ワニなつノート

勝手に翻訳(または、勝手に妄想)

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◆【原文】 『技法以前』 P188


彼女は、自分の生きづらさの根源を「さびしさ」や
「自分の居場所がない虚しさ」だったと説明し、
そのつらさが蓄積するたびに迷惑行動などを起こして、
一時的な逃避を続けてきた。

その迷惑行動こそ、人とつながる最終手段だった。

「人とつながる」という生命線を確保するためには、
周囲に叱責され、非難を浴びる。
むしろそれ自体が、生き延びるための手段と化すのである。


【ああ、この中にいたら治るかもしれない……】

人の身体は、「人とのつながり」という生命線を維持するために、
ありとあらゆる手段を講じる。
しかし、身体的な欲求にもとづいた充足行動は、一時的で破壊的で、
結果としてさらなる孤立と孤独を本人にもたらす。


…あるとき、自殺未遂で入院している人が
入院に至るエピソードを話してくれたことがあった。

「すごく思いつめて橋から川に飛び込んだんだ。
でも苦しくてつい泳いでしまったのさ。
そしたら俺は泳ぎがうまいから岸まで泳ぎついじゃったんだよね。
それで通りかかった人に通報されて入院してしまったんだ」

そこにいたメンバー全員が大笑いになった。
わたしはそのとき心の中で、彼が橋まで行って
川に飛び込む様を思い浮かべて「さぞつらかったどうなあ」
と思ったが、それでも話を聞いたらやっぱり笑ってしまった。

でもその笑いは冷たい嘲笑ではなく、温かい笑いだった。
彼が苦しかったことをみんなが一緒に感じながら
笑っているようだった。

心のなかで悲しみを分け合いながら笑っている感じがし、
その場にいて気持ちが温まる感じがしたのを覚えている。

そして、私はそのときに初めて、
「ああ、自分はこの仲間の中にいたら病気が治るかもしれない」
と思った。
            ◇

そこには、身体が直接的に訴えるさびしさや不安を越えて、
お互いのもつ弱さを認め合った、
懐かしい人と人との心地よいつながりの風景がある。

もしかしたらそれは、いまの精神医療が
もっとも忘れかけているもののように思う。
そして、そこに我が国の精神医療福祉施策の閉塞感を打ち破る
大切な鍵があるような気がしている。



   ◇    ◇    ◇


【勝手に翻訳(妄想)A】


彼女は、自分の生きづらさの根源を「さびしさ」や
「自分の居場所がない虚しさ」だったと説明する。
その「さびしさ」は、どこからきたか。

子どもに「障害」があるとわかったとたん、
夫も姑も態度が変わってしまった。
「どうして、おれの子が、こんなにできがわるいんだ。」
「うちに家系には、こういう子はひとりもおりません」

子どもが産まれる前、一緒に母親教室に通った友人も、
子どもに障害があると話してから、みんなどこかよそよそしくなった。
「遅れがあるってどれくらい?」
「それじゃあ、情報交換もできないわね。」
「わたし、しょうがいのことって、よくわからないから。」

私だって、子どものことも、障害のこともよくわからない。
子育ての情報交換しようねと、産まれる前に話したことはある。
でも、障害がわかったとたん、
「情報」を交換する意味がなくなったという。

友達にとって? 私にとって?
どっちでも同じ事かもしれないけれど。
そのつらさが蓄積するたびに、
誰か、私の話を聞いてほしいと思った。
子育ての情報交換・・・がしたいと思った。
それは、障害児の親の会だった。
そこでは、みんなやさしかった。
親も子も、同じような経験をしているのが、手に取るようにわかったし、
だから、つっぱる必要もなかった。

子どものための情報もいっぱいもらえた。
それは「障害児」の育児情報であるよりは、
「子育て情報」として、私にはうれしいことだった。
私がこの子の親として、「人とつながる最終手段」がその場所だった。

「人とつながる」という生命線を確保するためには、
「同じ障害の子どもをもつ親」という部分でつながるしかなかった。
それ以外に、私の居場所は見つからなかった。
それは、私が親として、子どもを捨てないで
生き延びるための道でもあった。

          ◇

人は、「人とのつながり」を維持するために、
ありとあらゆる手段を講じる。
しかし、身体的な欲求にもとづいた充足行動は、
子どもの屈辱をみないことであり、
子どもの本当の欲求に目をつぶるしかなかった。

いわゆる障害児の「親の会」とは、
そういう、親自身の生きづらさ、親の居場所のなさ」を回避し、
「人とつながる」ための手段であり、
それが「社会とつながる手段」として機能してきた。

そして、そのために、「子ども」は、長い間、
犠牲にされてきたのではなかっただろうか。

「犠牲」にされているそのことを、隠すために、
「障害児のための」教育や施設・養護学校が次々とできてきた。
特殊学級や養護学校の「予算」の多さは、
これだけの「予算」お金をかけているのだから、
それは「子どものために、親が(会)ががんばってきたのだ」と、
自分たちに言い聞かせるためだったのではないか。

それが、親が、障害児を産んだがゆえに、
様々な差別を受けて、生きる苦労を「理不尽に抱え込んで
生きていかざるを得なくなってしまった」と感じたとしたら、
そこから、「人とつながる」事を確保するために
一生懸命がんばるに違いないだろう。


   ◇    ◇    ◇


【勝手に翻訳(妄想) ワニなつ編】


例会で、あるお母さんが、
「うちの子、入学式の始まる前から、
泣きだしてしまって大変でした…」と話した。

すると「うちなんか、入学式の校長のあいさつのとき、
校長のマイクをとろうとして大変だった」とか、
「うちなんか、最初から最後まで、
保護者席にしがみついて離れなかった」とか次々と話し出す。

入学式の後の、「1年生を迎える会」で、
2年生が「おむすびころりん」をやった。
そのとき、うちの子は、劇の途中に舞台にあがって、
大きなおむすびをとって逃げ出してしまって」と、
入学式の失敗談や大立ち回りが披露され、みんなが大笑いする。

私はそのとき心の中で、子どもがステージにあがって、
劇の大道具を持ち去ってしまう光景を思い浮かべて、
親は「さぞ恥ずかしかっただろうなあ」
「居たたまれなかっただろうな」と思ったが、
それでも話を聞いたらやっぱり笑ってしまった。

でもその笑いは冷たい嘲笑ではなく、温かい笑いだった。
彼女が苦しかったことをみんなが一緒に感じながら笑っているようだった。
心のなかで悲しみを分け合いながら笑っている感じがし、
その場にいて気持ちが温まる感じがしたのを覚えている。

そのつど、クスクス笑ったりして切ないんだけど、
みんなでワイワイやっている場面があるんです。
そのおかしみの中に自分もいて、いっしょに笑って、
「もしかして、ここにいたら、へんな遠慮をしないで、
ありのままの子どもと生きていけるかもしれない」と彼女は思った。

医者や専門家が、薬や個別指導で、
この子を「教育」してくれれば、私は安心なんじゃなく、
普通の学校の中で起こってしまう「恥ずかしい話」を、
「すべらない話」のようにして、オープンに話し、
少し距離をおいて見てくれる仲間の笑いの中で、
私の「恥ずかしさ」「居場所のなさ」も、
この子の「失敗」も、救われるような気がする。

だって、この子の「失敗」は、誰かを困らせようとか、
壊そうとしているのではなく、むしろ、初めての出来事に、
一生懸命参加し、適応しようとがんばっている姿でもあるのだから。

人とせめぎあいながらそこにいることに、
この子の社会「参加」の仕方、集団への適応の仕方、
社会のルールへの順応の仕方を、
そうして、小さい子供のうちに、一つ一つ、ぶつかったり、
怒られたりしながらも、成長していく道がある。

だって、この子は「子ども」なんだから、
知らないこと、自分で確かめてみないと安心できないことがあって、
当たり前なんだ。
その経験のすべて、トラブルや、苦情、笑い話、の
エピソードの数々こそが、この子が成長していく大事な基盤になるのだ。

       ◆

そんなふうに今まで考えたこともなかったけれど、
こうした過程もまた、私の親として経験不足であるといえる。
私の経験の乏しさが、自分の「生きづらさ」「恥ずかしさ」
「この子をなんとかしなきゃ」の背景にあるから、
それを、「この子の問題」にすり替えないで、
自分で自分の問題に向き合わなきゃね。

この子も、私も、人の中で揉まれて、こすれて、
ゴツゴツした岩がつるつるの小石になるようなことが、
この子と私の自立と、社会への参加の回復につながっていく。
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