■■図書館大好き人間から見たウェブ・システム■■
1 世界を知る小さな断片を探す場所
私は博物館が好きだ。自然史博物館でも美術館でも、歴史館でも何でも。
写真や図表、グラフが豊富な百科事典も科学事典も大好きだ。
書店めぐりも好きだ。
以上の共通点は何か。
現物・模造資料や知識・情報が何らかの基準で分類され整理され編集=体系化されて表示・陳列されているところだ。そして、何よりアナログ(印刷や標本・模造も含めた実体物)でプレゼンテイションされているところがじつに気に入っている。
私は、目的=本質がアナログで、手段=形態がディジタルだと割り切っている。ITはしょせん、現実の世界を知るための手段=手がかりにすぎないと思っている。
だが、現実の世界=宇宙は途方もなく巨大で、私が手に入れて理解できる知識・情報は非常に限られている。私は、学習や情報検索・閲覧をつうじて、この巨大な世界のうちのごくごく小さな部分を、限られた視野で知覚・認識するにすぎない。要するに世界の断片を理解するために、書籍や博物館の標本展示でさらに小さな小さな断片を見聞するにすぎない。
で、そのために、まずは図書館や博物館のなかをそのときの気分にまかせてランダムに歩き回る、めぐり回る。そして、「好奇心」や「偶然の出会い」をナヴィゲイターとして、そのとき惹かれたもの、普段から気にかけているものを中心に、やや立ち入って注意深く見る。
それは何なのか。なぜそうなのか。いかにして、そうなのか。と思い浮かぶままに問題意識(素朴な疑問)を抱きながら、さらに詳しく見て考える。
博物館なら、そのなかで最も気になる事物の説明や詳細展示に集中して「学ぶ」ことになる。図書館なら書架から選びだしたり検索閲覧して、読もうという意欲がわく書物を借り出す。集中して読みたいので、2週間の貸出期限では(300ページ平均で)2冊が限度だ。
ただ読みふける本もあれば、メモやノートを散りながら読み思考し推論する本もある。
しかし、本格的に読もうとする本が見つからない、深く学びたいという資料展示に出会えない(というよりも、私自身の意欲が盛り上がらない)ときもある。それでも、多数の書籍の題名や紹介の文字面を眺めて回ったり、多数の標本・資料展示のなかを歩きめぐるだけでも、楽しい。
本を開いて、目次や索引を眺めるだけでも貴重な時間を過ごした気分になる。
比喩でいえば、知識や情報の森林のなかであえこれ個々の樹木を眺めて回る森林浴をするだけで、何か得をしたというか、気晴らし・娯楽に出会ったような気分になる。
2 インターネットの世界
さて、インターネット=WWW(ワールド ワイド ウェブ)の世界についてはどうか。
私がインターネットを始めたのは、17、18年くらい前だろうか。それ以前にも、判例や新聞記事、企業経営関連のデータベースで検索する経験はあった。研究のために世界各地の図書館や大学に資料情報の提供を求めて、複写の送付を依頼する経験もあった。
だが、世界的規模で直接にキーワードをフォーム入力して検索するのは、インターネット検索での経験がはじめてだった。もちろん、政治や経済、企業経営や技術、自然科学に関する情報検索がほとんどだった。
企業のために材料や部品、テクノロジーに関する情報(購入とか提携の相手として)を収集したりすることもあった。専門家が提供する専門分野に関する情報に関する限りでは、ウェブはある程度役に立った。
今でもそう感じている。
私は、検索をめぐるキーワードの系列を考えるのが好きなのだ。もちろん、キーワード系列の立て方が、見当違いの場合も結構ある。で、なかなか知りたい情報に出会えないという経験をしょっちゅうしている。
そんな見当違いは、検索エンジン(ロボット)の仕組みのせいか、私の思考スタイルがアナログ=アナロジーに傾いているせいか。たぶん両方だろう。
だが、期待したのとは違う経路に入り込んだ結果、思わぬ出会いを経験して得をすることもある。「目から鱗」というか「別の方向への視野の拡大」というか、とにかく検索が期待通りに最短距離で進んだ場合には出会えなかった知識や情報を手に入れることもある。
「ところが」である。
専門家だけのあいだの情報提供・やり取りだけで終われば、概して、インターネットは便利なもので、知識や情報の宝庫(とまではいかなくとも、博物館並み)と言えるかもしれない。
が、一般の人びとや趣味や嗜好で自由に書いている記事とかゴシップなどに関して見ると、「やはりメディアはそれを使う人物の教養や知性や品性に完全に依存するんだな」と、ごく当たり前の感懐を抱くことになった。
「天は人の上に人をつくり、人に下に人をつくる」なのだ。どこまでも高尚になれるし、どこまでも陋劣・下劣になれるのだ。
つまりは、週刊誌やテレヴィなど、これまでに大衆化してきたメディアとまったく同じような事態が、インターネットでも起きているのだ。いや、もっと過剰に増幅しているのかもしれない。
言い換えれば、検索・閲覧に化しては、利用者の選択の目、目利き具合が、それまでのメディア以上に物を言うわけだ。
図書館には司書、博物館・美術館には学芸員やキュレイターがいて、しかるべき水準以下の書籍や標本・資料は調達・展示・公開しない。つまりは、知性や品性の水準が相当に高く保たれているわけだ。
もちろん、それがごくたまに表向き、公式的な見かけについてのことにすぎない場合もあるのだが。
ウェブの知の世界の強みと弱み
要するに、ウェブ世界の情報や知識の水準には、大きな格差があるのだ。というのも、コンピュータとネット利用料金が安価になったために、多数の一般市民・民衆が情報手段としてのメディアを手に入れて、容易に「情報の発信者」と「受信者」として立ち現われてきたからだ。
それは一面で、それまで専門家や特権的立場になる人びとだけに限られていた「自分の知識や考え、感情など」を世界に発信し表現する権利を、一般市民が手に入れることを可能にした。
他方で、そういう限られた人びとが受けていた教育や訓練(それはまた一定の共同主観とか価値観を注入する機会ともなっていた)を経ていない人びとが、情報(知識や意見、感情)の発信者として登場することにもなった。メディア産業とかジャーナリズム、アカデミズムに固有の選別装置=フィルターを通過しない情報が氾濫する状況をもたらした。
かつてテレビ業界のプログラム政策の傾向は、「水は低きに向かって流れ集まる」の路線をとっていた。不遜だが、言わせてもらうと、知識や情報の質や内容の水準への「大衆の好み」をピュラミッドにたとえると、底辺に近いところほど需要が大きい市場となるようだ。
視聴率(それが広告費収入を左右する)を稼ぐためには、とにかく「下世話で卑俗な底辺をねらえ!」ということになった。
それが、ビズネスとしてのマスメディアの不可避の傾向なのかもしれない。
この傾向が、インターネットの普及の初期局面にも現れた。今でも続いている。
で、一般市民や民衆の文化を「見降ろす傾向」の「知識人」の大部分が、「インターネットからはまともな情報が得られない、低俗だ」と判断して、ウェブへの参加を拒否し、あるいはためらった。ことに日本では、その傾向が強いかもしれない。
日本語でのウェブサイトの情報の質の向上と広がりが、海外に比べてかなり遅いような気がする。
だが、最近になって、日本語サイトでもずい分高度な情報・知識を提供するものが増加している(と思う)。
してみると、ウェブ情報・知識の強みは、多数の一般市民が情報の発信者となることができる、発信の累積によって質と内容(深さと広がり)も向上していくということになろうか。
とはいえ、知識や情報のIT化(ディジタル化)の技術や方法は、私たち一般市民にとっては、かなり面倒で複雑なものである。容易にアクセスを許さない。たぶん費用もそれなりにかかるだろう。
しかも、それぞれの技術や方法ごとに障壁ができていて、共有化や互換性の壁が立ちはだかっている。タコつぼ化しているのだ。
創造的・批判的能力を備えた自立的市民の知のネットワークは可能か
ところで、過去のあらゆる文書や書籍のIT化(閲覧利用の有料・無料を含めて)がどんどん進んでいる。紙面を画像データに変えるだけのものを含めてのことだ。
アナログの文字情報媒体(紙やフィルム)は必ず劣化し、いずれ消滅するからだ。とはいえ、ディジタル情報が永続的だという保証はどこにもないのだが。
そういうことを考えると、WWWの世界に知的水準と広がりは今後急速に高まっていくことになるだろう。どこかに蓄積された情報・知識は拡大し上昇していくわけだ。
では、それを活用して発信し、交流し、相互に批判的・創造的に検討して総合化し、さらに高めていくことになるのだろうか。
人類のあり方しだいということになるだろう。
私としては、文明全体としての人類にはあまり期待していない。全体の動きは権力構造によって左右される側面が圧倒的に大きいからだ。
頼れるのは、個人とか小さな自立的集団の動きだ。
とはいえ、WWWもまた世界の権力構造にその一環として組み込まれていくならば、知的水準は向上していっても、権力側にとって「都合の悪い情報」は一般民衆から手の届かないところに蓄積・秘匿されていくことになるだろう。
行財政とか軍事装置、核施設(原発などを含む)、有力企業の管理・経営情報は、安全保障のためということで、幾重にもセキュリティをかけられて私たちから遠いところに隔離されていく傾向が、今すでに見られる。
それを少しずつでも崩せるのは、批判精神や創造能力を持つ市民の、見えないところを想像し思い描く力量ということになろうか。そのためには、身近な知識をコツコツと地道に集積し、思考方法や批判方法を学び、あきらめずに発信・交流し続ける忍耐力が必要だ。
結局のところ、IT化以前の時代と同じということだ。そのための道具(インストゥルメント)として、どれだけ活用できるか、ということか。