研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

勇気なき知力は知性の名に値しない

2021-06-19 00:47:55 | Weblog
大学院の演習で、「右派的言説」がなぜ政治の舞台に現れ、現実に高学歴層からも支持を得るのかをドイツ史のテキストを題材に話し合った。

色々な意見が出たが、結局のところ、雇用の不安定、生活の困窮、将来の見えなさ、孤独などで社会不安が増大し、
それに対して、帰属意識を提供する言説が支持を得るのは当然ではないかという意見が多数を占めた。

ここまでは特段の文献に当たらなくても、類推できることなんだけど、問題はなぜ民主主義国家において、つまり多数者より選ばれた代表が集まる議会が
それを解決できないのかという「不思議」に行き当たった。
それで僕は、僕のアメリカ史の知見によれば、議会制民主主義というのは、そもそもが多数者の暴走を防ぐシステムとして構築されたのであり、
社会問題を直ちに解決するのを防ぐことを目的に制度設計されてはいないことを説明した。

民衆の意思は気まぐれである。
朝考えていることと、その日の夕方に考えていることは容易に変化するし、専門知識もない。
その瞬間の民衆が「社会問題である」と考えていることが、実は大きな誤りで、即座に解決を試みないほうが良い場合もあるのだ。
アメリカ合衆国建国の父たちは、そうした民衆の気まぐれをどうやったら挫くことができるかを考え抜いた。
旧世界では身分制度があるが、新世界には身分制度がない。
つまり民衆的意思を抑制する社会勢力が存在しないのである。

かといって、アメリカにおいて貴族制を復活することは政治的にも不可能であり、合衆国憲法にも明確に身分制の復活を禁じる項目がある。
ではどうしたか。
彼らが持っているカードは民衆しかなかったのであり、民衆の力で民衆の力を抑制するしかない。
例えば、全国的な人口規模の大きな州に配分される連邦下院を2年という短い任期で民衆選ばせて、その時々の民意に即応的に対応するとともに下院議員を選挙漬けにする。
そして、今度は民衆的意志のもっとも度し難い塊である州単位で選任される上院議員を人口規模に関係なく2議席を与え、彼らに6年の任期を与えた。
これによって、時の民衆の意思を過去の民衆の意思で抑制するシステムを一つ構築した。

議会というのは、時として革命政府にとっては革命機関となる。これを二院制に分けたことで議会の革命機関的性格を骨抜きにした。
次の行政権力、すなわち大統領の立法府への介入権限を隠微に構築した。
法律は連邦議会が作るが、厳密にはそれは「法律案」であり、それが「法律」になるためには、行政首長のサインが必要になる。
行政首長もまた民衆から選ばれた存在であると同時に、一個の人格を持った人間である。
サインを強制することはできない。
サインしなければ、その法律案は議会に差し戻される。これを「拒否権」という。

しかし、スタンビードは起こるものである。
連邦議会議員にしろ、大統領にしろ、民衆から選ばれた存在である。
そこで最後のよりどころとして、連邦最高裁判所に「違憲立法審査権」を与えた。
法曹は言うまでもなく、司法試験合格者である上に終身制であるので民衆的基盤が最も弱いが、9人の連邦最高裁判事は、欠員が生じると時の大統領が、欠員を補充することで辛うじて民衆的根拠を保持している。

まとめるとこうなる。
①連邦議会の二院制とは「過去の民意」と「時の民意」をぶつけ合わせ均衡させることで、多数者の専制を防ぐシステムである。
②連邦行政権力が立法府である議会に介入できる仕組みを持たせて、何らかの形で議会が一枚岩になるのを防ぐシステムを構築した。
③しかしながら①②はともに多数者から選ばれた存在である以上、スタンピードが起こることが考えられるので、多数者から最も遠い存在である連邦最高裁判所に法律そのものを葬り去る権限を与えた。

司法権とは、アメリカにおいては民主主義の最後の防波堤とされているが、司法権の独占とは主権の確立の要であるという根本原則を忘れてはいけない。
近年は「ポピュリズム」という言葉が検討されるようになり、それゆえ司法権は民主主義がポピュリズムに堕するのを防ぐシステムであるという、
それはアメリカン・デモクラシーの防波堤なのであるという理解がより強固になっているが、僕はそうは思わない。
その歴史的経緯からして、アメリカ建国の父たちは、民主主義を抑制するためにあらゆる工夫をしたのである。

だから例えば、大統領を選出した政党と、議会の多数派の政党が正反対になる「分割政府」は、アメリカの危機どころか建国者の思惑通りの現象なのである。

こうしたアメリカに端的に現れた制度設計だが、当然、深刻な負の側面があった。多数者の意思を妨害し抜いた代償ともいえる。

「決められない政府」の登場である。
ヴァイマール期のドイツがそうだった。今の日本もそうだろう。
こういう時に人間は無力感に苛まれる。
その時に、決然と断言し、断行する人物が現れたらどうなるだろうか。
おそらく人は、進んで彼または彼女に自分のすべてを差し出すだろう。
幸いそのような人物の多くは歴史的には破綻者が多く、大抵はどこかでポカをやる。
しかし、本当に苦境にある人々にとっては、そのポカは実にどうでも良いのである。
マックス・ヴェーバーは、政治家の責任とは結果責任であるといった。
残念ながら学者の戯言である。
民衆は結果よりも動機を重視する。それに取り組もうとした人物を高く評価する。
ドナルド・トランプは、2020年の選挙で敗北したが、過去のいかなる当選した大統領よりも多くの得票を得た。
もし頭の良いトランプが現れたら、もしエレガントでスタイリッシュなトランプが現れたら、リベラルな価値など吹っ飛ぶだろう。

学生とこんな話をした。
僕らはいわゆる一流大学ではないけれど、それでも大学院で俯瞰的にものを見るように訓練されている。
大学院などに通わせてもらっている以上、差し迫った金の心配もない。

民衆の意思とすでにずれている。
リベラルほどズレている。
連中もそれほど賢明な人々ではないのである。少なくとも独裁者の存在を防ぐこともできなければリンチもする存在である。
だから知性とは、附和雷同しないことであり、附和雷同しないためには「勇気」が必要なのだ。
つまり勇気なき知識など知性に値しないのである。