ワニなつノート

ヴァルター・アイグナーさんの言葉と就学猶予免除者数

ヴァルター・アイグナーさんの言葉と就学猶予免除者数


1996年に読んだ『福祉労働・71号』のヴァルター・アイグナーさんの言葉がずっと頭に刻まれています。

ヴァルター・アイグナーさんはインクルージョン・インターナショナル(元ILSMH=国際知的障害者育成会連名)の会長であり、当時、日本の親の会や特殊教育関係者の招待で来日された、と紹介されていました。
肩書だけ聞くと、私とは違う考えなのかと思いました。

でも、あれ以来、これほど明快な言葉を目にしたことがありません。

「一緒がいいならなぜ分けた」という小夜さんの言葉とともに、私が目にした中でもっとも論理的で明快ですっきりした言葉だという印象です。

最近になって、改めて思い出すことが多いのでここに紹介します。


《インクルーシブな教育は人権であり、良質な教育であり、社会的にも理にかなっている》


「インクルーシブ・エデュケーションを支持し、分離教育に反対する人たちは世界中で増えています。ILSMHは、障害を持つ子どもたちが、障害を持たない子どもたちと一緒に学び、育つ機会が否定されてはならないということを方針としています」


「かつて、障害児とくに知的障害児は学ぶことができないと思われていたのに対して、最も重い障害を持つ子どもでも教育を受ける力を持っている、どんな子どもでも成長することができることを特殊学校は証明してきました。
公正な立場で見て、特殊学校がそうした歴史的な地位を占めていることは評価すべきでしょう。
しかし、今日、我々はもう、次の段階に進むべきです。
これまで特殊学校で行なわれてきた教育は、隔離された環境の中で提供される必要はありません。
そういう優れた教育を統合された環境で行なうべきです」


「障害を持つ子どもは排除されない権利を、同時に、障害を持たない人々は障害児と共に学び、育つ権利があります。
障害を持たない人にとって、障害を持つ人と共に育つことは重要なことです。
異なる人と出会う、それは大人になってからではだめで、偏見を持つ前に、子どものときからなされなければなりません。
一つの学校で共に学ぶことはだれにも得るところがあります。
人々は同じじゃない、違いを持っているんだ、その違いを大切なものととらえ、他人の個性や人格を大切にすること、社会的価値を重んじることが大切です。
そのことが社会全体にとって重要な教訓となります」


「例えば、障害児が生まれたとしたら、その家庭に自然に受け入れられるでしょう。
家族の中には障害を持たない兄姉、祖父母、あるいはおじさんやおばさんがいるかもしれない。
家族と育つことは自然なことです。
障害を持つと、なぜ突然近所の学校がその子にとって自然な環境でなくなるのでしょう。
きょうだいの通う学校に行くのは当たり前のことです。
社会の側が特別な環境をつくったのです。
現在は特殊学校という逃げ道があるから、その逃げ道に行ってしまうのであって、その逃げ道がなければ、地元の学校で受け入れるでしょう」


(生徒三人に対して先生一人または二人という、日本の特殊学級、養護学校を見学して、アイグナーさんは「世界で最も恵まれた環境」という。が、特殊教育というのは場ではなく、サービスの内容としてあるべきだという)


「実際、いい特殊学校というのはあります。
優れた先生もいます。
でも、どんなにいい学校でも、一つだけ提供できないものがあります。
それは障害を持たない子どもです」


「ヨーロッパにおいては、障害児の親だけでなく、障害を持たない子どもの親たちが、障害を持つ子も持たない子も一緒に学ぶことを要求するようになっています。
障害を持つ子どもを普通学級の中で置き去りにするというのでなく、適切なサポートがあり、正しい方法で行なわれるならば、インクルーシブな教育のほうが、教育の質が良くなるのです。
そこでは個人個人への対応がなされなければならなくなり、画一的な集団に対する方法が通用しなくなってきます」


「ピア・エデュケーション、つまり仲間同士(子ども同士)から学ぶことが大変大切です。
子どもから、子どもへ、お互いに学ぶことのほうが、先生から学ぶことよりも大きいのです。
特殊学校には、ピア・エデュケーション=子ども同士学び合うパワーがありません」


《インクルージョンとインテグレーションの違い》

「インクルージョンというのは、最初から一緒にすることをいいます。
そして、その学校を子どもの持つニーズにどう合わせるのかを考えなければいけません。
インテグレーションというのは、分けてしまったけれどもそれは間違いだった、と後から考え直して使われたのではないでしょうか。
それでは『再統合』です。
障害児を強制的に特殊学校に送る制度があるかぎり、インクルージョンは有り得ない。
インクルージョンというのは政策・仕組みの根本から変えることです」


(アイグナーさんの国、オーストリアではインクルージョンは「道半ば」で、法的に小学校は、普通学校へ行くか特殊学校へ行くか親に選択権があり、行政が強制することはできないことになっている)

「個人的には親が決めるというのは間違っていると思う」

「障害児には隔離されない権利があり、たとえ親であろうと、間違った決定をくだして子どもを特殊学校へやってしまうことがあるからです。
人権というのが、この問題を考える鍵になるでしょう」


「障害児の親の多くはよく『こうした環境の方が守られて安心だ、教師も専門的訓練を受けいるし』と言います。
でも、それは本物ではない。親がいつも子どものためになることをしているとは限りません。
特殊学校は非常に不自然な環境です。教師は子どもたちにいろいろなことを教えることができる。
でも、統合された社会を教えることはできません。
障害を持たない子どもたちとどうつきあうのか、普通の社会で違った人たちとつき合う社交的なセンスも学べない。
『特殊学校はおとぎ話の世界』だと言ったオーストリアの教師がいましたが、十六、十八歳になっておとぎ話の世界を離れ、突然現実の競争のある社会に押し出される。
競争のある社会で生きなければならないことを教えないのはウソです」


「共に学ぶことは権利の問題であり、社会政策の一環であるという言い方もできます。
障害を持つ人と持たない人が将来に渡って一緒に生活していくためにどういう社会政策がとられるのか、この分けられた現状をいつまでも続けていてよいのか、家庭では一緒にいるのに、他の社会のあらゆる場面で別にするのか、そう問い質してみれば、原則的に障害を持つ市民も持たない市民も一緒に暮らす社会にして欲しい、といえるでしょう」


「そのためにはもう新たな特殊学校はつくらない。
新しく学齢期に達した子ども達は一緒に学ぶことを原則とする。
そういう政治的合意を形成することが大切です」


「外国からの友人としての助言は、Not give up(あきらめないで)です」

「官僚システムに打ち勝つにはただ一つ、
官僚側よりエネルギーと忍耐力がちょっとだけでもよけいになければいけません。
インクルーシヴ・エデュケーションを求める闘いは世界的な闘いです。
先進国だけでなく、世界で最も貧しい発展途上国でも同じゆな親たちの気持ちがあります。
だれにもこの動きを止めさせてはいけません」


(『季刊 福祉労働第71号』現代書館から)
  

     ◇      ◇      ◇



やっぱり見事の一言です。
16年が過ぎた今も、これらの言葉の鮮度と優しさは全く変わりません。

この16年の間に、日本ではいかに多くの「特別支援学級」「特別支援学校・高等部、分校」が作られてきたことか。

なにより、2008年には、「就学猶予・免除」学齢児童生徒数が、1979年を超えて、以来毎年増え続けています。
http://www.visualzoo.com/graph/71503

養護学校が義務化された年よりも、「猶予・免除」され学校に行けない子供たちが増えている時代。
この数字は、「特別支援教育」がいかに子どもの権利を無視したものになりつつあるかを示しています。。

コメント一覧

ishizaki
分かりやすくて良い言葉。

こういう言葉が、学校現場や学校関係者からあがらないのがとっても、とっても残念です

普通学級で障害児と関わっている先生達のなかにも、この言葉のように感じている人もいっぱいいるはずなのに。

障害のある人ない人、病気のある人ない人が一緒に過ごすことが当たり前という考えによって生活していくことが、少数派なんて、不思議な社会。

私の周りから草の根運動のように、淡々と、普通学級でみんなと一緒に過ごすことで浸透して欲しいと思います。

障害や病気を理由に、障害や病気によって出来ないことやサポートが必要なことを理由に、さけられたり、離されたり、虐待されたり、イジメられたり、無いものとされたり、することのない社会、学校にして欲しい!!です

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