乱鳥の書きなぐり

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映画『残菊物語』1939年版 監督 溝口健二(溝口監督作品の『芸道三部作』の一つ) 花柳章太郎 森赫子

2019年03月25日 | 映画
 写真は  『御迎船人形図絵』のうちの「三番叟」 高島幸次  翻刻・解説 東方出版(大阪) 1996年




 映画『残菊物語』1939年版 監督 溝口健二(溝口監督作品の『芸道三部作』の一つ) 花柳章太郎 森赫子



 ほぼ実話に基づいた名門歌舞伎役者菊之助と義弟の乳母との悲恋と言われているが、二人にとって悲恋というにはあまりにも深い愛情で、お得は夜の船乗り込みの賑わいを感じ取りながら、実際には満足感に満ちた息の引き取り方をしたのではないであろうか。


 上にも書いた船乗り込みは当時健在であった大阪角座の興行で、映画で見る限りでは、当時は夜に行われたものと考えられる。

 現在では七月、松竹座の七月大歌舞伎で船乗り込みが行われているが、昼間である。


 二代目尾上菊之助は、菊五郎の傘下にあり、周りからは萌え生やされていたが、裏では大根役者と陰口を叩かれていた。

 放蕩息子の菊之助をを、子守のお徳が諌める。

 民俗学の本には度々出てくるが、昔、子守という立場は差別されるほどに身分が低く見られていた時代もある。子守と関係を持った村の若人は、村八分にされたという事実のあるとのこと。そういった時代とは時代や地域が異なるのかもしれないが、身分違いという問題は私たちが想像をする以上に酷いものであったに違いないであろうと思われる。  

 だが、心底菊之助の芸のことを重い愛情を持って忠告下たった一人の人間であるお得に、菊之助は愛情を抱く。


 子守を解雇され、奉公先を追い出された彼女を追う菊之助。

 追ってきたのは雑な長屋。それでも菊之助の愛はお得に一途であった。


 その後色々と話は展開。

 病気になってでも菊之助の晴れ舞台を望み、秒針に鞭打ち福助にお願いにあがる姿は、女の鏡とも言える。

 福助の行為で役代わりをしてもらい、『薄墨の桜』の主役を張らせてもらった菊之助は、見事にいい芝居を演じる。

 皆に認められ、船乗り込みという大役があっても音羽屋は実力が伴った菊五郎に対して好意的で、
「女房のところに行ってやれ、こんなに立派な役者のしてくれて、礼を言っていたと伝えてくれ。」
と、促してくれる。

 菊之助はお得のところに駆け込んだが、息絶え絶えに
「役者はご贔屓筋を大切になさらなくちゃなりませんわ。早く、船乗り込みに行ってください。私とはあとで会えるのですもの…」
と、健気に役者としての菊之助を大切に思い、船乗り込みに向かわせ、船乗り込みの賑わいを感じながら、幸せに息を引き取る。

 芝居の好きな私にはたまらなく興味深い映画であった。


 話は劇中劇に飛ぶが、映画に劇中劇が多く、例えば松羽目物の音楽が鳴り始めると
鳥「石橋(しゃっきょう)だわ。」
夫「うん。」
鳥「最後の演出構成が違うね。」
夫「そう だね。」

 また、『薄墨の桜』では
鳥「これって芝翫で浮世絵持ってるよね。」
夫「うん。」
鳥「ここで着物広げて見得を切るよね。」
夫「そう だね。」

鳥『あなたは、うん そう 屋か!』
 と、内心、夫に突っ込んでいた。


 ところで、話は「石橋(しゃっきょう)」に戻るが、映画では今と違って、花道の73, 64を通り越して、一人は花道のかなり真ん中までかけずり走って、見得を切る。

 今の演出とは全く違う舞台に面白みを感じた。


 また旅芝居、あるいは小芝居というのであろうか?

 興行先では劇団長がドロンして劇団員がドロンをしたり、同じ劇場で女力士の興行が貼られたりと、舞台好きの私にとっては大変楽しい場面が多くあった。


 映画『残菊物語』は、あれこれ楽しい時間を過ごすことができる秀作だと感じます。








 残菊物語(以下のデーターは、Wikipediaより ▼)

『残菊物語』(ざんぎくものがたり)は、村松梢風による日本の短編小説、および同作を原作とする新派の戯曲、日本の映画、日本のテレビ映画である。

 1937年(昭和12年)9月、「サンデー毎日」増刊号に掲載され、翌年に同題の小説集が刊行された。
 1937年10月には、巌谷慎一の脚本により新派劇となり、明治座で上演されている。
 さらに1939年(昭和14年)に溝口健二監督、1956年(昭和31年)に島耕二監督、1963年(昭和38年)に大庭秀雄監督が映画化、1967年(昭和42年)には塚田圭一がテレビ映画化している。


 あらすじ
 歌舞伎役者・二代目尾上菊之助の悲恋の物語。
 身分違いの恋を全うして芸の道に励み、妻は悲しい結末を迎えるが、菊之助は素直で誠実で情愛のこもった人物として描かれている。



 映画『残菊物語』 1939年版

 監督 溝口健二
 脚本 依田義賢
 構成 川口松太郎
 原作 村松梢風
 製作総指揮 総監督 白井信太郎
 出演者 花柳章太郎
     森赫子

 音楽 深井史郎
 撮影 三木滋人
     藤洋三
 編集 河東與志
 製作会社 松竹京都撮影所
 配給 日本の旗 松竹
 公開 日本の旗 1939年10月10日
 上映時間 146分
 製作国 日本の旗 日本

『殘菊物語』は、溝口作品の中でも評価されている戦前の映画であり、1939年のキネマ旬報邦画ベスト・テン第2位に入賞した。
 溝口の監督作品の『芸道三部作』の一つとして知られている(ただし、他の『浪花女』、『芸道一代男』は現存しない)。
 本作は、溝口作品の中で、ほぼ全てが現存する数少ない戦前作品となった(146分中143分現存)。
映像と音声をデジタル修復した版が制作されており、2015年にカンヌ映画祭でプレミア上映されて好評を博した。ブルーレイでも発売されている。


 溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、日本の映画監督。
 女性映画の巨匠と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。
 サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。
 完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的である。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。
 また、ジャン=リュック・ゴダールを始めヌーベルバーグの若い映画作家を中心に、国内外の映画人に影響を与えた。
 代表作に『祇園の姉妹』『西鶴一代女』『雨月物語』など。日本映画監督協会会員。

 来歴
 生い立ち
 1898年(明治31年)5月16日、東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれる。
 3姉弟の2番目で、3歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男がいる。
 父の善太郎は大工(屋根葺き職人、請負業とする説もある)で、日露戦争時に軍隊用雨合羽の製造をしていたが、戦争終結により事業は失敗。
 差押えを受けて、一家は浅草玉姫町に引っ越すことになった。

 1905年(明治38年)、私塾の田川学校に入学。
 一家の窮乏の口減らしのため、姉の寿々は養女に出される。
 寿々は養家から日本橋の芸者屋「三河屋」に奉公に出せられ、半玉となり、客の松平忠正子爵に落籍(後に正式に結婚し松平寿々となる)され一家の家計を助けた。
 1907年(明治40年)、同年開校の石浜小学校に入学。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた。
 6年生の時、盛岡で薬剤師をしている親戚に預けられ、そこで小学校を卒業した。
 1912年(大正元年)、東京に戻ったが、リウマチに罹り1年間闘病していた。

 1913年(大正2年)満15歳の時、浴衣の図案屋に弟子入り。同じ図案屋仲間の弟子に大久保忠素がいた。
 その後浜町の模様絵師に弟子入りし、1916年(大正5年)、赤坂溜池の葵橋洋画研究所(黒田清輝主宰・和田三造塾頭)に入って、洋画の基礎を学んだ。
 この時、研究所近くのローヤル館でジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーがオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたので、溝口もそれを手伝ううちに浅草オペラに夢中になった[2]。また、この頃から落語や講。。
 1917年(大正6年)、姉の計らいで名古屋の陶器会社の図案部に入ることになるが、働く気にはなれず、入社翌日には東京に戻った。
 1918年(大正7年)、神戸又新日報社広告部の図案係に就職するが、僅か1年で退職した。

 日活時代
 1920年(大正9年)、友人の琵琶の弟子だった日活の俳優・富岡正と親しくなり、日活向島撮影所に出入りするうち、若山治の知遇を得、同撮影所に入社した。
 俳優志願で入社したが、小口忠の助監督に就くことになり、やがて田中栄三の助監督として、彼の代表作である『京屋襟店』などの作品を担当した。
 
 1923年(大正12年)2月、若山のオリジナル脚本による『愛に甦る日』で24歳にして映画監督デビューを果たしたが、貧乏生活の描写が余りにも写実的過ぎたため検閲で大幅にカットされ、やむなくつなぎで琵琶劇を入れて公開したという。
 同年だけでも11本の監督作を発表しており、漁村を舞台としたメロドラマ『敗残の唄は悲し』や、ルパンを翻案した探偵劇『813』、表現主義風の『血と霊』など様々なジャンルの作品を作っている。
 同年9月1日、関東大震災が発生。その影響で京都の日活大将軍撮影所に移り、『峠の唄』『大地は微笑む 第一篇』などの佳作を手がけた。
 
 1925年(大正14年)5月、痴話喧嘩のもつれから、同棲中の一条百合子(別れた後、貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で切られるという事件が起きる。
 丁度『赤い夕日に照らされて』の撮影中の出来事であり、この事件で作品の監督を降ろされ、しばらく謹慎処分となる。しかし、9月には撮影所に復帰した。
 1926年(大正15年)、『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』などで下町情緒を描き、女性映画で独特の感覚を発揮していった。1927年(昭和2年)、ダンサーの嵯峨千枝子と結婚。

 1929年(昭和4年)には、左翼思想の高揚に乗じて『都会交響楽』などの傾向映画を作って、リアリズム追求に邁進し、翌1930年(昭和5年)製作の『唐人お吉』は大ヒットした。
 同年にはパートトーキーの『藤原義江のふるさと』を発表するが、技術的に拙く失敗作となった。

 新興キネマ・松竹時代
 1932年(昭和7年)、日活を辞めて新興キネマに入社。
 同社第1作は入江ぷろだくしょんと提携した『満蒙建国の黎明』で、満州で2カ月間ロケーション撮影を行った国策映画だが、興行的には大失敗した。
 1933年(昭和8年)、『日本橋』に続く泉鏡花作品の映画化となる『瀧の白糸』がキネマ旬報ベストテン第2位にランクインされ、興行的にも成功、溝口のサイレント期の傑作となった。
 1934年(昭和9年)の『神風連』を最後に新興キネマを退社して日活多摩川撮影所で『愛憎峠』を撮るが、日活多摩川での作品はこの1作のみとなった。

 同年9月、日活を退社した永田雅一が設立した第一映画社に参加。
 山田五十鈴主演・泉鏡花原作の『折鶴お千』などを経て1936年(昭和11年)、依田義賢とはじめてコンビを組んだ『浪華悲歌』そして、祇園を舞台に対称的な性格の芸者姉妹をリアリズムに徹して描いた『祇園の姉妹』を発表し、戦前の代表作となった。
 同年、永田の新興キネマ入りによって第一映画社は解散、溝口も首脳部や他のスタッフと共に新興キネマに入った。

 1937年(昭和12年)、日本映画監督協会の2代目理事長に就任し、1955年(昭和30年)まで務めた(1943年(昭和18年)に一旦解散し、1949年(昭和24年)に再結成されている)。

 新興キネマでは山路ふみ子主演の『愛怨峡』など3本を撮り、後松竹下加茂撮影所に移って村松梢風原作の『残菊物語』、田中絹代を初めて自作に迎えた『浪花女』、川口松太郎原作の『芸道一代男』といった芸道ものを製作。
 この3作は「芸道三部作」と呼ばれ、長回しのショットを基調とした演出スタイルをここで完成させていった。

 1941年(昭和16年)から真山青果原作の『元禄忠臣蔵』前後編を製作する。
 同作では厳密な時代考証を行ったり、松の廊下を原寸大に再現するなど完璧主義による映画製作が行われ、結果長い撮影期間と破格の費用をかけて完成された。
 作品は文部大臣特別賞を受けたものの興行的には大失敗するという苦汁を嘗め、これを機に溝口は長いスランプ期を経験することになる。

 戦後
 1946年(昭和21年)、絹代出演の民主主義的映画『女性の勝利』で復帰したが、不調が続き、翌1947年(昭和22年)に作った『女優須磨子の恋』も競作になった『女優』(衣笠貞之助監督)に評価が集中し、大惨敗した。
 1948年(昭和23年)、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性をシビアに描いた『夜の女たち』で長きスランプから復調。その後に『雪夫人絵図』(舟橋聖一原作)、『お遊さま』(谷崎潤一郎原作)、『武蔵野夫人』(大岡昇平原作)などの文芸映画を作るが、これも低迷した。
 1952年(昭和27年)、井原西鶴の『好色一代女』を基に、溝口同様スランプ状態に遭っていた絹代主演で『西鶴一代女』を製作。当初国内ではキネマ旬報ベストテン第9位の評価だったが、ヴェネツィア国際映画祭に出品されるや海外の映画関係者から絶賛され、国際賞を受賞
 海外で一躍注目され、国内でも溝口の評価が変り、彼は長いスランプをようやく脱することが出来たのである。

 1953年(昭和28年)、上田秋成の原作を幽玄な美で表現した自信作『雨月物語』が同映画祭でサン・マルコ銀獅子賞を獲得 (この年は金獅子賞の該当作がなく、本作が実質の最高位であった)。
 翌1954年(昭和29年)の『山椒大夫』でも同映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞
 3年連続で同映画祭の入賞を果たすという快挙を成し遂げ、一躍国際的に認知される映画監督となった。3年連続の同映画祭での入賞は、日本国内では他に類を見ない功績である。
 ほか『祇園囃子』『近松物語』等の秀作を生み出した。

 1955年(昭和30年)、大映の取締役の欠員1名の補充で衣笠貞之助と候補に挙がるが、衣笠が辞退したため、9月の株主総会で正式に大映取締役に就任、重役監督となった。
 11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章。
 この年にカラー映画に取り組み、『楊貴妃』『新・平家物語』の歴史大作を製作した。

 1956年(昭和31年)、売春防止法成立前の吉原の女たちを描いた『赤線地帯』製作後、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し、5月に京都府立病院の特別病棟1号室に入院し。
 病名は単球性白血病で、本人には病名を知らせなかった。
 また、白血病は当時の医学では手の施しようがなかったため、そのまま回復に向かうことなく、同年8月24日午前1時55分にこの世を去った。享年58

 同年8月に青山斎場で大映による社葬が営まれ、池上本門寺に付属する大坊本行寺に墓が建てられた(隣には溝口の友人の花柳章太郎の墓がある)。
 京都の満願寺にも分骨されており、そこには記念碑も建てられている。
 没後、勲四等瑞宝章を受章。1957年(昭和32年)、未完成の『大阪物語』の製作を吉村公三郎監督が引き継いで完成させた。

 受賞歴
個人
 1954年:ブルーリボン賞監督賞『近松物語』
 1954年:芸術選奨
 1955年:紫綬褒章
 1956年:毎日映画コンクール特別賞
 1956年:勲四等瑞宝章
作品
 ヴェネツィア国際映画祭
 『西鶴一代女』:国際賞
 『雨月物語』:サン・マルコ銀獅子賞
 『山椒大夫』:サン・マルコ銀獅子賞
 『新・平家物語』:出品
 『楊貴妃』:出品
 『赤線地帯』:出品
その他
 『西鶴一代女』:BBC選出「21世紀に残したい映画100本」
 『雨月物語』:アカデミー賞アカデミー衣裳デザイン賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞経歴賞
 『近松物語』:第8回カンヌ国際映画祭出品



  映画『残菊物語』
配役
二代目尾上菊之助:花柳章太郎
中村福助:高田浩吉
栄寿太夫:川浪良太郎
尾上松助:高松錦之助
守田勘弥:葉山純之輔
尾上多見蔵:尾上多見太郎
待合の客:結城一朗
新富座の頭取:南光明
小仲:伏見信子
茶店の婆:中川芳江
五代目尾上菊五郎:河原崎権十郎
お徳:森赫子
尾上多見二郎:花柳喜章
按摩元俊:志賀廼家辨慶
若い者:磯野秋雄
中村芝翫:嵐徳三郎
里:梅村蓉子

1956年版
残菊物語
Zangiku monogatari 1956 poster.jpg
『残菊物語』 1956年
監督 島耕二
脚本 依田義賢
原作 村松梢風
製作 永田雅一
出演者 長谷川一夫
淡島千景
音楽 大森盛太郎
撮影 長井信一
編集 西田重雄
製作会社 大映京都撮影所
配給 日本の旗 大映
公開 日本の旗 1956年4月23日
上映時間 112分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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配役
二代目尾上菊之助:長谷川一夫
お徳:淡島千景
五代目尾上菊五郎:沢村訥升
里:吉川満子
中村福助:伊沢一郎
中村芝翫:市川小太夫
栄寿太郎:黒川弥太郎
尾上松助:尾上栄五郎

1963年版
残菊物語
監督 大庭秀雄
脚本 依田義賢
原作 村松梢風
製作 白井昌夫
桑田良太郎
出演者 市川猿之助
岡田茉莉子
音楽 黛敏郎
撮影 厚田雄春
編集 相良久
製作会社 松竹京都撮影所
配給 日本の旗 松竹
公開 日本の旗 1963年10月17日
上映時間 105分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
テンプレートを表示
配役
二代目尾上菊之助:市川猿之助
お徳:岡田茉莉子
五代目尾上菊五郎:嵐寛寿郎
里:中村芳子
中村福助:津川雅彦
中村芝翫:市川小太夫
栄寿太郎:北上弥太郎
尾上松助:織田政雄

テレビドラマ
1967年12月14日 - 12月28日『シオノギテレビ劇場』(フジテレビ)にて放映。
監督:塚田圭一
出演:市川門之助、柳永二郎、池内淳子、市川翠扇、大矢市次郎、山茶花究、市川たか志、美田園子
音楽:渡辺岳夫
コメント (3)
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