委ねる守り (『ぼけてもいいよ』編)
□ □ □
「あの人はあの世でも暑がっているだろうか」
と、僕が上を指さす。
すると、菊子さんが指の先を追うように天井を見上げ、
「夏はスカンち、よう言いよったねぇ」
と相づちを打った。
今年は、あの人の初盆だ。
出会ったのは三年前。
アパートで一人暮らしをしていた。
その淋しさに耐えかねて、
「第二宅老所よりあい」に通うようになった。
菊子さんという友達もできた。
「よりあい」に通うのが楽しいと笑顔を取り戻した。
けれど、一人で夜を迎えることができなかった。
「怖い」とおののいて、知り合いに電話をかけまくる。
「死にたい」ともらして、みんなを心配させた。
もう一人暮らしはできない。
ケアハウスにグループホームと、
終の棲家を探したものの不安は募るばかり。
物忘れも激しさを増す。
結局、通い慣れた「第二宅老所よりあい」の二階で
暮らすことになった。
…
「よりあい」で暮らすことで一人ぼっちの夜はなくなった。
食事や風呂の準備もしなくていい。
財産や安全も守られる。
そのことを彼女は素直に喜んだ。
けれど彼女の悲しみは消えなかった。
結婚を選ばず、家庭を持たなかったことを悔やみ続けた。
家族のいない身の上をのろうように泣いていた。
そんな彼女の悲しみに、僕たちは何もできないでいた。
対人援助の方法論に「受容」という言葉がある。
相手を受け入れることが大切だと、
僕たちは教育されている。
しかし、相手を受け入れることは容易でない。
二十代が中心の若い職員集団である僕たちが、
彼女の悲しみを簡単に理解してはいけないのだ。
安易に分析してはいけないのだ。
受容なんかできません。
僕たちにできることは添い続けることだけです。
あの時はそう思わないと一緒にいることができなかった。
・・・
『ぼけてもいいよ』 村瀬孝生 西日本新聞社
□ □ □
その言葉に素直にうなずきなら、
でもそれは「若い」からではないよね、と思います。
「若い」から、長く生きてきた人の人生を
簡単に「理解」してはいけないのではなく、
自分とは別の、もう一人の人への思い方だと思うのです。
自分とは別のもう一人の人の人生や悲しみを、
たとえ相手が子どもでも、
簡単に「理解」や「受容」など、
できるはずがないと思うのです。
そのことを忘れると、
一番分かり合いたい子どもとすれ違い、
子どもの思いを受け止めそこなうのでした。
理解できない相手と出会うとき、
(理解できないのは、わたし)
受けとめきれない相手と向き合うとき、
(受けることができないのは、わたし)
不安な気持ち、落ち着かない気持ちになるのは、
「わたし」です。
その自分の感情に気づかずに、
「相手の問題」にすり替える「手続き」が、
「受容」とか「理解」とか「教育」という言葉でした。
自分の感情の原因を、相手のせいにするところから、
すれ違いは始まります。
困っている人を援助してあげるとか、
受容してあげると思うほどに、
すれ違いはどんどん広がっていくのでした。
そのことを、私にも分かるように、
思い知らせてくれたのは子どもたちでした。
定時制の生徒たち、
障害のあるふつうの子どもたち、
児童相談所で出会った子どもたち、
そして、娘のおかげでした。
相手の「不安」や「居心地の悪さ」に、
立ち止まり続けることができないとき、
私は、私の「不安」を手っとり早く片づけたいと
願ってしまうのでした。
その自分の心の動きに気づかないでいると、
「相手のため」と言いながら、
相手の感情を聞けない自分に気づけないのです。
自分の不安や悲しみでさえ、
感じそこねることがあるのに、
自分とは違う人生を生きてきた子どもの気持ちを、
理解することは、とても難しいことです。
わたしのなかでは、
90歳のおばあちゃんの人生に耳を傾けることと、
言葉で話してくれない子どもの泣き顔や笑顔に
その子の人生を感じながら手をつなぐことは、
まったく同じ感覚でした。
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