研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

ベンジャミン・フランクリンの風景(4・完)

2005-07-07 00:27:03 | Weblog
対英独立戦争とは、18世紀の文脈では、「社会契約」のやり直しを意味した。すなわち、イギリスへの「抵抗」であれば、イギリス人として戦えばよい。イギリス人が本来持っている自由をイギリス本国政府が侵害しているという主張ならば、それはあくまでもイギリス臣民としての異議申し立てである。しかし、独立となると話は違う。すなわち、イギリス政府は、本来「人間」がもっている「自然権」を侵害しているので、社会契約に基づく服従義務を解除し、新たに契約をしなおし、独自の政府を作るという論法になる。すなわち「革命」である。アメリカ独立が、アメリカ革命といわれる所以である。

革命の断行に腹を決めた大陸会議に参集したアメリカ諸邦の紳士たちは次々に手を打っていく。まず、対内的主権を確立するために、「連合規約」を制定し、主権をバラバラの諸邦から大陸会議に集中させる。そして、民兵中心に散発的な戦いをしていた混乱状態から自分たちを救うために、「大陸軍」という正規軍を創設し、総司令官にジョージ・ワシントンを任命した。しかしながらこのままでは、アメリカ独立抗争は、単なるイギリス連邦帝国内の「内乱」であることにかわりはない。そこで、大陸会議は他国の承認と同盟を得ることで、体外的主権を確立し、独立抗争を「内乱」から「国際戦争」に転換させることを狙った。狙いをつけたのはイギリスと慢性的に戦争をしていたフランスであり、この役割を帯びてフランスに乗り込んだのがフランクリンである。こうして、対内主権、戦時体制、対外主権の三つをそろえて、イギリスと戦う体制がようやく固まることになる。大陸会議の第一人者はアダムズであり、戦争の主役はワシントンであり、革命外交の担い手がフランクリンであった。

パリに乗り込んだフランクリン博士は、フランス人たちの自分への思い入れをはじめから計算にいれて存分に利用し、彼らの感情を完全にコントロールした。「新大陸の賢者」としてフランクリンは、フランスの貴族たちやフィロゾーフたちが涙を流さんばかりに喜びそうな政治思想を存分に語った。ヨーロッパ中の大学から与えられた名誉博士のオーラをしっかり身にまといながら、しかも、いかにも素朴な老人のように、しかしあくまで上品な物腰でサロンや宮廷に入り込みまんまと主役の座を占めた。さらに、その仕事の合間にはパリの美女たちを次々とものにしていった。フランスはこうしてフランクリンの軍門にくだり、1778年米仏同盟が成立し、対英宣戦布告を行う。

まさに大陸会議の狙い通りの展開であったが、この米仏同盟をやや不快げに眺めている人物が少なくとも二人いた。一人は、ジョン・アダムズである。アダムズは、そもそもアメリカの不幸は外国勢力からの影響をうけることであると考えていた。すなわち、彼の洞察では、現在たまたまイギリスと戦争をしているだけのことで、フランスという国のもたらす害悪はイギリスと同じか、それ以上にたちが悪いと思っていた。そしていま一人が、ジョージ・ワシントンである。ワシントンは、アメリカの勝利はいちにアメリカ諸邦の結束のみにかかっており、フランスの助力など不必要と考えていた。たしかに、進行中の戦争そのものは大苦戦などというものではない。連戦連敗である。しかし、ワシントンは大陸大で戦われるこの戦争は、最後にはイギリスの遠征軍を疲弊させるはずであると考えていた。だとするならば、ここでフランスなどにアメリカ大陸への介入の機会を与えれば、後々の禍根を残すと考えていた。イギリス正規軍の脅威に激しい不安を抱えていた大陸会議の紳士たちは、フランスとの同盟成立に狂喜し、フランス軍のカナダへの駐屯を認めるようワシントンに打診したが、ワシントンはこれを即座に拒否し、冷静になるように文民たちをうながした。

これは後の話になるが、独立達成後政権についたワシントンは、英仏戦争においてフランスが同盟義務にもとづきアメリカに参戦を求めた際にこれを拒否し中立を宣言し、反対にジェイ条約によってイギリスとの関係安定を行い、第二代大統領になったアダムズは、フランスとの同盟を解消した。ワシントン政権の駐仏公使のモンローは第五代大統領としてモンロー・ドクトリンを宣言したが、このモンロー・ドクトリンを執筆したのが、アダムズ政権下で米仏同盟解消の任務にあたっていたジョン・クインジー・アダムズ、すなわちアダムズの長男である。ここにアメリカ単独主義外交の起源がある。

要するに、フランクリンの路線をワシントンとアダムズが独立後ひっくり返したのである。ここにも、革命第一世代の間のさらなる世代間の違いがあった。すなわち、フランクリンは、ヨーロッパ式の外交スタイル、バランス・オブ・パワーの外交スタイルを熟知していた世代であるのに対して、アダムズは知識の上では知ってはいても、肉体感覚として完全にアメリカ人であった。

フランクリンといえば、The Americaとされているが、実は、アメリカ独立革命期の文脈では、アメリカにおける最後のヨーロッパ人だったのである。そして、独立達成後のアメリカを担ったのは、まさに最初のアメリカ人たちであった。