高樹のぶ子のSIAブログ
「透光の樹」英訳本とロサンゼルス・タイムズ レビュー
SIA上海編を終えて、ほっとしています。
そんなとき、ちょっと嬉しいニュースです。
拙著「透光の樹」の英訳本が出ました。といっても、書店に並ぶのは5月だそうです。
写真は、その英訳本ですが、カバーが凝っていて、松かさは、透明なフィルムカバーに印刷されています。他にも透明なカバーに文字情報が入っていて、透明なカバーをかけて、ようやく、本として完成です。
その書評というか、レビューが、ロサンゼルス・タイムズに出ました。
とても良く紹介していただいているようで、嬉しいです。
英語の得意な方、英訳してみてください。
日本の恋愛小説が、アメリカ人にどう受け止められるか・・
楽しみです。
高樹のぶ子
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絵画の影響で「松」のほうが日本的と伝わると云うことでしょうね。
装丁は少し凸凹した松カサを、ビニールコーティングしていると云うことでしょうか。
黒松でかな、それとも赤松でしょうか・・。
島国である日本と言えば海辺や崖の黒松でしょうね。
先日、少し驚いたのですが、「赤松」はシベリアに原生林が広がって存在しているのだそうです。
寒さで松茸は聞かないですね。
シベリア抑留者の人達は、主に膨大な量の赤松を切り出す労働をしたと証言したのです。
鉄道の枕木や家屋に使うのでしょう。
確かに自然に下の枝は落ち、丁度、木材にし易い特性が有りますね。
黒松は手入れが庭師でも大変なのことと、暗い樹皮肌と松虫(現在は鈴虫と呼ぶ)を連想し寂しげで、どこぞの熊野神社のようになるので、実家にも植えませんでした。
北の崖に龍形の赤松が自然に生えてます。
杉が松の話になりました・・。
また僕の勘違いかも・・うむ??苦笑。
今の読後のイメージは、放置された縺れた枝振りの、暗い黒松の感じがしてます。
装丁は黒松が妥当でしょう。
よかったですね。
もちろん、デフォルメされてますが。
小説の中には、もちろん「六郎杉」が出てきますし、レビューにもCedarとあるし、松ぼっくりだと勘違いしたけれど、これはやはり、杉なんでしょう。しかし・・かなりきわどい構図です・・針葉は表紙に、杉ぼっくり?は透明なカバーに描かれていて、重ねて初めて、絵図になる・・うーん・・装丁の人は、この作品を、かなりセクシーに読んでくれたのかな・・
検索したら葉っぱが少し松ぽい表現ですが、杉の実に見えないことはないです。
実際は3、4個寄せ合い実を付けるようです。
僕も松の未だ生きてる実と思ってしまいました。
子供の頃の遊びで、杉の小さな蕾は竹で作った鉄砲の弾に使いました。
ちり紙を濡らして丸めた弾より、音もパ~ンと鳴り粉煙りが出て、当たると痛い感じでした。
僕は杉の実をよく観察した事がなかったのです。
桧の実は実家に有りよく見ます。
やはり作品は杉ですから装丁は松ではないでしょう。
でも杉の実のアップはパインの雰囲気ですね。(苦笑)
我家の娘達もやたらと重ね着をして、お洒落をエンジョイしてますが、そんな所にも現代人の心が、事象としての重層性が現れてるのでしょうか。(笑)
重ねると全く別物になる不思議さは面白いですね。
建築計画を考え上では多重にフィルターやフィルムを使います。
装丁の作家は小説を読んで、「それでも生物や人は子孫を繋いでいくのかもしれない、そこでフィルムで遺伝子としての杉の実を表現したい」と感じたのでしょうかね。苦笑。
作家という立場に立つ場合、その作品が新たな地平を開拓するというのは、「子供の大いなる未来への旅立ち」に相当するのかもしれません。
「源氏物語」が世界各国に浸透していっているように、「透光の樹」が海外の人たちにどのように受け入れられていくのか、大いに楽しみにしています。
また、トークブログも転載しておきます。
Written by T.S. on 19th Apr., 2008
イギリスの人たちに、どのように受け容れられるのか楽しみですね。実際の翻訳本を読んでみたい気もします。
ロサンゼルスタイムズにレビューが掲載されたのは何月何日ですか?手に入れば訳してみたいです。
源氏物語も翻訳者によって、ずいぶん、訳し方が違います。日本語を理解し、源氏物語の世界や式部独自の表現を理解し、深読みしてくれる翻訳者が翻訳した作品が私は一番好きです。
高樹文学の真髄は、ストーリーの展開もさることながら、その独特の表現にあるように思います。高樹先生が苦心して書かれた表現をうまく英訳してくれていることを祈ります。
源氏物語が展開された京都御所のすぐそばの地にてー。
ビー玉
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その書評というか、レビューが、ロサンゼルス・タイムズに出ました。
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☆英文が現れますよ~
日本語にしないでそのまま英語のフィーリングで感じたら良いと、アイは思いま~す ♪♪
で、クリックして、ざっと流し読みしてみました。
うーん。書かれているストーリの紹介は間違ってはいませんが、なんか違和感が・・・。六郎杉の表現には、がっかり。
唯一、「透光の樹」を、今まで英国の人が日本に対して抱いていたいわゆる日本的なるイメージとは違う世界共通のラブロマンスとして捉えてくれているリードの文章に救われました。
しかし、日本と聞いてイメージするものが宮崎駿のアニメ、キティちゃん、東京・銀座etcとは・・・トホホです。
イタリアの人が日本女性に対して抱く芸者のイメージと同レベルのような気がします。
やっぱり、日本に住んだことのある人でなければ、正確な訳はできないのかなぁ、などと思ってしまいました。翻訳本、手に入るみたいなので、読んでみようと思います。
学ぶ外国語となると市場は中国に向いたようです。巨大な中国がこれからの市場だと、アメリカでも中国語を学ぶ人々が増加傾向とか。
これからは、ビー玉さんの出番ですよ!
「透光の樹」を翻訳したものです。(日本にきて、薬30年がたちます。)私はこの本の英訳をかなり楽しく(そしてもちろん真剣に)やらせていただきました。高樹先生に喜んでいただければ幸いです。このサイトの読者の皆さんも是非英訳を読んで見て下さい!
今、翻訳者御者自身のコメントが読める幸せをかみしめています。
日本に来られて30年になられるのですね。これは、翻訳本を読むのが愉しみです。絶対、読みますからね(^^)
先のコメントに書かさせて頂きましたが、ロサンゼルスタイムズの記事は、凄くほめて書いて下さっているのは嬉しかったものの、生粋の日本人の私には違和感がありました。かつて私も彼らと同業者であったため記者には厳しくなってしまうところがあります。
単に言葉や表現を理解するだけでなく異文化を理解するのは難しいですね。しかし、男女の性愛は世界共通かと思います。
私もつい最近、専門書の翻訳(英語→日本語)をしました。ただ文法や言葉を訳すだけでなく、専門的な知識がないと翻訳できない部分も多かったですし、何より意訳して、流暢な日本語にするのが難しかったです。
また、読み終えたら、コメントしますね。期待増大です。
翻訳の良いところは学びながら仕事をすることです。「透光の樹」で学んだことは富山県と石川県の地名、そして「刀」の作り方についてのことです。最後まで怪しかったことは千桐のお父さんの名前の読み方でした。「火峰」と書いて、「ひのみね」とよぶ会社があったので、「ひのみね」にしましたが、できあがった本では「かほ」になっていましたね。また勉強になりました!
「火峰」は「ひのみね」と呼ぶ会社があることを御調べになっていただけでも凄いと思いました。翻訳者のこだわりが感じられます。私は単純に「カホウ」と読んでいました。
私が、ロサンゼルスタイムズの記事で一番違和感を感じたのは、この千桐の父親の職業に対する記者の捉えかたと、六郎杉をサムライと結びつけて訳しサムライのイメージを増幅させていたことでした。
刀、サムライ・・・という言葉がいかにも日本的なるイメージを醸し出すものとして書かれていたことに大きな不満を感じたのです。
おそらく、高樹先生が千桐の父の仕事を刀鍛冶にしたのには、別の意味あいがあると思うのです。日本的職業をクローズアップさせたかったのではなく、職人の頑固さ、一途さを受け継ぐ性格を持って生まれた娘として千桐という女性を創出されたのではないかと私は思っています。
また、記事に刀の話を出すのなら、最後の方で、郷がカレンダーを千桐の父親に貰った刀で切り裂くシーンの心理描写にもふれてほしかったように思います。
私は、刀鍛冶が住むタタラの里、ヤマタのオロチの神話が脈々と受け継がれる刀作りに欠かせない砂鉄がとれる八股の(支流が八っつある)川の近くで生まれました。
ひとつの道を極める刀職人と芸術家には通じるものがあるような気がします。
また、刀には人を寄せつけない恐ろしく清真なイメージもあります。そんなものも作品の隠れたテーマであるように私は思いました。
千桐と郷の視点で交互に書く手法が見事に成功している。
性愛に溺れるばかりだと空しさも残るが、それだけに終始しない手法、父・火峯の病、娘・眉の存在、郷の直腸癌などのことが、却って愛を深いところまでいざなう。
作品全体にいやらしさが感じられないのは、作家がその座に到達しているからだろう。
著者が女性であっても、その視点が潔いのは正に修行の賜物と感じられた。氏が島清恋愛文学賞の受賞者であると同時に、選考委員であられることも頷ける。