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高樹のぶ子のSIAブログ

2010年10月27日 / 最近の出来事

さよならジャンボ

海外に来ています。
関空から乗った飛行機はJALでした。
基本的にこれまでもJALを利用してきたので、ぜひ再建が上手くいって欲しいと
願っています。


ところで機内での機長からのアナウンスで、ジャンボ機は今年いっぱいで
廃機され、来年からは別の機種が就航するという話がありました。
何十回、いや国内を入れればきっと百の単位の回数、ジャンボ機ボーイング747
に、乗ってきたのではないでしょうか。
多いときは東京行きだけで年に20回を超えていたし、海外もかなりの回数に
なったはずです。
往復だと、その倍の回数、空を飛んだことになります。
もちろんすべてがジャンボ機ではありませんでしたが、一番信頼のおける、
なじみのある機種は、やはりジャンボでした。


大量の人間や物資を運ぶという目的では、ジャンボ機に叶う機種は無いとも言われ
てきました。
けれど、エネルギーの効率が悪く、エコや省エネの観点からは、巨体であることが
マイナスになります。


今回のジャンボ搭乗が最後になるかも知れない。
そう思うと、ちょっとした感傷も覚えました。
また、大きいことが良い時代ではなくなりつつあるのだと、JALの再建問題だけで
なく、時代の移り変わりにも、思いが行きました。


乗り心地は、大きい機種の方が上かと言えば、きっとそれとは関係ないでしょう。
コンパクトで、効率の良いものが生き残る時代。


そういえば、我が家の周りのレストランも、手を広げず、身内で助け合って経営
しているところは、不況の中でもちゃんと成り立っています。一方、バブルのころ
フグコースが一人4万円もした高級料亭は、全滅しています。
飛行機とレストランを一緒にするわけにはいかないけれど、どこか通じるものが
ある気がして・・


飛行機の話題ということで、話があちこちに飛んでしまいますが・・・
中国もあの広さ(多様性)と人口を抱えているだけで、日本から見ると「ほとほと
参る巨漢」なのですが、実はとても不自由な国なのだと思います。
何かで縛っておかないとバラバラになるし、容易には動けない。


人口が10倍なら、10倍の優れた人間も劣った人間も輩出して当然で、むしろ、
日本人は一人頭に換算して受け止めることが、大事な気がします。
無用な恐怖心を中国に抱かないためにも、価値基準を変えるチャンスにしなくては。


中国の反日デモの中で、良く使われる言葉に「小国日本」というのがありますが、
この感覚、世界の趨勢からかなりズレていますね・・
大きいことはもはや、良いことではない・・


まさに「さよならジャンボ」の時代なんですね。


高樹のぶ子

コメント ( 23 ) | Trackback ( 0 )

« 白鷺 最後のムーヴ... »

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コメント
 
 
 
こちらも旅の空から。 (リリー。)
2010-10-28 00:52:27
 あら、先生もどちらかから(日本は真夜中)?
こちらも旅の空から、です。
 旅、といっても、海外暮らしの上に更に「引越し」たのでそんな気になってるのですが。
(引越しと旅ってとても似てるところがありますね、)
JALの飛行機ってまだ飛んでいるのですか?!なんておばかなこと言ってますが。
そうでしたね、関空から、海外にも行けましたね。
(浦島太郎をお許しください)
そうなんでしょうね、作家さん、芸術家さん、は度々の「旅」、必須なんでしょうね。
(国内外関わらず、)
最近、人気うなぎのぼりのある作家さんが
「一ヶ月に一回は旅に出ないと独房で書いてるような気になってくる」とおっしゃっていましたが。
 しかし、芸術家さんじゃなくても、旅や、たまの引越しって必要かもしれないですね。
(にんげん、同じ所に長くい過ぎると足から根が生えてくるし?!、頭も同じ思考回路、価値観でがちんがちんになってきます?!)
 快適な旅を続けられるよう、お祈りしております!
 
 
 
良い旅を (satoko)
2010-10-28 07:10:19
おはようございます。

まだ、旅の途中ですね? 
ほんと、JALには、頑張ってもらいたいです。
飛行機、そして旅人は、いくつになっても私の憧れです。お仕事がらみの旅・・・一度やってみたかった(笑)

中国は中国をどのようにしたいのか、考えているとも思えません。歴史は繰り返すといいます。
中国はかっては大国でした。世界史に類を見ないほどに。でも衰退を繰り返してきました。今が中国にとっても正念場だと思うんですが・・これじゃあ?・・・。と今朝のネットの記事から思ったことでした。あの国を相手にしなきゃやっていけないわが国も大変です。






 
 
 
円高の恩恵 (高樹のぶ子)
2010-10-28 13:08:14
旅先では、円高はありがたいです。
輸出企業の悲鳴は海外には届きませんが・・大変なのでしょう。一方で、海外の優良企業を日本企業が買収するはなしも、チラホラと。

「上七軒」で、参考になる意見を書き込んでくださている「サイア」さんや「夢の中へ」さんなど、ぜひこちらで、ご意見を披露してください。
知らなかったデータなどが、ブログ主にとっても勉強になりますので。

何しろ、経済関係は、現象しかわかりません。
 
 
 
体質、需要等 (夢の中へ)
2010-10-29 00:51:38
私の方が随分勉強になっております。
家族は皆理科系で国語は苦手ですので、文学系のサイトは刺激になります。
また、日本人の反応も手に取るように見えてきます。
やはり、日本語も日本人も情緒的ですね。そこが魅力なんですが。
でも、他国、他民族に対する弱点にならないように十分留意しないといけませんね。
このあたりは、九州大学とSIA事業の総括と情報集積で、貴重な情報発信がされていくものと期待しております。
(論争は苦手なので発言は控えておりますが、経済政策関係の方がご覧になられるかもしれませんので、少し記述します。)

ジャンボ機がなくなるのは寂しいですね。初めての飛行機はプロペラ機で、2回目がジャンボでした。
ジャンボが登場したころは、中学生くらいで、PANAMが全盛のころでした。
PANAMの倒産はショックでしたが、環境と企業体質を意識させられた出来事でした。
体質を考えれば、いろいろな問題を内在していたJALの将来も予感させられました。
JAL同様にジャンボも環境変化に対応できる「体質」を獲得できなかったことが淘汰の原因でしょう。
しかし、自らの「体質」を把握し、改善していくことは、痛みが伴うなど困難度は高いと思われますが、「存続」のためには、主体性を持って意識変容と行動変容を起こしていかなければならないのでしょう。
JALもがんばるよりはまず体質改善ですね。

さて、経済のことは本当に難しいので、細かなことは分かりません。(実際、後付理論も多いようですし)
単純化して考えますと、現状の打開策は、有効的な「需要」の創造・拡大化を図ることに尽きるような気がします。

(ご指摘の目的と手段に整理しますと)
政策目的は、経済発展(規模拡大)。

政策目標は、効果が明確な「需要」を政府が直接作ること。(ばら撒かずに)

そのひとつの手段としては、「イニシャルコストが高くてランニングコストが低いもの」への投資が考えられます。
例えば、公共機関等の照明のLED化を推進する。
大量発注すれば、購入コストも消費電力も逓減していきます。
同時に、製品の製造原価や定価も逓減していくので、消費者還元にもなり、国際競争力も高まります。

その他の手段としては、国や社会等の「体質を改善できるもの」への投資が考えられます。
その最たるものは、教育投資です。「教育には金がかかるが、馬鹿な国民を作るともっと金がかかる」という趣旨で、レーガン政権下で教育投資が行われ、2000年前後までのアメリカの発展として結実したことはご承知のとおりです。(その間、日本は、「ゆとり教育」で劣化傾向)

その他いろいろあろうかと思いますが、B.フランクリンの政策(フィラデルフィアの道の舗装)同様、国民が笑顔で、もっと税金を払うから事業を推進してほしいと願うような事業という形で、需要を創造することを切望します。


前回の「疎水の白鷺」のお写真を拝見し、引き締まった清涼感から、数奇屋風の町家の家並みが浮かび、京の文化の香りが伝わってきました。
(こんなことを書くと嫌がられるのですが、どなたも触れられませんので。)
私も社会人になるまでは、野鳥のいるいい自然環境と思っていたのですが、「白い鳥と黄色い花」は「河川の汚染の象徴」ということでちょっとお驚き。(サギ?)
指標生物というもので、環境の大まかなレベルを生物で把握するそうです。
有毒ガスとカナリアとか、浄水場の魚とか、生物利用が有名ですが、広く社会に目を向けて、いろんな環境の変化の兆しを感じ取っていくことが、体質改善への前提であると思われます。
でも、白鷺も白鷺城もやはり美しいですね。そしてジャンボもゆったりしていいですね。
(訂正:福岡県庁職員は曽祖父でした。)
このあたりで、本日は退出します。
 
 
 
中国 (高樹のぶ子)
2010-10-29 02:55:54
木蓮さんのコメント(上七軒)に関してですが、中国人が三朝温泉や、日本の土地を購入する動きに、私はあまり心配していないのですが・・
日本的なモノを学ばなければ、決して成功しないと思うからです。また、中国が日本を知る、もっとも有効な方法だと思います。チャイナタウン化したのでは、保てないと思います、温泉であり、ビルであり・・

かつて、マンハッタン島のビルやアメリカの映画会社を買い占めた日本のことを思い出してしまいます。

「夢の中へ」さん、「白い鳥と黄色い花」の話は、初めてききました。良かったらもうすこし、詳しく教えてください。

相変わらず、旅先にて。
 
 
 
自覚の時 (木蓮)
2010-10-29 04:32:23
いつも、投稿してから読み直して、自分の言葉の拙さを痛感しています。

私も、中国資本の流入自体には、反対ではありません。北海道の森も、健全な「投資」です。
懸念しているのは、それによって引きおこされる文化の断絶です。
的確な例えが思い浮かばないのですが、、、戦後の地方都市は、高度成長の波にさらわれて、すっかり個性を失った「小東京」になってしまいました。
あるいは、情緒ある地が、小汚い看板だらけの、ちっぽけな観光地になりさがりました。
それらは、日本自身で、無防備に、日本をないがしろにした例です。
他国の資本が入るとは、それらが、破竹の勢いでなされるかもしれない、という事です。

しかし、これを機会に、日本自身が守りたいものを自覚し、失ったものを取り戻すことができるかもしれません。それを念頭においた法整備を急いでほしい、という意見です。

(例の瀬戸内海観光計画も、日本の投資法人が見向きしてくれなかったら、こちらの投資会社にプレゼンしようかな、と思っているくらいです(笑))

かつて日本は、ビルを高値買いして、結局こらえきれず、大損しました。この度の中国は、投資自体が洗練(成金ぽくない)されてる上に、バブルではありません。発展的な経済交流です。日本側では、文化を守り、環境を守り、景観を守り、地元の利益を守る、などの目的をもった法律をもてば、先生のおっしゃる通り、よい相互理解につながると思います。
それらの法律は、既得権に配慮して整わなかった面もあり、その点でも、よい機会だと思います。

他者(他国)との交流は、あるべき自覚を促してくれます。




 
 
 
海外から (高樹のぶ子)
2010-10-29 06:33:26
木蓮さんも、私も、今、海外から日本のことを考えています。
外に出たほうが、日本のことが良くわかる気がします。

中国が日本に資本投下する動機は何でしょうねえ・・
日本への観光客が、「すばらしい」と感じてくれるものは、日本人が日本の良さを実感するのと同じかどうか・・
「将来値上がりして、利益が出るから」と考えてでしょうか。
それだと、日本がバブル時にマンハッタンを買いあさったと同じ結果になりそう。

たとえば、島一つを買い取り、そこにホテルを建てて観光地化しても、中国からの観光客だけではチャイナアイランドになり、よほど面白くなくては、成り立たないでしょう。
となると、中国資本は、何をしたくて、島を買い取るのかな。

中国に何度も出かけていると、中国人が「日本の自然はすばらしい」と思う気持ちが解ります。どこまで行っても平らな大地に、ひたすら道路と同じ四角の建物が続く景色・・そこに人がびっしり・・・
山、谷、川、多様な樹木。明確な四季。
当たり前のことが、日本はすごいのです。

環境が人間に及ぼす力を信じている私としては、突飛な言い方かも知れませんが、「日本の自然になじめば、中国人も日本人化する」気がします。今後、韓国人の二世三世のように、チャイニーズジャパニーズが、我々の周りにも沢山存在するかも知れないと・・・

あの爆竹騒音だけは、ゴメンですが(笑)
 
 
 
環境が人間に及ぼす力は大きいですね (木蓮)
2010-10-29 09:02:57
傘をささなくなり、身振りが大きくなり、顔じゅうで笑うようになりました。でも、湯船恋しさは、あいかわらず。。。

アメリカ人からもよく、日本の自然に感嘆する声を聞きます。(難点は、言葉が通じない、読めない、住所が複雑、、)
キャンピングカーを借りて、ラスベガスからグランドキャイオンに始まる国立公園めぐり(グランドサークル)で出会ったのは、欧州人ばかりでした。
その土地ならではの環境だから、観光客を惹きつけるのでしょうね。

SIAブログが閉じられる前に、夢の中へ様がいらっしゃいましたら、よろしければ皆さまにも、ご教示いただきたいことがあります。
つねづね『日本語と日本人の情緒性』や、『日本人のわかりやすい反応』と指摘されていますが、これは、日本語の論理性が弱い、ということでしょうか。また、『反応が手に取るように見える』というのは、客観的・理性的に反応しない、あるいは、反応が直情的、ということでしょうか。

辺境の言語である日本語ですが、概念表現などは漢語に助けられて、抽象的な、あるいは科学的な思考を深めるには、それなりに便利な言語だと思います。ただ、表現手段としては、法則性が弱いので誤解を生みやすく、その弱点を発し手と聞き手の「察し合い」で補っているために、察し合えない条件下では、議論が成立しにくくなるように思います。

他方で、英語はロジカルだといわれますが、英語をしゃべる人みなが論理的表現できるというのではなく、みれば、小学生のうちから、論文を書く練習をしています。日本の小学校では、感じたり、思った事を書くという、主観的表現を大事にしていたので、その違いに驚きました。
論理的に考えたいときは、英語で考えるという人がいますが、その人の書く日本語は、とても理解しやすい。謙遜されていますが、夢の中へ様の表現も、論文を書ける方らしく、わかりやすい文章です。

日本人には、相変わらずTOEFLの壁は高いという話題で、ある教官が「情緒的な日本語使っている限り、論理的思考は難しいでしょう」と断言されました。これを否定したいのです。論理性を保ちながらも、情緒ある日本語の頒行を願っているのですが、これは、矛盾しているのでしょうか。
 
 
 
日本語? (遅れてきた)
2010-10-29 16:42:28
以前民主主義についてコメントさせていただいた者です。たまたま言語についての記述があり、私も及ばずながら書き込みたくなりました。

高樹さんという作家のブログでもあり、投稿者の方々の知的レベルも高いので、言葉について実にさまざまな記述を拝見してきております。

私は80年代に米国で6年間生活し、現在は南アジアにて1年の半分を過ごして居る者です。また、その間の期間も韓国・中国を頻繁に訪れておりました。母国語以外には英語を使いながら生きてきております。

その経験からいつも感じていること(もちろん私見です)を述べさせていただきます。

コミュニケーションには方向性があります。送り手と受け手です。相対での場合、これが入れ替わりながら進むことになりますし、放送・広告・演説など1方向のみもあれば、ネットのように双方向性を持つ場合もあります。いずれの場合も、日本語では受け手重視というか、受け手に内容の伝達をすごく依存しているように思えます。これに対し、英語あるいはひょっとすると多くの(というより恐らく世界で日本語だけが特殊と思っていますが)言語においては、送り手重視というか、送り手が内容の伝達に責任を持つ言語(文化)であるように思われます。

現実の場面でこれがどのように現れるのか例を挙げてみます。

日本語では主語の省略が頻繁に行われます。英語では国王クラスの人間のしゃべり方になります(主語が必要でない唯一の人間ですから)。
英語では何かにつけすごく語数を費やします。わかるまでたとえ100万語費やすのもいとわない姿勢があります。シェークスピアを原書で読むと驚きます。対して日本語ではたとえば俳句があります。暗黙のルール共有のもとに最小語数でどこまで深さを表現するか(判るか)というものです。
アメリカの学校に行くと、先生からの伝達事項に生徒達から平気で「聞き漏らしたのでもう1回説明して」と、しかも何人からも言葉が飛んで来ます。先生はいちいち1人1人に伝え直します。日本では、聞いてなかったのは自分の責任とばかりに、誰か友人に聞き直します。
アメリカでは自分がきちんと物事を言葉で説明することは普通に重視されますが、日本では相手が「察する」能力が重視されます。「察しが悪い」と下手すると馬鹿扱いされます。
送り手の口下手はアメリカでは下手するとその人間の能力を疑われますが、日本ではむしろ朴訥な人格として好意的に見られる場合さえあります。
平均的なアメリカのTVコマーシャルは、平均的日本人にはとてもくどく感じられます。やたらいろいろ言うからのようです。逆に、日本のTVコマーシャルは、恐らくアメリカ人には淡白すぎる表現で、投資価値を疑われるかもしれません。

枚挙にいとまがありません。

別の角度の例を挙げてみます。私が留学生だったころ、仲間にある優秀な日本人女性留学生がいました。彼女は典型的な文系女子で、電気・機械には全く疎い人でした。ある日、どうしてもビデオデッキが欲しくなり、購入したのですが、アメリカは何事も自分でやる国です。TVとの結線を自分でしなければいけません。仕方なく、英語の取説を読みながら(現地仕様の製品ですから)、試みたところ一発でスムーズに出来たそうです。
ちなみに、過去に日本で日本語の取説を見て行った際はどうしてもできず、彼女の兄に助けてもらっていたそうです。

これに類似した現象は結構多いです。このことからも、英語は理系ないし論理表現に向き、日本語は情緒表現に向いているという意見もよく耳にします。

しかし実際には、日本語でも素晴らしい論理表現はできますし、英語での素晴らしい情緒表現もあいまいな表現もできます。後者の例を挙げておきますと、アメリカのファッション雑誌や星占いの雑誌などでは、日本語もかくやと思わせる豊かな文系表現に満ちています。

つまり、ある表現に対する言語による優劣性は、私の場合、あまり感じません。むしろ、コミュニケーションの目的と姿勢の違いのファクターのほうが大きく感じられます。

これらのことは、何を対象に取り上げるかによって様々なご意見があろうかと思います。この素晴らしいブログの場をお借りしておおいに話し合っていただければと願うものです。

私の話をもう少しだけ続けます。

上述した諸々のことから、日本語を母国語とする者として、気にかけることがあります。受け手に依存する性質ゆえ、実は送り手側が受け手の理解度を認知できていない場合が生じることがあるかもということです。我々日本人はとかく「言葉足らずですみません」という表現を用いることがありますが、私的な経験の中ではアメリカでこのような表現はほとんど聞いたことがありません。
送り手責任が徹底されていることによると思われます。ついでに言うと、日本語での誤解は、上記した送り手側が受け手の理解度を認知できていないことに起因する場合があると思われますが、英語での誤解は論理の崩れ・伝達漏れ・表現そのものの間違いによるものがあると感じます。

総合的には、私はどちらの言語が優れているかという議論は好きではありません。優劣を問う意義を感じません。
ただし、海外でよく感じることを一つだけお伝えします。

日本人は、自分達が特殊な存在であると言うことを自覚すべきと、いつも思います。正確に言うと、「自分達が特殊・少数派である」ことを自覚できていない特殊性を自覚すべきと思っています。もっと広く客観的に日本および日本人やその文化を見つめるべきと私自身も心がけています。

日本のように狭いコミュニティで濃密な人間関係をベースにした社会・文化のありかたと、大陸の諸国・諸民族のように常にいろんな人が行きかうなかで(まず敵か味方かの判断からはじまります)育まれた社会・文化のあり方は当然違うと思います。とかく日本人は人は皆同じと暗黙に思いがちですが、他の国・民族では人は全て違うということが前提になっていることが多いです。

ですから、コミュニケーションの媒体としての言語とその文化について、人生の、生活の、あらゆる場面において私は大事に考えたいと思っております。

長くなり失礼いたしました。

 
 
 
投稿名が途中で消えてました (遅れてきたファン)
2010-10-29 16:48:51
表題のように、なぜか投稿名が途中で消えておりました。
改めまして、「遅れてきたファン」です。
 
 
 
本題のジャンボですが (遅れてきたファン)
2010-10-29 18:23:51
本題のジャンボについても少し書かせてください。

確か試験飛行が私の中学生時代、ウッドストックの頃だったと思います。

飛行機好きですので、コメントを一言。

ジャンボは淘汰されるわけではありません。人間でいうと、
堂々たるキャリアを積んでの円満定年退社です。
高効率・低公害・低騒音の最新エンジンと高度化した電子制御を満載した優秀な後輩達に見送られながら勇退するのだと
思います。

私の定年(次のワールドカップですが)も、このようでありたいと願っています。
 
 
 
ワンダフル (高樹のぶ子)
2010-10-29 18:37:38
このブログはやがて閉じられますが、あまりに素晴らしくて、ブログ主もため息をついています。

正直に申せば、私は記事という「ちっぽけな餌」を撒き、いくつもの参考になる意見や情報の「収穫」を得ています。
真剣に、有意義なコメントをありがとうございます!

私は小説家で、しかも恋愛感情を得意として描いています。
けれど、どちらかと言えば(油断すれば)、条理や論理的な言葉を使ってしまいます。そういう自分と闘ってきましたし今も闘っています。
条理をもって条理を壊すむつかしさ。
そのとき、武器になるのは「身体感覚」なんですね。


「源氏物語」の豊かさとは。
ここで簡単にはかけませんが、日本語の本質に根ざしていますよね。

主語の無い英語は国王クラス・・ですか・・
「ここに申すこと、よきに受け止めよ」
神の言葉には主語があるのかしら。
聖書では「我は・・」とありますね。

日本語で「空気が読めない」というのは良くない形容です。

英語で「Did I clear myself?]
という言い方しますね。
このclearが翻訳難しい。
明快、というのではなくて、相手にとってどうだったか。
相手にとってクリアだったかどうか。

簡単にはイエスと答えられない。
もちろん日常的には、簡単にイエスと言いますが。

明朝、用事があって、書き続けることができないので、ご容赦を。
けれど、本当にコメントありがとうございました。
引き込まれて読んでしまいました!
 
 
 
レスポンスあるいは雑感 (夢の中へ)
2010-10-30 00:10:47
いろいろな投げかけに対する(取り急ぎ)レスポンスあるいは雑感として。
私は、専門家ではなく、あくまで普通の「生活者」の視点からの見方、思いなどです。厳密な根拠もなく、雑感、側聞程度のものもあるのでご了承ください。

テーマの『ジャンボ』については、ご指摘のとおり「淘汰」という表現は適切ではないと思います。膨大な輸送量とグロール化の推進から見れば、一時代を担ったと言うほうが適切ですね。1ドル=360円、新幹線が新大阪まで、東名高速もなかった時代からですから、むしろ環境の変化に適応していまだに現役第一線という事実は驚異的と評価すべきで、老兵は死なず、去り行くのみの感がありますね。


【環境】
私は環境の専門ではありませんので、なぜ「白色」と「黄色」かについては分かりません。(白い実を食べたから?)
一般的なことについてのごく簡単な内容でご了承ください。
指標生物の詳細については、九大等の環境関係の専門家にお尋ねいただいた方がいいと思います。ご造詣の深い方がいらっしゃったらご教示ください。

「黄色い花(菜の花等)」が河川敷に咲いていると、その土壌は「畑」レベルに富栄養化(窒素・リン酸・カリウム等)が進んでいることを示しているのだそうです。

「白い鳥(白鷺・カモメ等:せつないカモメは?)」は、「餌」とする水生生物が汚染(低酸素等)に強いものであるため、汚染の指標とされています。(岩魚等は清流、蛍等は軽度汚染、アメリカザリガニ等は高度汚染。)
確かに、子供のころよりも自然環境の悪化とともにサギの飛来数は増えてきました。
皆様、白い鳥が優雅に飛んで来たら要注意! 「サギ~!」って呼んであげてください。(もっとも財物の交付がないのでサギ罪は成立しません。不起訴!)

【土地】
外国人による土地等の買占めも気になりますね。
「旅館」型の国家が、いきなり「ホテル」型になったようなもので、法整備や意識変革(プライベートとパブリックに対する再認識等)が必要でしょうね。

「土地(島)を買う」というのは、土地を所有する「権利」を買うということで、その権利は国家が保障しているものと理解しています。実際、「土地」を造ったのは、神とオランダ人だけで、もって逃げることも出来ませんしね。
子供のころから、土地は、国のもの、単なる権利で、国有化されることも想定してあてにしないようにといわれていたので、大人たちの言う「不動産」という言葉に違和感があり、理解するのに少し時間がかかりました。
「権利」などいくらでも移動するので、金融系の仕事に携わることがあれば、「不動産」という言葉を死語にしてみたいと、学生のころは思ったものでした。
土地所有について、今一度、国が明確な方針を出して、一定の制限をかけて制度整備を行い、その範囲内ではフリーにして、徹底した流動化を図ればいいと思います。国家権力の責任において。

【言語等:羅列になりますが】
少し正確に表現すると、日本語は、論理性を有していますが、それ以上に情緒性が勝ってしまっているのだと思います。
論理性と情緒性の優劣はないと思います。ともに本質に迫る手段として、両方を駆使していくべきでしょう。感性と悟性のように、それをコントロールするのは、言葉の支配者の理性でしょう。
漢語の和語への変換や、条理や論理の排除という作家としての作業も、「理性」の具体的な働きと理解します。
また、コミュニケーションには、非言語的なものもありますしね。
このブログ内のやり取りが日本的であるのは、ご覧のとおり。フランスやアメリカでは、どのような反応でしょう?

日本語については、感受性も能力も高い民族が、高度な言語を使用して、高度な情報交換を行っている。それゆえに、言語以上に本質をとらまえたり、また表面的に何となく分かったような気になってしまったりするのでしょう。考えることはエネルギーが要るので、脳は楽したがるしね。だからワイドショウが好き?

随分以前に、ある講演会(広大教授だったと)によれば、無意識のうちに日本語と英語を併用しているのは、日本語の情緒的な部分を取り除こうとする行動であると。日本語で考えて、英語で考えてみればより明確にあるとのことでした。
過去に時代に、わざわざ漢文を用いていたのも同様のことではなかったのかと推察します。(波動に例えると、波長の長さによる性質の違い)
「言葉足らず・・・」というのは、本質へのアプローチの途中で、情緒性のためブレーキがかかってしまって未達(あるいは劣化)部分が生じてしまったことへの危惧ではないでしょうか。

あるビジネスマンから伺った話ですが、フランス語は、あまり論理的過ぎてビジネスの高度な交渉に時間がかかりすぎて不向き、日本語ではどうしても内容があいまいになりがちで、英語が適度に正確かつあいまいで、ビジネスの交渉に最適だそうです。

ギリシャでは、異なるポリス間の意思の疎通を確実の行うため、数学(公理が典型)、論理学、演劇により、相互のコミュニケーション能力を高めたようです。

時間がないとはいえ、整理できずに、思うまま羅列してしまったところは、日本人同士の安心感からでしょうか。
何だか分かったような分からないような気分に、やはり私は日本人ですね。

 
 
 
追伸(Fair) (夢の中へ)
2010-10-30 00:55:53
ブログのコメントが日本的であると感じたことについて。
実名者(高樹先生)と不特定多数の匿名者が、ブログという空間で会するとき、何が”Fair”で、何が”Unfair”かを通常はまず意識すべきであるのに、一部の参加者にはその意識がなかった、あるいは希薄であった点です。
そのことに注意を促すコメントをしてもあまり理解されていなかった点。(基本的な文化の問題か)
大勢に流されると、自律的な判断力が鈍りがちになっている点。
他の国のブログではいかがですか?
専門家がこのブログを分析すると、日本型ポピュリズムも含め、日本人の特性の一端は把握できるのではないかと思います。
 
 
 
おはようございます。 (satoko)
2010-10-30 07:35:32
又お邪魔します。閉じることになるまえに・・・
(まだ先のことと安心しています)

せめてもの贅沢!
ハーブを入れたお風呂のお湯がいっぱいになるまで、と思って書いています。どうせ時間があっても長文が書けないのは実情です。こんなことでごめんなさい。

言葉はすてきですね。当たり前ですが言葉はやっぱり発しなかった伝わりません。どんな風に理解されているのか気になるところですが、努力してみての結果であるならば仕方ないのかなと思っているのです。

過去と他人は変えられない・・・という諺?が今の私のマイブームです。

でも国家対国家の時はそういうわけにもいかないのでしょうけれど。

伝わるようで伝わっていない・・分っていないようで実はよく分っていたなんていうことは日本的なんでしょうね。
私は日本の言葉しかわからないので、この日本語を大切にこれからもしていきたいと思っています。

外国語が分れば人生も変わったのかもしれませんが。



あ・・とっくにお湯がいっぱいになりました。本当に失礼しました。






 
 
 
言語の普遍性 (クッカバラ)
2010-10-30 22:12:38
皆様こんにちは


言語の話、文化の違いへとテーマが移っており、つい、参加したくなってしまいました。

言語の相違を語るよりは、普遍性を語りたいと思います。
SIAでは、違った文化圏、宗教圏にある価値観の相違を体感しつつ、文学を通して、血の通った人間の営みの普遍性を痛感し、共感することを体験させて頂いた思いがします。サイコロの振り加減か、日本人として生を受けましたが、ひょっとしたら、埃っぽいインドの地に生を受けていたかもしれないのです。全くの別世界、というよりは、今、現在、同時進行しているアジアの地であることも、胸をつく内容が多かったと思います。

いみじくも、今年の初夏、ジョルジュサンドに乗り移ったかの勢いで高樹先生はショパンへの想いを作品にされています。サンドの言葉なのに、それは高樹先生の言葉でもあり、いえ、高樹先生の言葉なのに、そればサンドの言葉でもあったのでした。フランス語による会話。理路整然としていたでしょうか。伝わらなかった思い、伝えられなかった思いに悶々とする、人間として描かれている気がします。日本語だから曖昧、なのでも、フランス語だから理路整然でもない、と思うのです。

皆さんがご指摘の様に、日本ですと、伝達の相手も大方、日本語を母国語としており、文化背景、価値観等も、似通っていると思われます。勿論、価値観の多様性が声高に主張され、重要視されてはおりますが、それでも、ある程度の推測の範囲内にある、と言って差し支えないと思います。翻って、フランス。伝達者さえもが、仏語を母国語としない場合も多く、相手も、フランス人以外にも、アラブ系、北アフリカ系、ブラックアフリカ系、インドシナ系は勿論、英国、ドイツ、イタリア、と皆それぞれ様々な文化背景を背負った人々です。フランス人でさえ、一世代前はイタリアやスペインの移民であったり、東欧出身であったり、海外県の出身であったりします。そうなると、実際に相手に伝わっているのか、ということは、大いなる問題です。曖昧さは誤解をもたらします。『お昼頃いらしてください』が意味するところは随分違ってしまいます。以前、象牙海岸出身の女性のバーベキューランチに誘われました。冷えたワインを持ってきて欲しいとのこと、子供達と12時半に訪れると、彼女はシャワーを浴びたばかりでタオル姿!そして、彼女の叔母、叔父、従兄弟の大家族が揃ったのは、何と3時過ぎ。

こういった文化背景を考慮すれば、厳密な表現法に至る要因を分かっていただけるのかしら、と思います。卵と鶏論争ではないですが、決して、仏語が論理的な言語だとは思いません。そして、同じことが日本語にも言えると思います。論理的にするのか、情緒的にするのか。これは伝達者の一存にかかっていると思います。

ですから、湯船につかりつつ、ああ、と溜息をつきながら、言葉たらずだったな、と一人ごつのも、日本人としての特権ではないのです。世界人類共通の悩みなのではないでしょうか。

いつもは携帯の光と薔薇の香りを頼りに庭を横切るが、その朝は月が煌々と道を照らしてくれていた。降りた霜もまばゆいばかり。夏時間も今週限り。物理的距離とは無関係ながら、時差が1時間増えることで、心理的距離が遠くなると天空を見上げれば、無言のオリオンが光を放つ。。。

そんな時、愛しい君を思って、SMSを打つ。その言語の如何によって、思いが変わるでしょうか。『Good-morning』かもしれないし、『Ohayo』かもしれない、或いは『bonjour』。そうして伝えきれなかった溢れんばかりの想いが朝霜を際立たせる。。。 人間の営みは普遍であると思いませんか。

長々と失礼しました。
フランス語の生活が決して、日本語での生活と、そう変わらない、といったことをお伝えしたかったのでした。秋の木漏れ日が爽やかなパリの郊外より。
 
 
 
普遍性等 (夢の中へ)
2010-10-31 13:19:56
久々にパリから知性の香りが漂ってきましたので。

まず、フランス語について、ほとんど解さないのに、大胆な発言をしたことを反省しています。
ただ、フランスの文化の特徴として、食品の基準の厳密性(酒、チョコレート等の成分や農薬使用程度の要件など)や数学の隆盛(デカルト等)とか政教分離の徹底度など、理性的な部分が際立っているように思えたところからです。
また、最近、トルコの改憲により、建国以来の政教分離政策が崩れたことへの失望感があり、フランスの「信教の自由と政教分離の徹底」の違いから、文化の違い(やはりトルコはアジアかな)を意識されました。
このような点から、フランスの文化について、フランス革命以来の伝統的な理性偏重型と思えたわけです。


さて、人間の生活の基本的な部分については、確かに、「普遍性」(日常生活は、ほとんど同じような感覚でしょうね)があると思います。
その普遍性の相互認識により、相互理解・容認の推進、拡大化していくことが、国際交流の真の目的で、国家間、民族間の争いを(煽動に盲目的にならないように)未然に防いでいけるものと思います。SIAも同様ですね。

しかし、人間が認識できる範囲内でしか世界は存在しないという事実から客観視すると、普遍性も少し揺らいできます。
「世界」は、それを「全体集合」として、「個人」、「民族」、「国家」を「部分集合」として構成されています。
コミュニケーションは、集合間の相互要素確認と考えられます。問題は、それぞれに内在する要素をどの程度認識できるかではないかと思います。共有(積集合)がベストではありますが、現実問題としては類推程度が限界でしょう。このあたりのところが、意思の疎通を阻害するところとなっているのでしょう。

近年は、多くの情報を瞬時に獲得できる環境にあり、「要素」の共有化の作業は大変ですが、国際交流・SIA事業等の推進をはじめ一人ひとりが主体性を持って進めていくことにより、要素の量と質を高めていくことが出来ると思います。特に社会のオピニオンリーダーの見識を高めていくことが肝要と思います。

近日、SIAの集約作品の出版もあるようですし、これを第一歩として、「私のSIA」に歩を進めていこうと思います。

でもアジアには行ったことないし、江戸川はもちろん隅田川の東に行くこともほとんどないのが現状です。
来年は、アジアへ身体的な一歩を踏み出してみようと思います。

パリは明日も諸聖人の日でお休みですね。よい休日を!
(随分随分前の10月31日はロワール川のお城と街にいたことが思い出されました。)
 
 
 
人間が認識できる範囲内でしか世界は存在しない! (クッカバラ)
2010-11-01 06:36:44
知性の香りなど、とんでもございません。フランスからのコメントながら、フランスらしからぬ、と申し上げた方が良いかもしれません。

つらつら思うに、フランス語の特徴として合理性がある中、使用する人間は実は、合理的どころか、情に流され、情緒的な、つまり、生身の人間であり、そこにどの言語に於いても普遍性を見出す、と実は当たり前のことでありながら、時に体感しないと思い馳せにくいであろうことを申したかったのでした。それこそ、言葉足らずとなりました。

人間が認識できる範囲内でしか世界は存在しない。。。事実ながらも、現実視することは覚悟がいる内容ですよね。ただ、そこのところを十分理解しているかいないかで、人間としての生き様も違ってくるであろうし、夢のような世界平和にも通じる道を切り開いて行けるのであろうと思われます。

いつもながら思慮深く示唆に富んだお話、ありがとうございます。


万聖節のバカンス。子供達と『マイマイ新子と千年の魔法』のDVDを観ました。東北弁と標準語しかしらない子供達は、山口弁にびっくり。それでも、元気な新子ちゃんの魅力に引き込まれ、大笑いしながら楽しみました。今日は9歳の娘が、自転車に乗りながら、途中で止まっては何かをしています。前髪をたてて、マイマイの魔法の力を起こそうとしていたのでした。私も何故か、小学時代の友達の夢を見てしまいました。

『人間が認識できる範囲内でしか世界は存在しない。』だからこそ、本を沢山読み、映画を観て、疑似体験することが貴重なのですよね。そして、青年達には、どんどん海外に出て、外を見て欲しい、と思うのでした。
 
 
 
 (高樹のぶ子)
2010-11-01 10:29:34
「人間が認識できる範囲内でしか世界は存在しない」
死というのは、死ぬ人間がこの世から消えるという以上に、死ぬ人間にとって、すべての世界が消えるわけで・・人が死をおそれるのは、世界が消えるのが怖いからなんですね。

認知症を患っている母親をそのように眺めると、母親は娘たちにとって存在しているけれど、母親にとっての世界と人生は、半ば失われています。
認知症は、(当人にとって)少しずつ死んでいっているんです。辛いけれど。

言語の問題からズレてしまってごめんなさい。
 
 
 
とりとめなくずれて (サイヤ)
2010-11-01 17:04:22
死の恐怖をやわらげるために認知症がるとしたら天のはからいかもしれません。

昨日のNHKスペシャルでは、認知症の種類によっては症状が大幅に改善されることを知りました。義父が認知症なので家人は食い入るように見ていました。

番組では、まだ専門医が少ないとのこと。
高齢化社会ですから、是非増えてほしいです。症状が改善されて本人からも家族からも感謝されて医者冥利につきる分野だと思います。


ところで、昨日、福岡シティマラソンの5kmを走りました。スタートはドーム。その隣にはシーホークホテルがありますが、最近ヒルトンに変わりました。トップはスイス人。博多駅近くの全日空ホテルも支配人は確かフランス人。

従業員は必然的に英語が話せないとコミュニケーションが難しそう。おまけに宿泊客は中国人や韓国人が増えて、中国語やハングルの勉強も必要。ショップの掲示は日本語が主なのでまだまだ国際化に追いついていない。

北海道の方が受け入れ態勢は進んでいるうえ、観光名所も雪をアピールできる地の利を生かして、九州はホスピタリティは優れていると思うけど、北海道の後塵を拝している。

ホスピタリティも言葉が通じなければ客人には感じてもらえないだろうから観光産業人の苦労は並大抵ではない。

日本語の論理性が議論になっていたけど、ハーバード大卒で英語ネイティブの芸人パックンが日本語をたくみに操るところを見ていると論理性に乏しいとは思えない。(あまりに短絡的な断定ですみません)

意を尽くして話し合えるか。コミュニケーションが十分かで論理も構築できるのではないかと推論。甘いかな。

生い立ちからいえば、ハングルは相当論理的なつくりだし、日本語も漢字、かな、外来語を吸収、創作してきてできた英知に富む言語だと思いますが、使い手が情緒的すぎる?

TOEFL高得点を狙うより、日常会話。
観光に従事している方々は政治論議をするわけでもないし、観光客はそのために日本にきているわけでもない。来日する外国人観光客にはショッピングや癒しとか日本が過ごしやすい印象を与えられればそれで成功。

一方、世界の大学ランキングで日本の地位が下落。
アカデミズムの分野では授業も英語で行うとか、アジアに開かれた大学を目指して相当の努力が必要のようですね。こちらのほうがより重症でいち早く改善が求められそう。
日本で学んでも良い職をえられるわけでもなく、何になると思われれば学生も現金。国の魅力を高めるのが回り道だけど近道かもしれない。

次の話題がアップするまえに駆け込みで書き込みました。
 
 
 
SIAブログは凄い! (夢の中へ)
2010-11-02 00:52:30
こんなにも「認識」や「世界観」が受けるとは、さすがSIAブログですね。
(こういうのは一般受けせず、限られた友人との会話だけです。そういう意味では私は世間が狭いのかも。)

パリでの素晴らしい家庭教育のご様子が目見えるようで、微笑ましく羨ましい限りです。
「学ぶ」ということは、世界観を構築していくことで、培われた世界観を通して、いわゆる「観の目」で見えなかった物事の本質的なものを見ること出来る能力の獲得であると言えます。「リベラルアーツ」で知識の幅を広げることも後の専門教育に生きてきますね。(学生も猫に負けないように通学しないとね)
年齢とともに、若いときに味わえなかったことが分かるようになるという「加齢の楽しみ」もあり、死ぬまで勉強と言うのは当然のことですね。
でも、「認知症」で、自分の中から世界が失われていくというお話は、本当に恐怖感がありますね。生きていながらですから、胸が締め付けられる思いです。
極々軽~い認知症なら、サヴァン症候群のようになれば、ある日突然隠れた能力が引き出されてきて、一瞬にして文豪のような文章をかけるようになるかなという気楽なことを言っていましたが、徐々に能力に制限がかかってくるのは、何かが迫ってくるようで、耐え難い苦痛と恐怖でしょうね。

さて、休日に、ご家族で『マイマイ新子と千年の魔法』のDVDをご覧になられたのですね。私は本を読んだのとネットでの触りだけです。

実は、9月のSIAーDAYの翌日の帰路、防府市に立ち寄り、ちょっとした小旅行になりました。
防府市には、10年ほど前に高齢者のグループに誘われて、「雪舟の絵」を見に毛利屋敷へ行ったことがあります。周りの山も、カルスト地形で雪舟の絵のようです。
防府市は海に面して平野が広がり、国府が置かれたように、山口県で最高の土地のように思われます。
都市化が進んでいて、麦畑は想像できませんが、条里制のあとは伺えます。直角の川は不明。
大らかで優しい瀬戸内の土地の雰囲気は、五感はもちろん全身の皮膚を通して伝わってきて、豊かな感性や何かが育まれる空間であることが実感できました。
前回に行けなかった「天満宮」にお参りしましたが、石段の上から眺める景色は、(住宅は増えていますが)アニメと全く同じですね。
LOVE神社という石碑とお守りがあったのが驚きでした。(LOVEといっても人間愛だそうですが。)
門前の松崎小学校は運動会が開催されていましたが、門前のホールにはカラーの青木新子の住民票の掲示もありました。
ご帰国の際は、瀬戸内地方へもどうぞ、パリとは違った抜けるような青空と色彩豊かな陽光がたっぷり。

【日本語について:追伸】
昨年12月の「雪景色」のところで高樹先生が審査員を努められた大佛次郎賞の石川九楊先生の記事をご紹介した事を思い出しました。
言語について、「二重言語国家・日本において、「漢字」=漢語は、政治と宗教と思想の表現を得意とし、「平仮名語」つまり和歌と和文は、四季と性愛語の表現を得意とする。」と言うところからも、情緒的な性質を有しているようにも思えます。

昨日の日経新聞の記事にありましたが、日本語は、1人称、2人称とも不明確で、明確にすると意味が変わってしまったり、漱石の「草枕」の英訳が困難で、欧米人にとっては悪魔の言葉と感じられるとか。自由度が高すぎて、扱いにくいのでしょうね。
 
 
 
JAL KLM (けんちくのせんせい)
2010-11-02 15:52:22
オランダに時々来るのですが、
いままではJALを使っていました。
JALは、アムステルダム便では、
ロンドン便やパリ便と違って、ジャンボではなく、
最初の頃はたしかDC10で、
最後はたしかB777だったと思います。
そのアムステルダム便が今年で就航しなくなり、
今回はKLMで来ました。
そのKLMは、いまだにジャンボです。
半分貨物室という便もあるようです。
定年後の再雇用のようなご老体は、
ちょっと心配で・・・

樹先生も、KLMでオランダに来られたらいかがですか?
ホテルオオクラのシェフの機内食は美味しいですよ。

ロッテルダムにて
 
 
 
腐った翼 (浜田英季)
2010-11-12 18:29:09
私の友人のジャーナリストは、その著書「腐った翼」や「血税空港」でJALの再建はあり得ないと断言しています。私は飛行機が嫌いなので、何処へ行くにも鉄道か車を利用しています。エルサレムからシナイ半島、カイロにも陸路で行きましたし、北京からホーチミンへも鉄道を利用しました。来年は「シベリア鉄道の旅」を予定しています。それが無理ならピースボートで世界一周。とにかく飛行機が嫌いです(伏)
 
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