ワニなつノート

普通学級で育つ障害児への援助論 (そのC)

普通学級で育つ障害児への援助論 (そのC)


子どもの命を救う医療は飛躍的に進みました。
人工呼吸器をつけた子どもや気管切開している子どもが、普通に家庭で暮らし、学校に通うという現実がそれを示しています。
子どもの「普通の暮らし」を守ろうとする家族の意識もまた、飛躍的に進みました。

そんな中で、障害児への援助論がもっとも遅れているのが学校です。
そもそも「障害」へのいかなる配慮もなく作られてきた学校を前提に、教育や支援を語ることが間違いですが、多くの専門家や教師はいまだにそこから抜け出せません。だから、障害への普通の配慮に関して、学校はいまだに知恵も工夫も予算も貧しいままです。

その学校に通うということは、現実の不都合にぶつかると同時に、それでもなおあまりある豊かな出会いと発見の両方を、子どもが生きるということです。

障害児の学校については、いつも「教育」の問題として語られてきました。
「障害児教育」という言葉を、私も当たり前のように使っていました。
子どもを分けないで、地域の普通学級を希望する場合にも、「共に学ぶ教育」と言ってきました。

でも、私たちが求めていたのは、「教育」が主ではありませんでした。

どの子にとっても、「教育」の前に「生活」があります。
障害があってもなくもて、子どもには子どもの生活があります。
生きること、家族に守られてあること、安心して生活できる地域。
その基本が当たり前にあることを前提に、学校は成り立ってきました。

その生活が普通にできないと、学校は面倒をみないと言ってきたのです。

でも、本当は話が逆です。
子どもの教育に真摯に携わるなら、まず子どもの生活を考えるのが先です。

子どもの生活を大事にできない教師が、教える教育など、ただの知識の切り売りでしかありません。

教育は、その子どもにとって、生きることに、生活することに、子どもが使えなければ意味がありません。

子どもが自分で使える知識や経験、自分の生活を作っていく知恵、自分の生き方と居場所を知るための関係づくりのためにこそ、教育の意味があります。

「医療」は、以前なら助からなかった命を、救えるようになりました。
でも、医療は、その子の生活と人生を作ることはできません。
医療に救われた命を、生きるのは子どもです。
医療が治すことのできなかった障害や後遺症を抱えて、生活していくのは子どもです。

「教育」もまた、その現実を引き受けるところから始めなければいけません。
年齢や平均と比べて「教育目標」をたてる、「慣習」をまずわきに置くことです。
「教育」が治したり伸ばすことのできない障害を抱えて、生活していく子どもが目の前にいるのですから。

医療や教育よりも大事なことは、子どもが自分の人生を生きていくことです。
一人の子ども、一人の人としてのふつうの人生を、生活することです。

ノーマライゼーションのノーマル(ふつう)という中には、障害への配慮の遅れた学校で、挫折や苦労、悲しみもまた、「ふつう」に味わうことが含まれています。

障害による生きづらさが消えてなくなるのでなければ、その挫折や悲しみも含めて、自分の人生を生きるしかなく、それこそがノーマライゼーションの中身です。
障害者だけでなく、誰でも人生には、喜びと悲しみ、出会いと別れ、苦労と孤独、支えてくれる誰かや何か、との出会いが必要です。

「障害」で将来の可能性をあきらめることなく育つためには、
「誰と、何を大切に育ちあうか」という生活=関係こそが重要になっていきます。


「特殊教育」は、能力の判定だけも余計なお世話なのに、
誰と暮らすか、誰と出会うか、
何を大事にして生きるか、
といったことまでを判定してきました。

誰と出会うか、
何に興味を持ち、
何を大事にして生きるか、
それは一人一人の子どもが自分で出会っていくものです。

「かけがえのない」出会いと選択、
その役割を、特殊教育や福祉に関わる人たちは、
「独占」してきました。
それは、「教育」の問題ではありませんでした。
普通の生活から、子どもを分けてきたのです。


共に育つことを目指してきた親たちが、大事にしてきたのは、「できても、できなくてもいい、一番の課題はそこじゃない」「一番大事なものは、そこを支える根の部分」だという直観といえるものでした。

子どもを一生支えるもの、は「障害があり続けることの肯定」であり、そのためには「できなくてもいい」と割り切ることが必要な場面もあります。

それは、親や専門家が、障害を抱えて生きる子どもに「教えられることなど、ない」という直観でもあります。

子どもが、自分の人生、自分の障害のある身体とともに、
自分の人生を生きる主体となってほしい。

いつか施設に入れられてしまったときにも、そこから逃げ出す「主体性」をなくさないでほしい。

教科の知識以上に、分けられた場から逃げたいという感情を、大切に育てたい。

そして、この子の不器用な感情表現を、読みとろうと試みてくれる仲間と出会ってほしい。

仲間と出会える希望を、なにより子供時代に、一生忘れないように、心と体に刻み覚えていてほしい。

あなたはひとりぼっちじゃない。
あなたをだいすきな人がいる。
あなたの笑顔に微笑みかえす人がいる。
あなたを大事な仲間と感じる人がいる。
そのことを、信じる心を、希望を刻むことが、
子ども時代の子どもの仕事。
障害のあるなしは関係ない。
子どもはみんな子どもなのだから。
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