まだ一輪だけでしたが、
蓮の花が咲いているのを今朝、
今年初めて見ました。
毎朝立ち寄る名古屋市北区「名城公園」の蓮池で。
カメラを向けていると、
同世代と思しき男性が近づいてきて、
声を掛けてきました。
「今年は、(咲くのが)少し遅いようですね」と。
私にそう話し掛けながら彼は、
手にしたメモ帳に何かを書き込んでいます。
「毎年観察なさっているんですか?」
「ええ。バードウオッチングのついでに」
たしかに、双眼鏡を首からぶら下げていました。
今朝の会話がきっかけになり、
次にまた会えば、挨拶を交わすことになるのでしょう。
最近、「公園でのお友達」が、だんだん増えています。
ところで、
「蓮」と「睡蓮」の違いが良く分からなかったので、
調べてみました。
「蓮」は、葉や花が、水面からさらに伸びて立ち上がりますが、
「睡蓮」は、葉も花も、水面上に浮かんだままです。
なるほど、
花はそっくりでも、
違いを知れば一目瞭然だったんですね。
もう1つの違いは、葉っぱです。
「蓮」の葉は、撥水性があるので水をはじき、雨が降れば葉の上に水の球を作りますが、
「睡蓮」は、水をはじかないので、水の球ができません。
この違いも、激しく納得です。
もうこれで、見間違えませんよ。
それと、
「一蓮托生」という言葉がありますよね。
たとえば時代劇で、悪代官と悪徳商人が、
「この企てがバレたら、オレもお前も一蓮托生、牢屋入りだ。絶対に漏らすでないぞ」
などと、最近はダーティな意味合いで使われることが多いですよね。
実は、
そんな使い方をしているのを仏様に聞かれたら、怒られそうです。
仏像・仏画には釈尊が蓮華の上で瞑想している姿をとらえたものが多いのは、
仏教の世界で「蓮」は、「極楽浄土」を象徴・意味する、とても崇高な花だからです。
ですから「一蓮托生」というのは本来、
良い行いを積んだ者が、
生まれ変わってもまた同じ浄土で出会おうねという
願いを込めた言葉なのだと、
調べてみて分かりました。
今日もまた少し引きずっていて申し訳ないのですが、
美しく、気高いこの蓮の花をファインダーから覗いていると、
やはり、想ってしまいました。
誰かがこの池に投げ込んだらしいという、捨て子ネコたちのことを。
彼らはいま、
天国の蓮華の上で、
互いにじゃれ合いながら遊んでいるのでしょうか。
もしかすると彼らのために、
この池の蓮は今年、
いつもより少し遅めに花を咲かせてくれたのかも、知れません。
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