1 文章とは何か
こんな私の文章を読むよりもおススメなのは、すばらしい文章家の作品を徹底的に読み込み、吟味し、模倣することが、一番の早道です。
たとえば、池波正太郎、藤沢周平、志賀直哉、島崎藤村などは、私の胸を鋭くえぐるように迫ってきた文章家です。芥川龍之介もいいでしょう。彼らは全般的にすばらしい。また、物語の全体的構成、構想のすばらしさという点では、『穢土荘厳』の杉本苑子が一番のおススメです。
私が彼らに迫れるはずもありません。
しかし、かつてヘーゲリアンとして論理学や《文章表現をつうじての「認識」の客体化》について悩みぬいた経験には自負を持っています。ここでは、《文章を分析し再構成するための科学》のテーゼを示すつもりです。
さて、文章とは何でしょうか。
文章とはいくつかの文からなる、文脈を備えた構成物(デザイン)です。そして文は、文章を作り上げるブロック(部品・部材)です。では、文とは何でしょうか。
■文とは何か■
文とは、言葉の集合で、最低限の意味の「まとまり」や「つながり」を表します。
文は、地球上のどこでも、次の3タイプしかありません。
①何が 何だ。 例 あの動物は 犬だ。
②何が どうする。 猫が 走る。
③何が どんなだ。 夕日が 美しい。
①は、あるものごとの名前や意味範囲を示す文です。②は、あるものごとの動きを示すものです。③は、ものごとの様子や状態を示すものです。
ここで、「何が」に当たる言葉は「主語」と呼ばれます。文の「頭」とも言われます。
次に、「何だ」「どうする」「どんなだ」は述語と呼ばれ、文の「体」(本体)と言われます。
そして、「何が」「何だ」「どうする」「どんなだ」は、文節と言います。
これらは、1つ以上の単語からなる、言葉の節目で、最低限度の意味のまとまりを持つ単位です。
ここで、「何が」という文節の本体は「何」であって、それに当たる言葉は名詞、すなわちものごとの名前を指示する言葉です。
したがって、①の文は、述語の本体は名詞で、ものごとの名前(意味範囲を画定する言葉)を表現する文です。
②の述語の本体は、動詞で、ものごとの動作=動きを示す文です。
③の述語の本体は様子や状態を示す言葉、つまりは形容詞や形容動詞となります。
世界中の言語では、基本的に、この3つのタイプしか存在しません。
こうして、文を書くためには、書き手は、
①ものごとの名前(名称=意味範囲)を表現しようとしているのか、
それとも②ものごとの動作=動きを表現しようとするのか、
それとも③ものごとの様子や状態を表現しようとしているのか、
を判断=自覚しなければなりません。
この3つの文のタイプは、①をプロトタイプとして、②③はそのヴァリアント、多様化の変種と見ることができます。
これは、哲学=認識論では、「定言判断」「定言命題」と呼ばれます。
つまり、ものごとを判断=断定するときの言い方です。
ところで、①と③は、(日本語では)述語の本体が「名詞」か「形容詞」「形容動詞」かの違いがあります。
英語・ドイツ語・ネーデルラント(オランダ)語などのゲルマン系の言語では、ともに、述語動詞が「be動詞系の動詞・助動詞」となる文型です。
イタリア語やスペイン語などのラテン系言語でも原理は同じです。
そこでは、動作も現在進行形という形があって、それは①の文型で②の動作を状態として表現する文型です。
要するに、基本は1つだということです。
ここで重要なのは、書き手が相手に伝えようとする内容が、
事物の名称なのか、
動きなのか、
状態なのか
という区分を自覚するということです。
自分は何を話そうとするのかを意識せよ、ということです。
この意識の覚醒を繰り返していくと、いつしか条件反射になり、あえて意識しなくなります。というよりも、言説の目標意識がもっと高い次元に向けられるからです。
●とにかく3つの型の文をつくれ●
以上の意味で、文をつくるということは、事象を定言判断(規定・定義)することで、世界(自分の外界と内面のことがら)を判断=認識するということです。
ゆえに、文章技術を身につけようとするなら、その最初の訓練は、とにかく自分の周りにあるもの、見えるもの、感じるものを、以上の3つの文型で表現しまくることです。
いろいろな飾り=修飾語や付帯状況を入れずに、とにかく「AはB(名称・状態)だ」「CはD(動作)する」と。
これは、結構難しいものです。
認識論では「定言判断分析」といいます。