ワニなつノート

子どもの苦労に向かい合うということ(その1)


子どもの苦労に向かい合うということ(その1)



《殻から出られないヒヨコ》
岩田めぐみさんの「ふわふわの研究」~


『技法以前』~

彼女は物心ついたころから、
「他の子どもたちは卵からヒヨコが孵り、
外の世界を駆け回っているように見えた」が、
彼女だけは「殻から出られないヒヨコで、
自分の代わりに自分をとりまく殻ばかりが成長していって、
自分は外に出られずにどんどん弱っていく」ように思え、
その孤立感に苦しんできた。

自分とまわりの世界との間にある卵の殻のような壁。
その壁の内側で彼女は、もがき続けてきた。


そして、「外に出られないエネルギーが内側に向かい、
物事を深く考えられず、うまく人とかかわれない自分を責め、
号泣する自分をもう一人の自分があざ笑い、
それを頭が真っ白になるまで繰り返し行い」、
その究極の行きづまりの延長上に発病があった。


《ふわふわ状態から降りられない》

彼女のもう一つの悩みは
「自分のことを悩めない」ことである。

「自分のことを考えようとするたびに
頭の中にモヤがかかり、世界があいまいになる」からだ。

ここでわかるのは、彼女は人とのつながりの実感を
「卵の殻のような壁」で遮断されながら、
もう一つの自分とのつながりの部分さえもモヤがかかり、
見えなくされてきたことである。

他者と自分の両方のつながりを見失った彼女は、
毎日を幻聴に支配され、幻聴から逃れるために
発作的に走る車や、家の二階から飛び降りるなどの
行動化によって入退院を繰り返してきた。

彼女の苦しみをひと言でいうならば、
人と人とのつながりの現実に降りたいと願いながら、
いつまでも降りられない。

そんな{ふわふわ状態}で生きざるを得なかったことである。
岩田さんは、人からこれ以上切り離されないために、
いつも上機嫌で上向きを装い、そして疲れ果てていた。

そんな苦労をかかえた岩田さんの転機は、
彼女の言葉を借りるならば、
「人と自分を分け隔てる壁に出入り口ができた」ことである。

「幻聴さんとのかかわりに困って、
幻聴さんの苦労をみんなの前で語ってみたら、
目の前にいる人たちが我が事のように話に聞き入ってくれました。

そのとき私のなかの{どうせ誰にも理解されない!}と
いうひねくれた心がどこかに吹っ飛んでいきました。
体験は共有できないけれど共感はしてもらえます。

私のなかの孤独は、
仲間とのつながりによって安心感へと変わりました……」


岩田さんは、仲間がつらさを受け止めてくれて、
SSTの練習に協力してくれたことをうれしく感じ、
「自分の気持ちが伝わった」と思った瞬間、
30年以上自分と人を分け隔ててきた厚い壁に
ぽっかりと穴があき、暖かい風が吹き込んだということを
感動的に語っている。

『技法以前』184~



  □    □    □


《yo》

《何を大切にするか》

この女性は、統合失調症になる前は、
「健常者(健常児)であり、
ふつうの子どもと見なされて育ってきたのだと思います。

病気を抱えながらの、この「当事者研究」の内容をみれば、
この女性がとても賢い人だということもよくわかります。
そして、たとえ知的な障害がなく、学校の勉強ができても、
この人が生きづらい子ども時代を過ごしてきたことも
伝わってきます。

こうした「孤立感」「人とのつながり…の希薄感、寂しさ」
といった苦労は、仮に小学校の先生が気づいたとして、
「特別支援的」なことが、可能だろうか?
それが少なくとも、「読み書き、算数」的な
ものでないことは確かです。
そんなことで「自信をつける」ことでないことは
分かります。

それなのに、「知的障害」の子のためといって、
「読み書き算数」の発達を
迷いなくトップにおけるのはなぜだろう。

知的や自閉の障害があれば、岩田さん以上に、
こうした「人と人とのつながりに苦労し」、
「苦しみ」を自らに抱え閉じこめやすいのは明らかなことに、
私には思える。

その感情への「配慮」や、具体的な人とのつながりの「配慮」が、
特別支援教育ではまったくといっていいほど
語られないのはなぜだろう?


《理由》

そうした高度な人間的な悩みを、
「知的」に障害のある人間が持つ訳がない。
IQの低い人間が人間的な悩みを悩めるはずがないという
偏見があるのだと、私は感じてきました。

まして、「子ども」なら、なおさらです。
「人の心の悩み」「人間関係の悩み」など
抱くわけがないだろうと、
本気で思っている人がたくさんいます。

たとえ、子どもがひどい目にあい、
トラウマ的経験をしたにしても、
「子ども」なんだからすぐに忘れる、
と見なされているようです。

子どもがそうした「悩み」を持ち続けるものではない。
楽しいことがあれば、すぐにそちらに気を取られ、
その前の悩みなどすぐに忘れるだろう。
そした子ども差別を感じてきました。

そしていま、「発達障害」という投げ網で、
大勢の子どもたちが、「特別支援教育」の場に、
「丸投げ」されているように見えます。

それが「通級」なら、「分けている」意識は、
今まで以上に希薄でしょう。
その延長で、通級の時間の割合が「逆転」し、
「固定の特別支援学級や学校に、籍が移っても、
「普通学級」の担任は、丸投げ完了、
自分がつきあい方の分からない子どもを、
「専門家に任せた、預けた」と、
自分の責務を果たしたように感じるだけで、
そこに後ろめたさを感じることなどないでしょう。

この「軽度」の子どもたちの大量移籍は、
より重い障害、の子どもたちの「分離」を、
さらにスムーズにします。

教師の後ろめたさ、躊躇、といったものが、
「特別支援教育は今までの特殊教育とは違う」とかいいくるめ、
「個別のニーズに応じる新しい教育」「インクルージョン」という、
新しげな心地よい「分離を包括する」言葉によって、
さらなる分離を進めるのでしょう。

今の、特別支援教育の繁盛ぶりは、
文部科学省や特別支援教育の専門家たち、
「特別支援教育士」とかいう新しい資格を発明する人たちの
勝利なのでしょうか。

(つづく)
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