作家・城山三郎さんが今朝、亡くなられたそうです。
79歳でいらしたとか。
もうそんなお歳になられていたかと、
歳月が経つ早さを改めて感じました。
「総会屋錦城」
「小説日本銀行」
「黄金の日日」
「価格破壊」
「役員室午後三時」
「毎日が日曜日」
「落日燃ゆ」
……等々、経済小説の第一人者でいらしたことは、多くの方がご存知の通りです。
一度だけ、お目にかかったことがあります。
1981年6月でしたから、はや26年前。
その年、会社設立30周年を迎えた私の勤務先が、
発行する情報紙の「記念特集号」を出すことになり、
そのメーン企画として、
城山さんと、ある著名経済人との対談を企画したのです。
手を尽くして調べたご自宅に、「ダメでもともと」と、いきなり依頼の電話を掛けました。
すると――、
「モシモシ、城山です」
まさかご本人がいきなり電話口に出ていらっしゃろうとは予想していなかっただけに焦り、
あとで周りに居た者に聞くと、
私の声が少し、裏返っていたそうです。
その、たった1本の電話だけで、
拍子抜けするほどあっさりと対談のお願いを快諾していただけたのは、
依頼者の私どもが、城山さんのご出身地である名古屋に本社を置く会社だったことに加え、
対談をお願いしたお相手が、
某大手総合商社の社長・会長職を18年間も務められたE氏で、
戦後の日本経済の復興に大きく貢献してこられた、経済人なら誰しもご存知の著名人であるにもかかわらず、
たまたま城山さんはそれまでお会いになる機会に恵まれず、
いつかはぜひと、ご自身もかねがね思っていらした方だったという偶然が、重なったからのようでした。
おかげで、対談は成功裏に終わりました。
「とても面白かったよ」「対談を、よく実現させたね。君の会社を見直したよ」などという褒めの電話も、何本かいただきました。
編集者冥利に尽きる喜びを感じさせていただいた思い出を、忘れることができません。
――が、そんな自慢話を、
今日書こうとしたわけではありません。
東京の某ホテルを借りて夜、行なったその対談が終わった翌日です。
一泊して会社に戻った私のデスクの上に、1枚の伝言メモが置いてありました。
メモには、こう書かれていました。
「城山さんから電話がありました。『お世話になりました。ありがとう』とのことです」
大作家にもかかわらず、
城山さんは、
そういう方でもあったのです。
そして、
その時のこぼれ話を、もう1つ。
城山さんと対談していただいたEさんのことです。
お名前を書くのは差し控えますが、
対談会場の都内某ホテルの和室に到着したEさんは、
部屋に入り、城山さんや私たち主催者と一通り挨拶を終えると、
対談の机に座る前に、
部屋の床の間に向かって正座なさったのです。
Eさんはそのまましばらく、掛け軸や活けられた花を眺めた後、
こちらを振り返って、尋ねられました。
「このお花は、ホテルの?」
「いえ、私どもで用意させていただきました」
と答えると、
Eさんは頷きながら、
「そうでしょうな。いいお花です。気ぃ使わせて、悪かったですな。ありがとう」
城山さんといい、
Eさんといい……。
社会的地位がどれほど偉くなっても、
「ありがとう」という、周囲への感謝や労いを、ごく自然に口に出来る大人が、
一人、また一人と去って行くような寂しさを、
今日、城山さんの訃報を聞いて、
しみじみ感じたのです。
城山さんのご冥福を、謹んでお祈りいたします。
合掌
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79歳でいらしたとか。
もうそんなお歳になられていたかと、
歳月が経つ早さを改めて感じました。
「総会屋錦城」
「小説日本銀行」
「黄金の日日」
「価格破壊」
「役員室午後三時」
「毎日が日曜日」
「落日燃ゆ」
……等々、経済小説の第一人者でいらしたことは、多くの方がご存知の通りです。
一度だけ、お目にかかったことがあります。
1981年6月でしたから、はや26年前。
その年、会社設立30周年を迎えた私の勤務先が、
発行する情報紙の「記念特集号」を出すことになり、
そのメーン企画として、
城山さんと、ある著名経済人との対談を企画したのです。
手を尽くして調べたご自宅に、「ダメでもともと」と、いきなり依頼の電話を掛けました。
すると――、
「モシモシ、城山です」
まさかご本人がいきなり電話口に出ていらっしゃろうとは予想していなかっただけに焦り、
あとで周りに居た者に聞くと、
私の声が少し、裏返っていたそうです。
その、たった1本の電話だけで、
拍子抜けするほどあっさりと対談のお願いを快諾していただけたのは、
依頼者の私どもが、城山さんのご出身地である名古屋に本社を置く会社だったことに加え、
対談をお願いしたお相手が、
某大手総合商社の社長・会長職を18年間も務められたE氏で、
戦後の日本経済の復興に大きく貢献してこられた、経済人なら誰しもご存知の著名人であるにもかかわらず、
たまたま城山さんはそれまでお会いになる機会に恵まれず、
いつかはぜひと、ご自身もかねがね思っていらした方だったという偶然が、重なったからのようでした。
おかげで、対談は成功裏に終わりました。
「とても面白かったよ」「対談を、よく実現させたね。君の会社を見直したよ」などという褒めの電話も、何本かいただきました。
編集者冥利に尽きる喜びを感じさせていただいた思い出を、忘れることができません。
――が、そんな自慢話を、
今日書こうとしたわけではありません。
東京の某ホテルを借りて夜、行なったその対談が終わった翌日です。
一泊して会社に戻った私のデスクの上に、1枚の伝言メモが置いてありました。
メモには、こう書かれていました。
「城山さんから電話がありました。『お世話になりました。ありがとう』とのことです」
大作家にもかかわらず、
城山さんは、
そういう方でもあったのです。
そして、
その時のこぼれ話を、もう1つ。
城山さんと対談していただいたEさんのことです。
お名前を書くのは差し控えますが、
対談会場の都内某ホテルの和室に到着したEさんは、
部屋に入り、城山さんや私たち主催者と一通り挨拶を終えると、
対談の机に座る前に、
部屋の床の間に向かって正座なさったのです。
Eさんはそのまましばらく、掛け軸や活けられた花を眺めた後、
こちらを振り返って、尋ねられました。
「このお花は、ホテルの?」
「いえ、私どもで用意させていただきました」
と答えると、
Eさんは頷きながら、
「そうでしょうな。いいお花です。気ぃ使わせて、悪かったですな。ありがとう」
城山さんといい、
Eさんといい……。
社会的地位がどれほど偉くなっても、
「ありがとう」という、周囲への感謝や労いを、ごく自然に口に出来る大人が、
一人、また一人と去って行くような寂しさを、
今日、城山さんの訃報を聞いて、
しみじみ感じたのです。
城山さんのご冥福を、謹んでお祈りいたします。
合掌
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