ワニなつノート

あの子が、この子の支えになっている(その5)



あの子が、この子の支えになっている(その5)


子どもの幸せを心から願うことは同じ。
子どもを守りたいと心から願うことは同じ。

なのに、その子どもを育てていく場所として選ぶところが、障害のない兄妹とはまったく違う場所を選ぶのはなぜなのか。


この子が「かわいそう」だから、「守らなければ」という場合があります。

もし「私だったら…」、「自分だけ、できない、のは辛い」。
「いじめられたり、からかわれたり、そんなかわいそうな子どもを、何人か見てきた」
わが子が、あんなふうにされたらと、考えるだけで耐えられない。

だから、「障害」のあるこの子には、「障害のない親の私たちとは「別の道」「別の学校」、この子に合った学校がいい、と選ぶことがあります。

たとえば、ある母親は特別支援学校を選んだ理由を、次のように書いています。

          ◇

「普通学級も考えたけれど、確かにいろいろな知識を吸収したり、団体行動も大切かもしれないけど、みんなが同じレールの上を同じスピードで走るような教育って、正直どこかしら違和感を覚えてしょうがないの。流れていく時間は同じでも、ひとりひとりの時計はそれぞれの速さで動いてもいいんだと思うの。

「わたしはこの子に、勉強ができる子になってほしいとも思ってないもの。
字が読めて、電卓で計算ができて、人とそれなりにコミュニケーションがとれれば、それで十分なの。それより何より、人の気持ちに気づいてあげられるような子、感情や精神面が豊かな人間になってほしいのよ。」(※)


            ◇

もしこの言葉が、健常児と言われるわが子について語られていたら、わたしも「そうだね」とうなずくかもしれません。

でも、これが「障害」児の特別支援学校を選ぶ理由として語られるとき、自分の中に気持ち悪さが残るのです。
たとえば兄妹はどうするの?と思います。
たぶん、現行の学校教育は疑問だから、学校には行かせない、とはならないでしょう。
もし、兄妹も特別支援学校に行かせたいと思っても、現実には無理です。

それは、「親の私たちとは別の道、別の学校」、「兄妹とは別の道、別の学校」という生き方のなかに、「この子の幸せはある」ということにならないでしょうか。

「この子」はそんなことには気づかない、でしょうか。


親子で分けられるかなしみを感じる子どもはいます。
兄妹で分けられるかなしみを感じる子どもはいます。

わたしは出会った子どもたちから、そのことを教えてもらいました。


「何より人の気持ちに気づいてあげられるような子、感情や精神面が豊かな人間になってほしい」と心から願うのなら、分けられることの「こどものかなしみ」へのおそれを持っていなければと思うのですが…。



(※)本来なら、引用文献を明示すべきなのでしょうが、その本や著者を批判したい訳ではないのであえてここには書きません。
立ち読みした本なので書名も忘れています。


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