ワニなつノート

間違いだらけの通級選び





三好春樹さんの
『まちがいだらけの認知症ケア』という本を読んでいたら、老人の認知症予防?に、筋トレや脳トレが流行っているという話が載っていた。

そして、その効果云々が、どれほどいいかげんか、という説明が載っている。

それを、読んでいるうちに、ふと頭の中に、「間違いだらけの通級選び」というフレーズが浮かんできた。

三好さんの本を真似て書くと、こんな感じになる。



☆   ☆   ☆   ☆   ☆


特支教育(特別支援教育)が始まって、ますます「通級」がブームになっています。

なぜ、こんなに「通級」が繁盛しているのでしょうか。

「通級」すると、どんな効果があるのでしょうか。


「通級」で落ちついたという子どもの例が上げられたりします。

子どもが意欲をなくしたり、元気をなくしているとき、自分に話しかけてくれて、自分にできる問題を出してくれて、それができると一緒に喜んでくれて、誉めてくれる先生がいることで、子どもが元気になり、意欲的になることは当然あるでしょう。


その反対に、たった一人の個別指導から解放されることで、子どもらしさを取り戻し、元気になる子どももいるのです。

特支学級から普通学級に戻る子や、通級をやめて普通学級だけで過ごすことで、元気になる子どももたくさんいるのです。


子どものやる気、意欲、生き生きとした表情は、子どもの能力によって減ったり増えたりするのではありません。

その子どもの能力を、周囲がどう評価するのか、その子どもが、どう感じ、どう受けとめるかによって変わるのです。


障害児と呼ばれるその子に、「能力」がないから、普通学級が無理なのではありません。

子どもにとって、授業は、学校生活の中で、一番長い時間です。

つまり、子どもにとっては、授業は「生活」そのものでもあるのです。

それを私たちは「授業という生活」と呼んでいます。


その生活の中で、強いストレスや不安があって、そこから逃れるために、立ち歩いたり、教室から出ていったりすることもあるでしょう。

怒ったり、他の子に八つ当たりしたり、という場合もあります。

その子の生活の中で、ストレスや不安の理由が、すべて「勉強できない」ことであるとは限りません。

テストでいい点が取れないのは、あまりうれしいことではありません。
でも、本当につらくなるのは、そのことを先生に責められたり、友だちにバカにされたり、いじめられることではないでしょうか。

そのストレスや不安の理由を確かめずに、すべてその子の「障害」のせいにしてしまうと、問題はすり替えられてしまいます。

障害をもった子どもの苦しさや不安な気持ちを理解しようとせず、個人の能力だけに問題を矮小化して、特別支援の場、通級や別室に追いやるのではなく、0点でもその子らしく、生き生きと授業という生活を楽しんでいる子どもたちに、その理由を聞いてみたらどうだろう。


小学校でも、中学校でも、普通高校でも、テストは0点でも、毎日、楽しく学校に通っている子はたくさんいます。

「どうして、0点のままで、そんなに毎日、楽しそうに学校生活を送れるの?」

特に、年配の先生は子どもに教えておいてもらった方がいいかもしれません。

だんだん年をとるにつれて、物忘れが増えたり、今まで簡単にできたことも、だんだんできなくなっていくのですから。

その時に、できない姿で、堂々と人生を楽しむにはどうしたらいいのか。その秘訣を子どもに学んでおいた方がいいかもしれません。

80才や90才になっても、流行の筋トレや脳トレをさせられ、衰えないことを強制されて、トレーニングに追われて終わる人生を、私は送りたくありません。

不可抗力である老いに逆らうのではなく、人と人とのつながりの中で、できないことを抱えた姿で、堂々と日々の生活を楽しむにはどうしたらいいのか。

そのためには、何が大切なことなのか。

その答えを知りたければ、子どもに聞いてみるといいでしょう。

もちろん、言葉を話さない子どもには、文字や言葉以外の手段で聞かないといけません。ちゃんと質問ができなければ、ちゃんとした答は返ってきませんから。


「質問の仕方が分からない?」

「答えてくれている、その言葉がうまく聞き取れない?」


「こんな大事なコミュニケーション能力を、 学校で習わなかったのですか?」

「今までの人生で、どこかで誰かに教わったことはないのですか?」


…つい、そんなふうに言いたくなる。



           ◇



《通級を語るために確認しておきたい大切なこと》
(最初のメモ・01)

今回、名古屋でのテーマ「大切なこと」を考えていたら、Kさんのことを思い出した。
どうしてKさんことを…と考えているうちに、Kさんが「通級」に「だまされた」という言葉に、ちゃんと応えていなかったことに気がついた。

申し訳なかったと謝るだけじゃなく、通級に反対というだけじゃなく、
たぶん今も「だまされる結果」が待っている親子が、たくさんいるのだから、わたしが書けることを書いておこうと思った。


あの時、彼の通級に、足りなかったもの。

通級をするなら、誰か教師が把握しておかなければいけないこと。


30年前の、彼とお母さんの「通級」を思いだしながら。

ひとりの子どもに、一日、何時間か。週に一日、二日か。「通級」をさせるとき、担任および学年の先生が、必ず共通理解しておくべきこと。
そして、親子にちゃんと説明できるべき事柄について。



① いまいるクラスが楽しくて自分の居場所がちゃんとあれば、通級に行きたい子は誰もいないということ。そういう子どもの思いを、まず分かっていること。

② それでも、通級に行くと本人が言うとき、その子どもの思いを、いくつ思い浮かべることができるか。

③ そのクラスの担任は、その子を、クラスの大事な一員だと考えているか。
それとも、自分の力量では持てあましていて、誰か専門家なら、もっとこの子に上手に教えることができるんじゃないかと考えているのか。
通級は、その子の事情なのか、教師の力量の事情なのか、それをちゃんと分けて考える分別があるか。

④ 通級にでかける理由はどちらであれ、だれか一人が通級しているとき、クラスの他の子どもたちに、籍と席がある限りはこのクラスの一員であり、いつでも気軽に戻れる安心と、クラス全体の雰囲気を配慮できているか。

⑤ クラスに、その子をいじめたり、いなくなってほしいと感じている子どもがいるかどうかを、担任は把握できているか。

⑥ その子は、クラスの中で、どんなポジションにいるのか。

⑦ 担任は、その子の感情を受け止めて、なお「通級」から帰ってくる子を守る力量が自分にあるかと問うているか。

⑧ 通級で、その子の学力があがると考えているか。

⑨ 通級の結果、どれくらいの期間で、その子がクラスに戻れると、考えているか。

⑩ 通級で、その子のコミュニケーションスキルがどれくらいあがると考えているか。

⑪ 通級の目的と限界と、現実的な一年後の子どもの状況を思い浮かべることができているか。

⑫ その現実を、親は理解しているか。
 それを親と話し合う関係ができているか。


・・・とりあえず、思いついたこと。



          ◇


《通級を語るために確認しておきたい大切なこと》
(最初のメモ・02)



《通級をすすめる前の確認事項 (チェックリスト) 》


[1] 通級に行くことが、真に「状況の支援」のためであり、誰でも歯が痛いときには歯医者に行くように、ただそれだけの、「状況の支援」だと、「抜き出して個別指導」することの意味と限界を、担任として理解しているか。

[2]それを、子ども自身が理解しているか

[3]それを、周りの子どもが理解しているか

[4]それを、子どもの親が理解しているか

[5] 「状況の支援」とは、ある一定の期間のことだという、了解ができているか

[6]たとえば、歯科の矯正の説明のように、その効用と期間と改善の見込みを、きちんと説明した上での了解を得ているか。

[7]たとえば、外国から来たばかりの子どもへの「日本語の個別指導」のように、個別の配慮が必要な意味と、期間と、「みんなと一緒に過ごす時間」の中での、「日本語をめぐる状況の支援」が、どれくらい考えられているか。

[8] 大人の理屈や事情がどうであれ、みんなと違う扱いをされる、「分けられる子どもの恥ずかしさ」を理解しているか。

[9] 「恥ずかしさの体験」が、子どもの一生背負う生きづらさの原因になることがあると、理解しているか。

 みんなと「別」に扱うということ、それが子どもの命を救う「入院」であれ、家族や友だちと分けられた子どもは、「何か自分が悪いことをしたから、だいすきな人たちと分けられてしまった」のだと感じることがあると、「子どもの気持ち」(心理)にきちんと配慮ができているか。


[10] 骨折や火傷で入院したのであれば、ある期間が過ぎれば退院して、家族の元へ、友だちのなかへ還ることができる。

 でも、たとえば、両親が事故で亡くなったときには、子どもはそれまでの生活の場から「施設」へいくこともある。

 その場合、子どもの中で「個別」は一生つづく。

「通級」であれ、「個別指導」であれ、大切な居場所から子どもを抜き出すということは、子どものこころに「副作用」のおそれがあると、理解しているか。


[11] それは、「自己肯定感」を長期にわたって、損ねる場合がある。

 その後の人生で、学びの場面だけでなく、人間関係や、仕事の面においても、あらゆる場面で、たとえ不足がないときにも自分に足りないものがあると間違わせる「おそれ」を与えることがある。

 その「初期設定」を行う危険があると、理解しているか。


[12] そもそも、大人は、「子どもの《恥ずかしさ》を分かってあげる感覚が足りない」という自覚があるか。


・・・で、いろいろ考えているうちに、このブログの左上の言葉に戻る。


いっぱいサイコロを振って、いっぱい進んだように思ったのに、結局は「振り出しにもどる」ってやつだ(゜o゜)




《子どもの屈辱をわかってやる感覚が、
私たちにはまだ備わっていません。

子どもを尊重しその傷ついた心を知るというのは、
知的な行為ではありません。

もしそれがそんなものだったら、
もうずっと前に世間一般に広まっていたことでしょう。》 

(アリスミラー)







《子どもの「通級」を後悔しないための チェックリスト》《2017》



① 子どもへの敬意あるクラスなら、「通級」に行きたい子は誰もいない。その本来の子どもの姿と思いを了解しているか。


② 本人が「通級」を望むとき、その子どもの「事情」と「思い」を聞けているか。


③ 担任は、その子をクラスの大切な一員だと考えているか。それとも、他にもっと適当な場所があると考えているか。


④ 担任は、通級している子どもが、安心して戻れる席とクラスの雰囲気を配慮できているか。


⑤ クラスにいじめはないか。その子がいない方がいいという言葉はないかを確認したか。


⑥ 「通級」の「目的と期間」について、担任と親の共通理解はあるか。


⑦ 担任と親は、一年後の子どもの状況の想定を話し合っているか。

⑧ 上記を子どもに説明できているか。

                           以上

《2017年12月7日作成》




            □



2018/2/22

小夜さんの最新ことば(その1)




昔、桂枝雀の落語が好きだった。

それと同じ感じで、小夜さんの話しが好きだった。

小夜さんの書いたものも好きだが、小夜さんの話しはもっと面白い。

でも、ここ何年か、昔のようにたくさん話を聞く機会がなかなかない…。

そんななか、「ちいさい、おおきい、よわい、つよい」の118号の小夜さんの話しはいい。

とても懐かしい小夜さんの語り、そのままの文章が載っている。



      ◇


《「いいところ」探しにならないように》


「分けない」というのは、こんなふうに、いろいろなことが起こりうるもの。

「分けて」おいてから「交流」するのとは、前提がまったくちがいます。

私たちは、学籍として「分けない」「みんないっしょ」というのを貫いてきたつもりです。

「みんなの学校」というドキュメントがありますが、あれは、たいへんなこどもを教育するからということで人件費などが動いて「分けて」おいて、いっしょにしている。

「障害児だけどいっしょにしもらっている」という感じがして、それはちがうと思う。


そしてあの大空学校を「いい学校」にしているでしょう。

大空学校に移る前に通っていた学校はそのまま。


私は、いまいるところをよくしようとするとりくみでなけりゃいけないだろうと思う。

「あそこにいいところがある」じゃ、しょうがない。


「いいところ」を探していると、結局、施設に行くことになってしまうと思う。


そうじゃなくて、たとえ、最終的に家にいるとしても、「一緒に育った仲間」、そういう人が近所にいるかいないか、というのはちがうと思うんです。

コメント一覧

yo
古い記事へのコメントありがとうございます。

3年ぶりに読み返してみました。
自分ではすっかり忘れているので、新鮮な感じで読めました。

でも、世の中は、「通級」が繁盛する一方ですね。

今度、もう少し丁寧に書き直してみたいと思います。




2011.10.3
我が子の「不登校をしていたあの当時の気持ち」が、やっとわかり…涙が溢れてきました。
本当にいつもどうもありがとうございます。
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