などあらゆる要素が組み合わさって形成されるもので、具体的には、「選挙において二票以上の票を動かす力(影響力)」をもつのだという。一票しか行使できないのが、普通の人間だが、この自然貴族は二票動かせるのだという。これは、もうどうしようもないもので、実際にそういう人はいるわけである。みんなが完全平等ということは現実にはなくて、かならず社会にはそういう不思議な影響力や勢力を持つ人が現れるものである。アダムズの政治思想の基本は、「こういう必ず現れる勢力ある人々をどのように利用し、統制するか」であった。ここを「無い」ことにして、ナイーヴにデモクラシーを行うと、必ず政治社会はデマゴーグに先導され、衆愚支配となり恐怖政治に転換し、最後はそれを収拾するために一人の専制者が現れてしまうのだという。驚くのはアダムズがこの主張を展開したのは、1787年にイギリス公使をしていたときで、フランス革命の動向をイギリスから眺めながら『アメリカ諸邦憲法擁護論』にそのように書いている。まさにその後のフランス革命の動向そのものなわけで、エドマンド・バークの『フランス革命の省察』より2年早い。意外と指摘されていないのだが、バークはアダムズのこの『アメリカ諸邦憲法擁護論』を読んでいる。

アダムズは、どうせ自然貴族が現れるならば、それは意図的に作ったほうがよいと考えた。つまり、影響力ある家庭に生まれた子供たちは、どうせ必ず公的役職につくわけだから、そうであるならば、家庭教育は完全に公的な義務感によってなされなければならないのである。政治においては、まず統治者の父親が自分の家族に責任ある統治者として必要な教育や経験を施すのである。こういうことを何代にもわたって行うと、その一族には、統治者に必要な天性を備えた人物が多数排出するようになるのだという。考えてみれば、実際に今の日本がそうであろう。安部晋三氏はどうしたって、政界にでることになるのである。例えば、辺境の地方公務員の息子の私が成蹊大を出て政治・行政の高位官職にはつけないのである。高位官職につくためには、鈴木宗雄氏くらいの「働き」が必要である。しかし、貴種のもつ現実社会への力量は実際に巨大なのである。だとしたら、いっそ貴族院でも設けて、彼らの力を有効活用すると同時に、貴族院に封じ込めて統制したほうが良いのだとアダムズは考えた。二院制を主張し、そのうちの一つをSenateつまり、「元老院」にするべきだと言ったのはそのためである。実際には、こういう考え方そのものが、民主社会ではうけいれられなかったので、アダムズは「忘れられた人物」となったわけだが。

アダムズの自然貴族論には、こういう制度的なものと同時に自然貴族家の家庭教育がセットになっていて、ジョン・クインジー・アダムズ以下の子供たちは、こういう方針の下に育つことになった。

ジョージ・ワシントンの憂鬱(3・完)

2005-11-05 20:57:37 | Weblog
アメリカ外交の基本的な型として教科書では、「孤立主義」と「介入主義」とが必ず説明されるわけだが、両者はともに「単独主義」の現れ方の違いであるということに関しては、多くの人々が同意するだろう。そしてこうしたアメリカ外交の起源がジョージ・ワシントンの行った中立政策と「告別の辞」にあったことは、Felix GilbertのTo the Farewell Address.以来の通説となっている。ただし、これが建国当初において自明であったかというと、そうではない。これまでのエントリーで繰り返し書いてきたが、独立戦争における外交戦略は、見事なまでの多国間外交と同盟戦略である。考えてみれば当たり前の話で、そもそもヨーロッパの外交史に単独主義外交などが存在したことがないのだから、ヨーロッパ人であった彼らが単独主義外交を自然に行うはずがない。これには具体的に選択された契機があるのである。

建国当初のアメリカ外交には三つの可能性が存在した。一つはハミルトン派(ハミルトンその人とは違う)による「親英」路線で、これは要するにヨーロッパの国際情勢に積極的に関与することでアメリカの利益の保全と増進をはかる考え方である。もう一つは、トマス・ジェファソンを象徴的存在とする「親仏」路線で、これは共和制の理念に基づくイデオロギッシュな外交路線である。これらに対する第三の可能性が、ワシントンの中立路線であった。この三つが並存していた。

英仏戦争のさなかにワシントンがジョン・ジェイをイギリスに送り込んでイギリスとの紛争を回避したことは先に記した(ジェイ条約)。これは、中立を望むワシントンとハミルトン派の思惑がたまたま一致しただけで、ワシントンの親英感情の表れではもちろんない。ジェイ条約によって、今度はアメリカはフランスの攻撃対象になったわけだが、これを担当したのは第二代大統領のジョン・アダムズである。当時は、政権が代われば閣僚が入れ替わるという習慣がなかったので、アダムズはワシントン政権から閣僚の多くを受け継いだため、アダムズ政権の閣僚は、親英路線のハミルトン派であった。ハミルトン派の閣僚たちは当然イギリスとの事実上の同盟関係のもとにフランスと戦い、それとあわせて国内の親仏派のジェファソン派の一掃を狙った。この時期のジェファソンは、政治的に完全な危機的状況に陥っていた。しかし、アダムズは独断でフランスに和平特使を送り込み、フランスと和平してしまったのである。これによって、今度はハミルトン派の外交路線が崩壊してしまった。アダムズが再選できなかった理由はもちろんここにある。要するに自分の与党を粉砕してしまったわけだから。これをもってアダムズを「無能」と整理するのがアメリカ政治史の通説となっているが、これは無能なのではなく、アダムズが身を挺してワシントンの外交路線を守ったのである。すなわち、アダムズもまた親英路線でも親仏路線でもなかった。外交における中立路線派だったのである。ちなみに、このときフランスとの和平交渉にあたった人々が、モンロー政権期に活躍していて、中でもパリで諜報活動に従事していたジョン・クインジー・アダムズは国務長官としてモンロー・ドクトリンを作成している。

以上をまとめると、建国期アメリカでは、ワシントン政権において親仏路線を断ち切り、アダムズ政権において親英路線を断ち切ったわけである。一言でいうなら、フランクリンが丹精こめて作り上げた外交経路を、初代と第二代の大統領が12年かけてひっくり返したということである。こうした外交と内政が絡み合った政治抗争から多くを学んだジェファソンは、その大統領就任演説において「ヨーロッパ外交から距離を置く」ことを表明することで自らの親仏路線の放棄を宣言し、その政治理念のエネルギーを「大陸国家論」に注ぎ込んだ。すなわち大西洋の向こうに背を向け、西部への膨張を政権の基盤とした。「マニフェスト・デスティニー」の幕開けである。

さて、こうした経緯から建国当初のアメリカの党派構成を再検討してみると、次の三つが大まかに存在していたことが分かる。
① ハミルトン派フェデラリスト:リアル・ポリティックス
② モデレイト・フェデラリスト:国内派
③ ジェファソニアン:普遍的理念的外交政策

いわゆる「フェデラリスト政権」とは①と②とのつかの間の同盟関係であった。「フェデラリスト」と一口に言っても、内部には「国際派」と「国内派」がいたのである。アメリカ政治史では、前者をHamiltonian Federalist、後者をModerate Federalistと呼ぶ。国内派がなぜ、Moderateなのかは分からないが、そういうことになっている。ワシントンはたまたま国際派と政策目標を同じくしていた(ジェイ条約)ので、政治的には傷つかなかったが、アダムズはワシントンと理念を同じくしながら国際派と政策目標が異なっていた(米仏和平)ために、この同盟関係が崩壊したわけである。このフェデラリストの分裂によって、大統領選挙ではジェファソンがアダムズに勝利することになるが、ジェファソンは自らの親仏路線を放棄したことは前述の通りである。

以上の経緯から、建国期において、アメリカの外交思想からは国際派が政治的に葬り去られたことがわかる。アメリカの単独主義外交とは、モデレイト・フェデラリストとジェファソニアンとの合作である。すなわち、国内派の歴史における勝利の帰結であった。

「ベンジャミン・フランクリンの風景」のエントリーで述べたとおり、そもそもアメリカ独立革命は、「外国経験豊富な古い世代」と異なる、「外国経験の乏しい新世代」によってなされたものであった。そして独立後には、その中でもさらに「国内派」の「国際派」に対する勝利によってアメリカ外交の路線が確立したのである。それは、ジョージ・ワシントンという、アメリカ大陸から一歩も出たことのない人物によって始まり、ジョン・アダムズという、豊富な外交経験をもちながらもヨーロッパに反感しかもっていなかった人物によって確立した。そしてそれはジェファソンからモンローにいたるヴァージニアの大統領たちによって理念的な補強がなされた。

「平家・海軍・国際派」という言葉がある。これは日本においてドミナントな勢力にならない人々を指す言葉である。しかし、「平家・海軍・国際派」的なるものがドミナントにならないのは、日本ばかりではない。というのは、「政治」における力の源泉とは土着性だからである。しかし、より積極的にいうならば、共同体にたいする責任は土着的な人物しか担えないのではないかと私は思う。なんとなれば、土着的な人々は、その国土が崩壊すればもう行く先が無いからである。しかし、国際派はそうではない。

ジャン・ジャック・ルソーは、「国際派には用心しろ。彼らは普遍的な人間の義務を語るが、国民の義務にはとんと無関心である」と『エミール』のなかで述べた。究極的な意味で、国際派は国民一般と運命を同じくしていないのである。

ジョージ・ワシントンという人は、アメリカあっての偉人であった。彼がもしヨーロッパに生まれていれば、平凡な騎兵将校としてその人生を終わっていただろう。ジェファソンやハミルトンならば、あるいは歴史に名を残せたかもしれない。しかし、ワシントンはアメリカという風土によってのみ偉大であった。そして、アメリカの政治・外交の慣行は、こういうアメリカでのみ偉大な人物によって打ち立てられたのである。

ジョージ・ワシントンの憂鬱(2)

2005-11-03 06:06:00 | Weblog
ワシントンは、「ハミルトン派フェデラリスト」たちからの三選出馬の要請を拒否して二期で引退することにした。理由はいろいろあった。個人的理由としては、大統領職に忙殺されている間に、自分のプランテーションの経営が危機的状態に陥っていたのが大きい。この時代の連邦政府の官職には、俸給がほとんど支払われていなかった。官職とは、生活に困らない名士が、共同体に対する責任感から引き受けるもので、「政治で生活をする」などというのは悪徳であった。まして、税金が嫌で独立戦争をした国である。税金を食う存在は、それ自体が悪だった。だから連邦政府の官職というのはあまり人気がなかった。とにかくいいことが一つもないのである。ほとんどタダ働き同様なのに、ひどく激務だ。しかもその挙句に非難ばかりされる。ちなみに、初代国務長官のジェファソンは、国務省のあまりの人員不足に困り果て、自らリクルート文書を書いている。「君も国務省で働こう」と題する文書は次のようなものだった。

連邦政府には、アメリカ屈指の名士がそろっている。その仕事はやりがいに満ち、国家の運命に関与できる栄光がある。偉大な人々と同席できることこそ、人生の幸福ではないか。そこには、俸給以上の価値があるのである。

安月給だが、立派なキャリアになるから、人生の一時期、こういうところで働くのもいいもんだよと言っている。それくらい、人気がなかった。高度経済成長期の日本の自衛隊の勧誘みたいである。

また、ワシントンは実によく新聞を読む人だったようだ。手に入るだけの新聞を集め、毎日熱心に読んでいた。ところが、第一期の後半ころから、新聞の中に自分への批判を目にするようになった。彼は激しく動揺した。考えてみれば、政治家が新聞で公に非難されるというのを最初に経験したのは、アメリカ建国の父たちだったのかもしれない。中世から脱したばかりの時代である。今の政治家ならばビクともしないだろうが、この時代の紳士には耐え難いほどの出来事だった。見ると、自分のことを「国王」のようだと非難している記事もある。愕然とした。自分こそ共和主義精神の体現者だったはずではないか。とにかく非常に傷つてしまった。

そして、それに耐える気力も肉体的理由で減退していたのは確かである。実はワシントンは、歯がなかった。彼は総入れ歯だったのである。ところが、この時代の入れ歯は出来が本当に悪かった。この時代、入れ歯は基本的に金物職人や金細工職人がつくっていた。鉄で出来た上顎用の部分と下顎用の部分を強力なバネでつなぎ合わせたもので、これをバネの部分で二つに折り、口の中に押し込み、顎の筋肉の力で口を閉じていた。だから、油断して口の力を抜くとスポンと飛び出してしまう。ワシントンの肖像画で、口元が強く引き締まり、顎の部分にエラが張っているような感じになっているのはそのためである。

ちなみに日本の場合も、江戸時代は歯医者というのは漢方医や蘭学医とは別のギルドで、医師というより職人集団に近かった。明治維新期に、ドイツから医学部の制度が入ってきたとき、自分たちのギルドの存続を心配した歯医者たちがどうやら抵抗したらしい。一方、医師たちも歯医者を見下していたのでこちらも歯医者と同じ屋根の下に入るつもりはなく、結局両者は医学部に統合されなかった。東大と京大には今でも歯学部はない。医師がまがりなりにも武士階級だったのに対して、歯医者は職人階級だったわけで、ここは心理的にも微妙な関係だったのである。歯医者と大学の歴史は地味に面白い。北海道大学と九州大学は、ともに辺境にある数少ない大学だったため、地域の要請から遅ればせながら歯学部が設置された。ただ、歯学部の初代教授陣は、医学部出身者と理学部出身者、そして地元の歯医者からリクルートされたため、なんとも雰囲気が悪かった。歯医者を見下す医者と、歯科技術を知らない生物学者と、学問を知らない歯医者が仲良くやれるはずも無い。教育技術が発達していなかったこともある。大阪大学は、後発帝大だったので最初から歯学部が存在していた。名古屋大学は、小規模だったことと、地域の私立大学にすでに歯学部が存在していたために、今でも歯学部は無い。余談になるが、受験生にとって医学部というのは最難関で、一番成績が優秀な者が受験する。で、歯学部受験者には、「医学部をあきらめた連中」というレッテルがベッタリ貼りつく。私が受験生のころも、医学部というのは途方も無い難しさで、そのため医学部を目指して受験勉強していたが、直前にあきらめて歯学部にしたという者は確かにたくさんいて、彼らは医学部以外のどの学部の合格者よりも優秀だったのに、何故か気の毒な心理状態のなかに置かれていたりした。こういうことは、けっこう学部の士気や雰囲気に後々まで影響したりする。

何の話だっけ?そう、ワシントンである。こうしたわけで、ワシントンは心身ともに疲れきり、二期で大統領を辞めてしまった。こうして、FDRの登場まで大統領は二期で辞めるのが慣例になった。彼が大統領職を去る際に提示した「告別の辞」では、党派争いを戒めるよう説得がなされている。彼は最後まで自分が、フェデラリスト党の一員だと考えていなかった。しかし、それ以上に、この中で彼が示した「中立政策」は、アメリカの外交国是となり、それはモンロー・ドクトリンに受け継がれ、さらにアメリカが強国となった際には、「単独主義外交」として展開した。

地元に戻ったワシントンは孤独だった。ヴァージニアは、ジェファソニアンの牙城になっていて、彼はヴァージニアの利益を無視しつづけていたのだから。それもあってか、彼はその後、西部開拓に家業として専念することになった。しかし、やはり彼は高潔だったと思われる。彼は、自分の息子をハーヴァードに進学させ牧師にした。この時代の南部のアリストクラットは、自分の息子をオックス・ブリッジかパリ大に進学させていたが、彼はあえて、アメリカのハーヴァード大という「辺境の大学」で学ばせ、アメリカンであることを貫き通した。

ジョージ・ワシントンの憂鬱(1)

2005-11-01 21:12:09 | Weblog
ジョージ・ワシントンは、ヴァージニアのプランターの子として生まれたため、植民地社会では一応アリストクラットの立場から人生を始めることができたが、若いころから彼はいまひとつパッとしていなかった。彼のよりどころは軍事だったが、この軍事において彼には目覚しい活躍がないのである。

これには、彼の置かれた環境も影響していた。彼がいたのはイギリス帝国のヴァージニア植民地軍である。民兵とはちょっと違っていて、いちおう軍隊である。しかし、イギリス正規軍が出張ってくる戦闘においては、その補助者としてドロ仕事をやらされ、イギリス正規軍がいないときには、揮下の兵士と民兵を率いてフランス人や剽悍なインディアンたちを相手に、勝っているのか負けているのか判然としない泥沼の戦闘に従事していた。『フランクリン自伝』には、民兵の指揮を執っていたフランクリンが、若いのにいつも苦労しているクソ真面目なワシントン中佐の姿を少しだけ描写している。

辺境の青年将校ワシントンにも夢があって、それはイギリス正規軍の騎兵連隊に入ることで、彼はつてをもとめて何度もアプライしている。これは、若き日のジョン・アダムズがウエストミンスターの庶民院議員になるのを夢見たのと似ている。しかし本国正規軍の騎兵将校になるには、本国の名門貴族でなければならない。辺境の植民地軍の将校には無理な話だった。これが明らかになるにつれて、ワシントンの心には暗い影が出来始めていた。

時が流れレキシントン・コンコードの戦いが始まるころ、大陸会議はイギリス本国との戦争のために正式に「大陸軍」というアメリカ正規軍の編成を行い、その最高司令官にヴァージニア植民地軍少将のワシントンを任命した。こうして彼は、アメリカ陸軍の初代最高司令官となり若き日に憧れたイギリス正規軍と戦うことになった。

独立戦争は8年にわたる戦争で、そのほとんどはイギリス正規軍に蹴散らされては退却し、立て直しては蹴散らされるということを大陸中で繰り返す戦争だった。しかし、こういう戦争の経営はたしかにワシントンにしか出来なかっただろう。彼は、軍令のみならず軍政もすべて担当していたが、彼の日常は、兵士をかき集め、訓練させ、食事を与え、月給を払い、人事を行い、そして戦線を維持することに終始していた。そのあまりの多忙さに、なんどか癇癪を起こしたらしいことが記録に残っている。ただ印象的なのは、ワシントンはとにかく偏執的なまでに補給にこだわったということである。というか、兵士がみなど素人の民兵ばかりだったので、戦術も何も無かった。ワシントンにはロジスティックスがすべてだった。8年間、彼が最高司令官として行ったのは、兵站と人事のみである。

独立戦争から彼が得た確信は、「アメリカ諸邦は、連合していたから勝てた」ということである。ボストンが落ちても、チャールストンが落ちても、ニューヨークが落ちても、フィラデルフィアが落ちても、「アメリカ」が存在するかぎり、彼には敗北はなかった。この経験から、彼はタイトなフェデラリストになる。このとき、ワシントンの副官として歴史に登場したのがアレクザンダー・ハミルトンである。

イギリスとの戦闘が終結したとき、アメリカには緊張状態があった。ワシントンと大陸軍の存在である。凱旋将軍と勝利した軍隊は、ノーマルシーへの復帰にとっての最大の障害である。彼がもしアメリカの君主の座を望めば、これを拒むのは大陸会議のシヴィリアンには難しかっただろう。しかし、大陸会議に現れたワシントンは、大陸軍最高司令官の任命書を恭しく議長に返却し、大陸軍を解散し、さっさとヴァージニアの自宅に帰ってしまった。これにより、アメリカの文民統制は確立した。

アメリカ諸邦は統合すべきことを確信していた彼は、連邦憲法制定会議の議長を引き受けた。そこでの後輩たちの議論を彼がどのていど理解していたかはよく分からない。案外、すべて理解できていたのかもしれない。ともかく、真夏の暑いさなか、狭い議場で身じろぎもせず、じっと座り続け、憲法が出来上がるのを待っていた。そして初代大統領を引き受けることにした。彼の大統領選挙は形式的なもので、もちろん満場一致だった。ただ、選挙への「出馬」という言われ方は嫌だった。どうも、彼には選挙というものが「党派争い」に見えたらしい。党派抗争は共和主義精神への裏切りだと思っていた。

大統領在任中の彼を悩ませていたのは、ヴァージニアの後輩たちの「党派精神」である。ジェファソンのような立派な男が、共和国を脅かす党派の首領になっている。ワシントンは、最後まで自分自身が、「フェデラリスト」という一つの党派の大物であることを理解していなかった。彼は、「アメリカ」の代表だと信じていた。「ジェファソンやマディソンほどの男たちが、いったいどうしてしまったんだ?」と嘆いていた。

国際情勢を見ると、英仏の戦争がいよいよ激化していた。フランスは1778年の米仏同盟に基づき、アメリカの参戦を要請してきた。ワシントンは、米仏同盟には関係していなかった。締結時、彼は独立戦争を戦っていたが、米仏同盟には反対だった。彼は、ヨーロッパとの同盟関係はいかなる国とでも反対だった。ワシントンは、フランスの要請を無視し、アメリカ船隻に攻撃してくるイギリスとの戦闘を回避するためにジョン・ジェイをイギリスに送り込み、アメリカが大幅な譲歩をすることでイギリスとの平和な関係を選んだ。イギリスとの8年の戦争を経験し、いまだ反英感情の強かったアメリカ国内は騒然とした。「これではなんのためにイギリスと戦ったのか分からないではないか!」と激昂する反対派に対して、「いや、戦ったのは私だ」と応えた。しかし、親仏派のヴァージニアの後輩たちの激怒は収まらない。ジェファソンは、対外政策の不一致を理由に国務長官を辞任した。国務長官は、ニュー・イングランド系のハミルトン派フェデラリストが就任する。ワシントン政権からは、ヴァージニア系が一人ひとり消えていった。第二期ワシントン政権の閣僚は、ニュー・イングランド系のフェデラリストで固まることになった。