ワニなつノート

子ども(わたし)に出会うために


子ども(わたし)に出会うために


「できる」から、大事にしてあげる。
「言うことをきく」から、いい子だという。
「かしこい」から、認めてあげよう。
「がんばる」から、ほめてあげる。

条件つきの「自尊感情」の施し方しか知らない人は哀しい。

その人の目には、子どもが子どもとして映ることがない。
将来の大人の準備体を、子どもと呼ぶと、どこで間違えたのか。

早く大人になれ、早く成長しろ、
一日も早く子どもを捨てることを、その人は求める。
いつも、幸せは、将来にある。


子どもがあそぶことは世界を観察すること。
子どもが人と出会うことは、
子どもの想像力と信頼が育つこと。

その遊びと信頼を、訓練や勉強にすり替えることで、
子どもが子どもとして出会う世界を狭めていることに、
その人は気づかない。

そして、子どもに障害があれば、
一ミリでもふつうに近づくことを求めます。


あなたは、子どもに、出会いたくはないですか。

わたしは、子どもに会いたい。


この世で偶然、めぐりあえた
「かけがえのない関係」のわたしとあなた。

「できる・できない」といった、
お互いの「一時期の姿」に左右されない
「わたしとあなた」の関係を生きた人の瞳は、
たとえその子どもがいなくなってしまったあとにも、
すべての子どもへの限りないまなざしを宿します。

「わたしの子ども」が
20年前に「1歳を生きた時間」と、
いま目の前を通り過ぎる
「歩き始めの子ども」が「生きる1歳の時間」が
重なり、つながりあう幸せを感じることができます。

子どもと過ごした時間のしあわせを、
幾度でも感じられるまなざし。
それは、子どもと一緒に過ごした日々がもたらしてくれる
贈り物です。

「子どもの定義」によって、
その豊かさと出会いの機会は変わります。

「生まれてこない方がいいと思う子ども」を、
心に持っている人は、
そのように扱われる子どもと出会う機会はありません。
その人のまなざしのなかに、
その子どもたちは映りません。


重い障害をかかえて6歳でなくなった子どもの母親が、
数年後、同じように重い障害を抱えた子の就学交渉の場で、
亡くなった子どもと同じくらい小さいその子を抱いている姿に、
私は息のとまるほどの幸せを見たことがあります。

子どもをみつめるそのまなざしには、
「わたしの子ども」とか「誰の子ども」をこえて、
時をこえて、ただそのぬくもりを
いまここで感じあう幸せが讃えられていました。

そういう世界がこの世にあることの確かさを、
私はそのときに感じました。

ごくふつうに「生まれてこない方がよかった」
といわれる子どもを、
ただかけがえない子どもとしか見えず、
いとおしく抱きしめる人が、この世にはいると、
私の目に見えた瞬間でした。

そうした子どもとの時間、
子どもとまなざしあう時間をもった人の、
すべての子どもへのまなざしは、
条件付きでしか子どもと出会わなかった人とは、
歴然と違う光が湛えられています。

その光の理由を確かめることは、
私が私の8歳の子どもに出会うために必要なことでした。

コメント一覧

yo
nomiさん
お久しぶりです。
hくんの学校生活は本当に順調そうで、会報を読むたびうれしくなります。

今回のコメントを読んで、やっぱりnomiさんは、はじめに養護学校に行ったのは、そもそも間違って行っちゃったんだ~というのが、よく分かりました。

hくんもお母さんもお父さんもお兄ちゃんも、h君が地域の小学校に戻ってきたことで、みんながみんなの居場所に戻ってきたんだな~と、そんなことを感じました。

「障害」、の問題とかじゃあない部分で、みんな迷わされたり、惑わされたりしているんですよね。

今日のブログに、フランクルのこと、少しだけ書きました。
nomiさん、フランクルも好きでしたよね(^^)v


yo
上原口さんへ
コメントありがとうございます。
ひと月ほど前、「公開しないで…」とコメントを頂いてから、ずっと頭の片隅にひっかかっていました。
そのとき私が感じたことを話すには、それを引用しないと、伝わらないと思うので、一部引用させてください。(今回のコメントの内容から、大丈夫だと思うので)

「……息子は家のすぐ前の公園の砂場で、砂で山を作るのが大好きです。
小学生たちに笑われたり、じろじろ見られるのがつらいのは私の方。
24年間息子と一緒にいて、いまだに私はこんなことに傷ついてしまうのか、と情けなくなるのです。
 高校を卒業できたのはよかったけれど、あれこれ試したこともあまり実を結ばなかった、なんて考えたりします。……」

これを読んだとき、「ほんとうは、ちがうはずなのに…」と私は思ったのです。
上原口さんとは、そんなに話し込んできたわけではありません。
中三の受験の時と、高校1年生のときに話したくらいでしょうか。

当時も、このコメントくらいの「揺れ」や「あやうさ」を感じたことはあるけれど。
でも、上原口さんが小学校から高校まで、彼とつきあってきた生活は、このコメントのエピソードくらいで、本当に揺らぐものではないはずなのです。
上原口さんが、彼が高校卒業するまでに、培ってきた子どもとの存在の絆と信頼感が、こんなことで揺らぐはずはないと、そう思いました。

きっと、いまの彼との生活の苦労や、先の不安、いろんなものがじゃましているのだろうと、そんなふうに思うしかありませんでした。

だから、今回のコメントをいただいて、本当にほっとしました。
また、ゆっくり書きます。
nomi
学校にはドリルテストというのがあって、漢字と計算のテストが交互に月1であります。
80点採れないと、採れるまで再テスト。

そんなテストをなんだかな~と思いつつ長男を見ていると、1回目で合格することはまずなく、平均3回テストをしています。私はそれでいいと思うので、「ちゃんと勉強して合格しなさい」など言いません。

ある日長男が「みんな、一回で合格しないとお母さんに怒られるって言ってたけど、なんで?」と。

ある日あるお母さんが「ドリルテストの前は私がパソコンで問題作ってやらせてる」と、再テストしたことがないことを嬉しそうに言っていました。

そんな‘お母さん方’ばかりで、いや、先生もそんなんばかりで。孤独を感じるときがあります(笑)。

「子どもにこんなことを言いかけたけど、なんとかがまんしたよー」とか「我慢してみたけど、宿題やりなさいって言っちゃったよー」とか、そんな会話できる友達が近くにいたらいいなあ。


話が変わりますが、先日『詩と死をむすぶもの』を読み終えました。
徳永さんとか、鶴見さんとか、見覚えあるなーと思って、ワニなつを検索しました。
やっぱりありました。
私にとってすごく大切な本だと感じていたので、なんだか嬉しかったです。

nomi
nomiです。
久しぶりにワニなつを開くと、特に近頃私の心をぐるぐるしていた、まさにそのことが書かれていて、孤独から救われた思いです。

「できる」から大事にしてあげる
「言うことをきく」からいい子だという
「かしこい」からほめてあげる
条件つきの「自尊感情」の施し方しかしらない人は哀しい

健常児だとか障害児だとか関係なく、子供全体にあることだなと思います。
長男が保育園に通っている時から、周りのお母さんの話題はこういう内容でした。今もそうです。
時々、私の考えを言うこともありますが、かみ合わないまま終わります。
なんか腹が立ってくるから、‘お母さん方’とは、あたりさわりない程度の会話をするにとどめ、無理に友達を作ることはしないようになりました(笑)。

早く大人になれ、早く成長しろ、
一日も早く子どもを捨てることを、その人は求める
いつも幸せは将来にある

お母さん方は、甘えないで早く一人でできるようにさせることを、子育てとか親の役割と思っているように思われてしかたがないです。

その遊びと信頼を、
訓練や勉強にすり替えることで、
子どもが子どもとして出会う世界を狭めていることにその人は気づかない

みんな習い事でいっぱいです。学校には部活もあります。やっとできるほんの隙間を遊びの時間にしているように見えます。
まず遊びがあって、その時間があって、その隙間に習い事したらいいのにと思うのですけれど…。
心のままに遊んでほしいなーと思います。特に外で、自然に見守られて。自然との一体感。あの感覚は子どもでしか味わえない気がします。
(つづく)

上原口
このブログを拝見するようになって、
20歳を過ぎてひたすら砂山を作って遊ぶ息子と、
そばで同じく砂山を作っている自分を
ゆったりと受け入れられるようになりました。
成長、とか進歩とか、そんな言葉に
振り回されてイライラしていた自分が
少しずつ消えていってます。
今日も涙が出ました。
ありがとうございます。
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