ワニなつノート

面白すぎて先が読めない文章


面白すぎて先が読めない文章



「あ、これ、これ、この言葉を探してた」
「そうか、こう考えればいいのか」と、長年の迷いが溶けていくときがある。

何か大切なことが「分かりかけている」気がする。
でも、夢のようにすぐに消えてしまう気もする。

もう少し先を読んでから、もう少し、もう少し。
でも、いろんなことが頭に浮かびすぎて覚えていられない……。

で、本を閉じてメモしてみる。


    □


①《「能力」についての考え方》



「この子はできますか?」と尋ねられたら、どう答えるだろう。

ふつうは、「何がですか?」と問い返すだろう。

「できる」(能力がある)という言葉はそれだけでは成立しない。
必ず、対象となる課題を必要とする。


⇒そうそう。就学相談会でよく聞かれる言葉。

「ついていけるか?」

「45分座っていられるか?」

「分からない授業はかわいそうじゃないのか?」

これらの言葉を聞いて、私が最初に問い返す思い。

「何がですか?」


ついていけるか?

「何に」ついていくのですか?

「どんな45分」を想定しているのですか?

「分からない授業」とは、何が「わからない」のですか?

「わからない」ことの、何が「かわいそう」なのですか?


そう、わたしはいつもそのことが疑問だった。

でも、目の前の親の不安をなくしてしまいたい、という思いが先にたって、「だいじょうぶ」の話をしてしまってきた。


    □


「法的能力」は、取引(契約)の能力を前提にしている。

「この子は、取引(契約)できますか?」と聞かれたら。
「何がですか?」となる。


「障害児だから取引能力はない」と考えるのは、「障害児だから授業についていけない」と考えるのと同じ。


コンビニでジュース1本買う契約と、家を買う契約は「同じ売買契約でも異なるレベルの能力を必要とする」。


そりゃそうだ。


授業中に、「先生の言葉」についていくのと、「同級生のことば」についていくのとでは、「同じ授業のことばについていくのでも、異なるレベルの能力を必要とする。」

昔から小夜さんが言ってた。
「先生の言葉は分からなくても、友だちのことばは分かる」

先生の説明する言葉は分からなくても、クラスのみんなの言葉や表情や気配は分かる。


「この問題の答えが分かる人?」

答えは分からなくても、「この問題の答えが分かる人?」という先生の言葉は分かる。

だから、手をあげる。

そこで先生が、その子を「指名する」先生か、「無視する」先生か、で、「ついていけるか」どうかが分かれる。

指名してくれて、その子が答えを間違えるか、よくわからないことを答える時。
先生が、どう返すか。
クラスのみんながどう受け止め、返すか。

それによって、「ついていけるか」どうかが、分かれる。


私も外国人の英語はちっとも聞き取れないけど、日本人の下手な英語ならところどころ聞きとれることがある。
また、街で外国の人に話しかけられ、よく分からないまま答えているとき、相手が了解しているのか、了解できていないのかは、雰囲気全体から分かる。


         □

【コンビニでジュース一本買う契約と、不動産業者からマンションを一区画買う契約は同じ売買契約でも異なるレベルの能力を必要とする。

物事を判断する能力はその判断対象になる課題の難易度や重大性、失敗した時の損失の大きさ、やり直しができる可能性、利用できる社会的支援態勢などさまざまな要素によって変わってくる。

けれども私たちは、いつの間にか解決すべき具体的課題から離れて、認知症や知的障害、精神障害があるから、法的能力がないなどと考えてしまいがちである。】

(「日本の成年後見制度の問題点」池原毅和  季刊・福祉労働152号)


         □


6才の子に、地域の小学校に入学して同じ6才の子どもたちが通う学校生活に「ついていける」か?と問うこと。

それは、学校にエレベーターがあるか、医療的ケアに対応できる看護師がいるか、障害のある子がふつう学級にいることをふつうに受け止めることのできる先生がいるか、ひとりの子どもの問題を学校全体のみんなの問題と考える先生がいるか、によって変わる。


子どもひとりの「能力」の問題ではない。


        □


【現実に解決しなければならない契約課題が生じたときに、その課題との関係で能力を測るのでなければ、その人の能力を正確に判定することはできないはずだが、成年後見制度は、解決課題の具体性や現実性を踏まえることなしに、将来に向けて一括して能力の切り分けをしてしまうため、過剰に能力を制限してしまうことが避けられない。】(同書)


     □


そうか。

就学時健康診断や就学指導委員会の「判定」は、障害の有無だけを「判定」している。

その子が、その「障害」をもってどんなふうに成長していくか。

これから成長していく過程で、学校や社会のなかで、現実に解決しなければならない課題はどんなものがあるのか。

そうした「障害のある姿で社会生活をいかに送るか」「そのために必要な社会的支援・配慮とは何か」という視点ではない。


そこにあるのは、6才の時点の能力が平均からどれくらい遅れていて、その遅れをどう補い追いつくか、という見方だけ。

そうして、「将来に向けて一括して能力の切り分け」をして、他の子どもたちとの生活すべてを分離して6才から18才までの子ども時代のすべての「学校生活」「社会生活」の場所と人間関係を分離してしまうために、子どもが持っている障害による「困難」をはるかに超える「不利益」をもたらすことがある。

6才から18才のもっとも成長する時期に、膨大な量の観察学習と膨大な量の人間関係の制限により、過剰に成長・発達・能力を制限してしまうことが避けられない。


「発達検査」「心理検査」という「能力検査」と、子どもの生活、人間の生活との関係での問題を考える視点、視野が私たちには足りなすぎる。



(つづく)
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